2018年3月31日土曜日

泥酔者 4 - 5

 女性秘書のジャクリーン・スメアがハイネ局長が面会を求めている、と告げたのは、昼前の定例打ち合わせ会が終わる頃だった。ケンウッド長官はブラコフ副長官と遺伝子管理局長代行のジェレミー・セルシウス・ドーマーとその日の午後から翌日の正午迄のドーム行政の打ち合わせを終えて、昼食に出かけようと思ったところだ。
 病欠届けを出していた遺伝子管理局長が面会を求めて来たので、ケンウッドは入室を許可してからセルシウスを見た。引退した元第1秘書の代行は、一昨日の出産管理区長の引退申請騒動を知っていた。しかしハイネがそれにどう関わっているのかは知らない。ケンウッドはハイネが個人的な要件で来たのだと見当が付いたので、部下達や秘書に聞かれたくないのではないか、と思ったのだ。しかし彼がセルシウスに何か言う前にハイネが入って来てしまった。
 ローガン・ハイネ・ドーマーはきちんとスーツを着ていた。仕事に行くつもりでアパートを出たのだから当然だが、彼が病欠していると思っていた人々はちょっと驚いた。
「ヤァ、局長」とケンウッドは挨拶した。ハイネは「お邪魔します」と言った。そしてセルシウスを見て、「今朝は済まなかった」と謝った。セルシウスは強面に似合わぬ優しい笑みを浮かべて首を振った。

「久しぶりに執務室で仕事が出来て嬉しかったですよ。お加減はもうよろしいのですか?」
「うん。元々病気ではないから・・・ケンタロウが処方した睡眠薬のせいだ。」

 ヤマザキから睡眠薬を処方した理由を聞かされているケンウッドは黙っていた。セルシウス・ドーマーは椅子から立ち上がった。

「打ち合わせの内容は報告書にして局長のコンピュータに入れておきます。では、失礼してお昼に行かせて頂きます。」

 気の利く部下だ。ハイネが長官に面会に来たのは仕事ではないと察して、さっさと部屋から出て行った。ブラコフも立ち上がった。ハイネが彼に尋ねた。

「後任の候補を搾れましたか?」

 ブラコフが「3人に」と答えた。

「3日後にここへ来てもらうことになりました。実際に職場を見てもらって、副長官が何をするのか知ってもらいます。それから面談を行います。」

 ハイネは頷いて、ブラコフはケンウッドに「お先に」と言って、彼も食堂に向かって出て行った。
 ケンウッドは秘書達に昼休みに入るようにと指図した。遺伝子管理局長と何か重要な話し合いをするのだと思った秘書達は素直に部屋から出て行った。
 ハイネが打ち合わせの時の彼の椅子に、さっきまでセルシウスが座っていた場所に腰を下ろした。
 ケンウッドは腹を括った。机に体を乗り出して尋ねた。

「妻帯許可申請に来たのか?」

 ハイネがそっと頭を下げた。

「お願いします。」

 ケンウッドは深い溜め息をついた。

「遺伝子管理局長が結婚してはならないと言う法律はない。過去に結婚した局長も2人いた。1人は女性と、もう1人は男性とだ。しかし、どちらも相手は地球人だった。」
「コロニー人と結婚してはならないと言う法律はありません。」
「しかし、コロニー人の側は地球永住権を得なければならないし、得てしまうと宇宙に出られなくなる。」
「ですから・・・」

 ハイネはケンウッドの目を真っ直ぐ見つめた。

「結婚はしません。許可だけ頂きたいのです。彼女と堂々と交際できるように。」

 ケンウッドは自身の手を見た。何もそこに書かれていないのだが、彼は何かを読み取ろうとする表情を浮かべた。

「それで地球人保護法をクリア出来ると思っているのか?」
「地球人側から訴えを出さなければ、彼女は好きなように振る舞えます。私の部屋に入ることも出来ます。」
「しかし彼女は執政官だ。月が彼女を罷免する場合も考えねばならないぞ。執政官でなくなれば、彼女はドームを去らねばならない。これは宇宙連邦で定められている法律によって決められた規則だ。」
「月が私から彼女を奪うのなら、私はドームを出ます。」

 ケンウッドは顔を上げてハイネの青みがかった薄い灰色の目を見つめた。この生まれてから1世紀近く大切にドームの清純な空気の中で育てられてきた地球人にとって、ドームの外へ出ることは死を意味する。

 そこまで思いつめているのか、君は?

