2021年5月2日日曜日

狂おしき一日 La Folle journée 23

  ニコラス・ケンウッドは普段通りの時刻に起床し、軽くジョギングした。ハイネ局長も一緒だった。ジョギングを終えるとシャワーを浴び、朝食を取ったが、その間パーティーの話はどちらもしなかった。食堂を出るとケンウッドは中央研究所の長官執務室に行き、第1秘書のチャーリー・チャンと彼の留守の間の業務打ち合わせを行い、第2秘書ジャクリーン・スメアが出勤して来るのと入れ違いにドームの出口へ向かおうと部屋を出た。中央研究所の出口で彼は思わず立ち止まった。研究所前の広場にドーマー達が集まっていた。長官の顔を見るなり、彼等が一斉に声を上げた。

「ケンウッド長官、ご結婚おめでとうございます!!」

 ケンウッドは暫し呆然と立ちすくんだ。結婚を公言した覚えはなかったし、ごく一部の人にしか明かしていない。しかしドーマー達は家族だ。良いことがあれば喜びを共有し、悲しいことがあればそっと支え合う。ケンウッドは驚愕が収まると目頭が熱くなって、ちょっと戸惑った。

「有り難う、みんな!」

 そう言うのがやっとだった。 招待客であり護衛でもあるアキ・サルバトーレが紺色のジャケットに青と濃紺のストライプのタイを身に付けて前に出て来た。

「さぁ、参りましょう、長官。」
「そうしよう。みんな、仕事に戻りなさい。今日も良い1日を!」

 ケンウッドは救われた気分で彼と並んで歩き始めた。素敵なジャケットだと褒めると、サルバトーレが照れ臭そうに打ち明けた。

「シュリーが選んでくれたんです、前回のサンダーハウス訪問の時に。」
「ああ・・・そう言えば買い物のお供に君を強引に連れて行ったんだったね。」

 回廊は遠回りになるので医療区を抜ける近道を歩くと自然にヤマザキが合流した。

「ラナとサヤカとシンディはもう外に出たらしいよ。女性は美容室に用事があるからね。」
「それじゃ、ハイネは一人かね? これから我々に合流するのかな?」

 ケンウッドが懸念すると、サルバトーレが答えた。

「局長はゴメス課長と一緒に既に出られました。保安課の護衛グループとホテルに入られたそうです。」
「楽器の音合わせをするんだろう。」

とヤマザキ。違いますよ、とサルバトーレが苦笑した。

「ポール・レインが帰国したんです。簡単にですが一応任務の途中経過報告を聞くそうです。」

 ヤマザキはJ J・ベーリングの声帯手術の計画を聞かされていたので、それでは神経治療の専門家パーシバルとクローン製造の責任者ゴーンも彼等と会うのだろうと思った。

「レインから外国のドームの話を聞きたいなぁ。」

とケンウッドが呟いた。
 出産管理区の入り口でヴァンサン・ヴェルティエンとガブリエル・ブラコフが合流した。彼等は昨夜それぞれの昔の友人達と旧交を温め合ったのだ。ブラコフは彼が担当していた皮膚の研究室の仲間と、ヴェルティエンは文化人類学の同好会や秘書仲間と。

「まだ局長と出会っていないんです。」

 ブラコフはてっきりハイネがケンウッドと共にドームを出るのだと思っていたので、遺伝子管理局長がこの徒歩グループにいないことを残念がった。ヤマザキが笑った。

「ハイネは逃げないよ。ちゃんとホテルにいる。」

 ヴェルティエンはポール・レインがこれから巡回する予定の地域に関する資料を持参していた。レインが異文化で戸惑わないよう予習させるためだ。東へ行くほどに習慣が異なる。レインはアメリカ文化にどっぷり浸かって成長したので、最初のヨーロッパ行きの時にヴェルティエンがささやかな手引き書を作って端末に送ってやったら大喜びして、それ以来転地する度に質問の電話をかけてくるようになった。ヴェルティエンは長い間ドームで勤務していたが、レインとそんなに接触がなかったので、これは嬉しい体験だった。

「長官、申し訳ありませんが、パーティーの最中、僕等は仕事の話をしているかも知れません。」

 そう言うと、ケンウッドは笑って頷いた。

「構わないよ。それで君達が楽しいのであればね。」

 出会う人々からの祝福の言葉に、失礼とは思いながらも歩きながら返礼して、彼等は遂にゲイトの前に来た。
 ケンウッドは立ち止まって深呼吸した。

「副長官就任を要請された時はそんなに緊張しなかった。だから、長官に就任するユリアン・リプリーが遺伝子管理局長執務室の前で『もう引き返せないな』と言った時は他人事の感じで『毎日の挨拶と同様に肩の力を抜いて下さい。』と励ましたんだ。長官に就任した時も、そんなに固くならずに済んだ。だが、今の私はどうだろう。ユリアンの気持ちがわかるような気がするんだ。」

 ヤマザキが肩に手を置いた。

「これから週末をドームの外でシュリーと一緒に過ごす。それだけじゃないか。仕事内容に変化はないし、彼女は君を束縛したりしない。君も彼女を束縛しない。毎日の挨拶と同様に肩の力を抜けよ。」

 ケンウッドが振り返って苦笑した。

「ちょっとその励ましは長過ぎるな。」
「それじゃ、こう言おう。」

 ヤマザキはケンウッドの肩から手を外し、背中をポンと叩いた。

「さっさと行け!」