 ケンウッドは机の抽斗を見た。中にアイダ・サヤカの退職申請書が入っている。

「アイダ博士と話し合ったのか?」
「はい。彼女は法律について考えたいと言いました。」
「それは・・・つまり?」
「私を拒否なさらないと言うことです。」

 ケンウッドは、月へ出向いて委員会や理事会を説得しなければならないと感じた。

「君とアイダ博士にとって最善の結果になるよう、努力してみる。だから2人共、暫くは今迄通りの関係でいてくれないか? 彼女の退職願いは、私も破り捨てたくて堪らないのだ。」




2018年3月30日金曜日

泥酔者 4 - 4

 アイダ・サヤカは当惑して、テーブルの周辺に目をやった。時間が遅いので、朝食を摂っている人間は既に1人もおらず、昼食には早過ぎて、奇跡のごとく、広い食堂内は彼女とハイネの2人きりだった。厨房では休憩でもしているのか、笑い声や話し声が内容が聞き取れない程度の音量で聞こえて来るだけだった。

「どうか、お立ち下さい、局長。」

 彼女の言葉にハイネが言った。

「役職で呼ばないで、名前を呼んで下さい。私も貴女を博士ではなくサヤカと呼びます。どうか、私だけの女性になって下さい。」

 彼女がたじろいだ。

「でも・・・」
「地球人保護法など、糞食らえだ!」

 ハイネがその優雅な姿に似合わない言葉を使ったので、彼女は思わず眉をひそめた。つい「親」である執政官として注意した。

「そんな言葉遣いはいけませんよ!」

 ハイネが彼女を見上げた。少し微笑んで言った。

「そう、そう言う勢いのある貴女が好きです。」
「ローガン・ハイネ・・・」
「どうか貴女を引き止める為に私が芝居をしているなどと下らない考えをしないで頂きたい。私は本気です。正直なところ、私は貴女がキーラと共に薬剤管理室に通って来られた頃から、貴女を意識し始めていました。キーラも気が付いていたと思います。しかし彼女は地球人保護法を考え、貴女を守って沈黙していました。私も抑えていました。実を言うと、貴女が時々大胆に私に触れたりなさるので、自制するのに苦労していたのです。
 ご存知のように、私はキーラの母親で失敗しています。貴女が地球からある日突然いなくなりはしないかと不安でなりませんでした。ですから、貴女への気持ちを誰にも知られないように抑えていました。
 しかし、貴女が仕事を辞めると言い出されたので、思い切って告白しています。どうかここに残って頂きたい。地球の為にではなく、私の為にお願いします。」

 ハイネは頭を下げ、両手を彼女に向けて差し出した。アイダ・サヤカは半ば呆然とこの光景を見ていた。誇り高い美しいドーマーが、お世辞にも美人とは言えない彼女に跪いて求愛している。これは夢なのだろうか?

「貴方は普段おっとりとなさっているのに・・・今日はよく喋られますこと・・・」

 彼女はハイネの手を取った。

「少し考えさせて下さい。私はコロニー人です。貴方のお気持ちに添えるように行動するには、法律が壁になります。」

 ハイネを立たせて、彼女はテーブルを見た。

「朝食がまだですよ、ローガン・ハイネ。ちゃんとお腹に食べ物を入れないと・・・」

 

2018年3月29日木曜日

泥酔者 4 - 3

 ハイネの端末にメッセージが入った。ハイネはアイダに断って画面を見た。メッセは元第1秘書のジェレミー・セルシウス・ドーマーからで、局長の業務は彼が代行するので安心して休んで下さい、と言う内容だった。セルシウスは2年前に引退したが、まだ「黄昏の家」には入っていない。同じ頃に出産管理区の業務を引退した女性ドーマーと結婚して遺伝子管理局の内勤指導に能っている。晩婚だが、女性のハートを射止めたことで若いドーマー達の羨望と尊敬の的になっているのだ。内勤指導は沢山の報告書の清書や動植物の遺伝子管理の総まとめをするので、仕事は多いが急くような内容ではないので、局長の手伝いを好きな時に出来る。
 ハイネは病欠ではないが、精神的に落ち込んでいたので、部下の気遣いが有り難かった。宜しく、と返信してからアイダを見ると、彼女はその短時間に考えをまとめていた。

「私はセドウィック博士と一緒に15年働き、彼女の副長として出来る限りの努力をして来ました。とても楽しかったし、宇宙に残して来た家族も理解を示してくれました。でも、セドウィック博士が退官される時、彼女は言ったのです、『多くの子供達を母親から盗んで来た罪の意識は心から消えない』と。
 私も同じことを心の底で考えていたので、彼女の口から言われると胸に応えました。そして彼女がドームから去って、私は区長になりました。全ての責任が私に覆いかぶさって来たような気持ちで、この10年間なんとかやって来ましたが、仕事を終えて、誰もいないアパートに帰ると、理由もなく寂しくて悲しい気分になるのです。私はまだ罪を重ね続けている、自分の子供も満足に育てられないのに他人の子供を盗んでいる。
 私は鬱になっているのでしょうね。職場では地球人の母親達に笑顔を見せ続けなければなりません。自分の感情を見せたり、弱音を吐いたり出来ません。
 でも、私は、そんなに強い人間ではないのです。キーラと一緒の時は、彼女が私を支えて、励まして守ってくれました。でも彼女がいなくなると、私が部下達を支え、励まし、守らなければなりません。私には重荷なのです。
 孫の世話をしたいと言うのは建前で、本心はもう逃げ出したいのです。」

 一気に喋ってしまい、アイダ・サヤカは口を閉じた。暫く呼吸を整えるかの様に大きく息をしながらハイネを見た。

「人は誰でも弱いものです。」

とハイネが静かに言った。

「ですが、これだけは信じて欲しい。私達ドーマーは時々冗談で自分達のことを『盗まれた子供』と呼びますが、本心から言っているのではありません。私達は、ドーマーとして選ばれたことを誇りに思っています。地球人復活の為に選別され、地球で最も整った環境の下で最高の教育を受けて大切に育ててもらっています。キーラの母親は私のことを『囚われの身の王子様』などとふざけた呼び方をしたそうですが、私は自分が囚われていると思ったこともありません。ドーマーは貴女が罪を犯しているなど、決して信じません。
 貴女がなさっていることは、本当に地球人にとって必要なことなのです。貴女がそれを否定なさるのでしたら、地球上の全てのドームの業務が否定されることになる。そして私達ドーマーの存在すら否定することになります。
 どうか、貴女自身を卑下なさらないで下さい。自信をお持ち下さい。そして・・・」

 ハイネはじっと彼女の目を見つめた。

「ここに、私、ローガン・ハイネがいることを忘れないで頂きたい。貴女が寂しい時、悲しい時、私は貴女を支えて行きたい。」

 アイダは彼が言っていることを理解しようと、考え、困惑した。最後の言葉の意味をどう受け止めるべきか、考えたのだ。ハイネが立ち上がった。テーブルを周り、彼女のそばに来ると、いきなり床に片膝をついて身を屈めたので、彼女はびっくりした。

「何の真似ですの、局長・・・」

 ハイネが言った。

「貴女のことは私が一生を掛けて守ります。ですから、ここに残って下さい。お願いします。」

2018年3月28日水曜日

泥酔者 4 - 2

 ケンウッドがヤマザキからハイネの気鬱の話を聞いている丁度その時に、当の遺伝子管理局長は出産管理区長を一般食堂で発見した。
 ハイネは前夜、ヤマザキに飲酒を止められ、眠れないのであれば、と無理矢理睡眠薬を処方された。お陰で眠れたが、朝定刻に目覚めると予想通り頭痛がして気分が優れなかった。彼は早朝の運動を休み、ネピア・ドーマーに1時間ばかり遅刻すると連絡を入れた。
そしてやっと気分がましになったので、朝食を摂りに食堂へ出て来たのだ。食堂は朝の混雑が終わり、閑散としていた。早朝よりも人が少なかったので、ハイネはちょっと驚いた。そして普段は中央研究所の食堂で出産管理区の女性達を観察しながら朝食を摂るアイダ博士がテーブルに1人で着いているのを見て、また驚いた。彼女は本気で引退するつもりなのだ、と彼は思った。
 実際は、アイダ博士は勤務明けで疲れていたので中央研究所の食堂へ行ったのだ。しかし彼女はそこで、今アメリカ・ドームで噂の中心になっているレイモンド・ハリス博士がいるのを見つけてしまった。もうすぐ地球に来て一月になるハリスは、既に心安く話が出来る執政官を2人見つけていた。よりにもよってアイダが日頃行儀の悪さで気に入らない執政官達だ。3人でハリスが正式に任官される日の予想を立てていた。ハリスは紫外線と染色体の研究をしている。後2月で退官するブラコフ副長官も紫外線と皮膚の老化の研究をしていたので、ハリスはブラコフの研究室をもらえないかと新しい仲間に相談までしていた。
 不愉快になったので、アイダは滅多に利用しない一般食堂で朝食を摂ることにした。妊産婦の観察は出来ないが、今の所健康に問題がある女性の報告がないので、彼女は軽い筋トレと入浴でさっぱりして、朝ご飯を食べていたのだ。
 ハイネはミルクのお粥にチーズオムレツとサラダを取って、彼女のテーブルに行った。

「おはようございます。同席許可を願います。」

 ハイネの声に、彼女が顔を上げた。あらっと彼女が声を上げた。

「おはようございます、局長。こんな時間に朝ご飯とは、珍しいですね。」
「今朝は少し気分が優れなかったので・・・」

 彼の言葉で、彼女は前日の執政官会議で彼が中座したことを思い出した。彼は彼女の引退申請にショックを受けて退出したのだが、彼女はそこに思いが及ばなかった。

「昨日から調子が良くなさそうですね。医療区に行かれましたか?」

 ハイネが青みがかった薄い灰色の目で彼女を見た。

「私は病気ではありません。」
「でも・・・」
「今朝の頭痛は医療区長が処方した睡眠薬のせいです。」
「眠れなかったのですか?」
「貴女のせいでね。」

 彼の少し意地悪な口調に、彼女は驚いて彼を見返した。

「私のせい?」

 ハイネは皿に視線を落としてオムレツを突いた。

「突然辞めると仰るから・・・」

 アイダは手を止めて、フォークを置いた。

「ごめんなさい。」

と彼女は謝った。

「この2、3年、漠然と考えていましたの。ここは私でなくてもやっていけるんだって・・・」



2018年3月27日火曜日

泥酔者 4 - 1

 ニコラス・ケンウッドはヤマザキから話を聞かされた時、医療区長が冗談を言ったのだと思った。ハイネ遺伝子管理局長がアイダ出産管理区長に恋をしているなど、想像がつかなかった。2人はもう30年も一緒に働いてきた仲間だ。10年前迄は、キーラ・セドウィックも入れた3人で取り替え子やドーマーの選出をしてきた。地球の将来を担った重要な仕事をしてきた。恋愛や遊び心とは無縁の仕事だ。互いに深い信頼で結ばれていたが、愛情はあっただろうか? それも友人ではなく異性として?

「ハイネ本人も今迄気がつかなかったんじゃないかな。」

とヤマザキが言った。

「殆ど毎日顔を合わせて仕事をしてきたし、サヤカは自然にハイネの手や顔に手を触れる。ハイネは女性に触れられても拒まない。彼にとって彼女はそばに居るのが当たり前の人だったんだ。それが突然いなくなると彼女の方から言い出して、彼はショックを受けた。」
「友情と恋愛を勘違いしていないか?」

 ケンウッドはまだハイネが恋をして居ることが受け入れられない。

「女性執政官達は大なり小なりハイネに興味を持っている。サヤカの言動が彼に誤解を与えた可能性もあるし・・・」
「誤解なら、彼女の方から彼にきちんと説明するべきだろう。さもないと無用に地球人を誘惑したと訴えられる恐れもあるんだ。」

 こんな時、ヘンリー・パーシバルならハイネに何と忠告するだろう。アイダ博士を窮地に陥れることだけはするな、と言うだろうか? キーラ・セドウィックなら、サヤカに何と言うだろう。
 ケンウッドは溜め息をついた。

「私からハイネに真意を質してみるよ。今の所、彼が打ち明けたのは君だけだろう、ケン?」


泥酔者 3 - 6

  ヤマザキはハイネの顔をまじまじと見つめた。ハイネは視線を彼から外し、横の壁を見ていた。ヤマザキは予想しなかった考えに至って、ハッとした。

「ハイネ・・・まさか君はサヤカに本気で・・・」

 誰も想像すらしなかった。アイダ・サヤカは積極的にハイネに触れたり、声を掛けたりしていたが、それは遺伝子管理局長が彼女の一番身近な仕事関係の人物の1人だったからだし、ハイネも全く気にしていなかったので、地球人保護法なんて野暮なことを言い出す人がいなかった。ローガン・ハイネは女性がいくら触っても気にしない、それがアメリカ・ドームの「常識」だった。彼がアイダ・サヤカにどんな感情を抱いているか、誰も想像したことがなかった。それにアイダはハイネがお気に入りだった前任者キーラ・セドウィックとはタイプの異なる女性だ。
 コロニー人だったら、アイダ博士が退官して故郷に戻っても、また会えるし、通信で近況を語り合うことも出来る。しかしドーマーは宇宙に去ってしまった人々の消息を知ることを許されていない。地球人が宇宙へ出かけることが許されていないから・・・

 全く理解出来ない法律だ・・・

 ヤマザキはブランデーをゴクリと飲み込んだ。地球人が女子を生めないと言うだけでまるで病原菌みたいな扱いだ。

 いっそのこと、コロニー人と混ぜてしまえば解決するんじゃないのか?

 ハイネが沈黙していることに気が付いて正面を見ると、地球人は思いつめた表情をしており、ヤマザキはギョッとした。ローガン・ハイネが彼に尋ねた。

「遺伝子管理局長は結婚したい時、誰に妻帯許可を貰えば良いのですか?」
「え?・・・はぁ?!」

 ヤマザキは思わず間の抜けた声を出してしまった。

「妻帯許可って・・・ハイネ、君は、まさか・・・本気か?」
「冗談でこんなことを尋ねませんよ。」
「しかし・・・サヤカはコロニー人だぞ?」
「地球人保護法では、地球人からコロニー人に求婚することは認められています。」
「・・・そうだったかな・・・?」
「コロニー人が地球永住権を得ることが条件ですが・・・」
「それは・・・コロニー人が宇宙に出る権利を放棄することだ。もしサヤカが地球永住権を得たら、彼女は子供にも孫にも会えなくなる。」

 言ってしまってから、ヤマザキはちょっぴり後悔した。ローガン・ハイネは娘を宇宙に帰してしまった。消息を知ることはヤマザキやケンウッドを通して可能だが、実際に会うことはない。そして、ドーマーとして育ったこの男は、それをあまり苦にしていない。
 ヤマザキは辛抱強く説明した。

「君がサヤカと二度と会えなくなるのが嫌だと思うなら、彼女が子供や孫と二度と会えなくなるのは嫌だと思うことを理解出来るだろう?」

 ハイネが黙り込んだ。そして不意に立ち上がると、酒瓶が並ぶ棚の前へ歩いて行った。飲むつもりか? ヤマザキも立ち上がった。今夜はハイネを1人残して帰れない、と彼は思った。飲ませないようにしなければ。飲んでも解決出来ないのだから。
 ハイネの手が1本の壜に伸びた。ヤマザキがそれを抑えた。ハイネが固い表情でふり返ったので、彼は言った。

「先ず、サヤカの気持ちを聞こう。君が彼女を想っていたなんて僕は知らなかった。彼女も知らない筈だ。」

2018年3月26日月曜日

泥酔者 3 - 5

 ローガン・ハイネ・ドーマーはモヤモヤした気分でアパートの自室に居た。酒宴の日ではないが、室内にはヤマザキ・ケンタロウが居て、彼の向かいで1人でブランデーをグラスに注ぎ、そっと舐めるように味わっているところだった。もっとも彼は酒を飲みに来た訳ではない。ハイネのモヤモヤした気分の原因を彼は知っているのだった。
 元気なく座って琥珀色の液体を眺めているだけの老ドーマーに、ヤマザキが優しく声をかけた。

「僕等コロニー人はいつかは宇宙に帰る。それがここの常識だ。早いか遅いか、だよ。彼女は十分頑張った。上手に重力とも付き合って、仕事も上手くこなしたし、後進も多く育てた。彼女だってもっとここで働きたいのさ。だけど、若い人に働く場を譲るのも大切だ。彼女1人で現場の指揮を執るのも重荷だろうし・・・」
「だからと言って・・・」

 ハイネがまるで10代の少年のような口調で反論した。

「いきなり言い出すなんて、あんまりです。今までそんな考えを持っている素ぶりさえ見せなかったのに・・・」
「君に・・・君だけに内緒にしていた訳じゃない。彼女は僕等にも昨日初めて打ち明けたんだ。医療区も出産管理区も、激震を食らった気分だよ。」

 ハイネは自分のグラスを手に取った。

「ガブリエルが退官すると言うのに、サヤカまで去ってしまうなんて・・・」

 ヤマザキは彼の顔を見た。ちょっと驚いていた。ハイネは今まで現在の出産管理区長をアイダ博士としか呼ばなかった。それなのに、たった今、名前を呼んだ。

「ハイネ、君は彼女の家庭の事情を知らないだろう? 」
「30年前に配偶者を亡くして、子供を姉夫婦に預けて地球へ働きに来た・・・それだけ知っています。」

 アイダ・サヤカ博士は、生活の為に地球へ働きに来た。子供は2人、当時下の子供が10歳になったので、宇宙を旅して来たのだ。子供達はアイダの姉夫婦が育て、彼女は養育費を仕送りし続けたのだ。細目に重力休暇を取っては子供に会いに帰り、必死で我が子の為に、地球人の未来の為に働き続けた。その子供達は成人して、結婚して子供が出来て・・・アイダ博士は「田舎」で孫達と暮らそうかな、と思い始めた。
遅咲きの結婚をした親友のキーラ・セドウィックが、子供が10歳になったので、そろそろ社会活動を再開させようかと考えるのと反対に、彼女は休憩しようと思い始めたのだ。
そして昨日の執政官会議で、ケンウッド長官に退官希望を提出して、議場内に衝撃を与えた。誰もが彼女はまだずっとドームに居ると思っていたから。
 ヤマザキ・ケンタロウは、議場の末席に座っていたローガン・ハイネ局長の顔色が青ざめるのを目撃してしまった。
 ケンウッドはアイダに思い留まるようにと言った。彼女は何も言わなかった。長官が退官希望届けを暫く保留すると言うと、彼女は「反対される理由はありません」とだけ言った。すると、ハイネが席を立って議場から退出してしまった。

「サヤカは、孫に彼女の子供と同じ寂しい思いをさせたくないんだ。彼女の子供達は働いている。1人はコロニー政府の官僚で多忙らしい。配偶者もいるのだが、コロニーでは夫婦で子供を育てるのが常識だ。どちらか片方だけで育てるのは社会常識から外れる。だが官僚ともなると時間の自由が効かなくてね・・・それでサヤカが代わりに子供の配偶者と一緒に孫の面倒を見ようと考えているんだ。」
「コロニー人の都合なんて知りませんよ。」

 ハイネが子供の様に拗ねた。

「私は彼女がいなくなるのが嫌だ、それだけです。」


2018年3月25日日曜日

泥酔者 3 - 4

「孫が小さなローガン・ハイネだったら、お袋が平気でいられないだろうな。」

 ロナルドが苦笑しながらカクテルを配った。

「きっと僕の子供達をほったらかしで、パーシバルの息子ばかり可愛がる。」
「そんなことはないだろう。義母さんは君の子供達を愛しているじゃないか。」

 ロナルドの3人の子供たちは皆成人してしまっていた。父親の跡を継ぐべく医療の道に進んだ子供もいるのだ。
 パーシバルは義理の甥達の写真も端末に保存していた。それをブラコフに見せた。

「ほら、3人共優秀な子供だ。それに優しいんだ。ロナルドのお父さんが素晴らしい人格者だから、孫達も素敵な人々に育ったんだよ。」
「ヘンリーは口が上手い。」

 ロナルドが大笑いした。パーシバルもブラコフも笑った。

「だって、キーラが『お父さん』って呼ぶのは、ロナルドの実の父さんだけなんだぜ。」
「そうなんですか? では、ハイネは・・・・?」

 そう言ってしまってから、ブラコフは拙い質問だったかな、と一瞬後悔した。しかしロナルドは気にしなかった。

「地球の王子様は、『局長』だよ。」
「うん、それしかない。ハイネは生まれる前から『局長』になると決まっていたからね。」

 そこにキーラとロナルドの妻のタマラがデザートの大きなプディングを運んで来た。
テーブルの皿に取り分けながら、キーラがブラコフに尋ねた。

「局長の最近のご機嫌は如何?」
「うーん、ちょっとご機嫌斜めでしたね。」
「まぁ! どうして?」

 キーラが驚いたので、ブラコフは一月早く地球に降りて来た科学者の話をした。レイモンド・ハリスはあの後もドームの住人達と各所で揉め事を起こしていたのだ。

「レイモンド・ハリス?」

 ロナルドが顔をしかめた。パーシバルが尋ねた。

「知ってるのか、ロン?」
「うん・・・僕が会員に入っているスカッシュクラブにいた男と同一人物だとしたら・・・知ってる。」
「どんな人なの?」

とタマラ。夫の友人は大方知っているが、初耳の名前だったのだ。ロナルドは躊躇った。

「親しくなかったので、どんなと訊かれてもなぁ・・・酒飲みで博打好きだった。」
「酒・・・博打・・・それにスカッシュ?」

 キーラとパーシバル、ブラコフは顔を見合わせた。

「博打は別にして、酒とスカッシュは、ハイネと出くわす可能性があるな・・・」
「局長はバーには行かれません。でもスカッシュは週に2回は楽しまれますから・・・」

 キーラが嫌そうな顔をした。

「その人、局長に添い寝したって言ったわね?」
「局長には内緒ですが・・・キスもしたそうです。」

 ロナルド夫妻以外が青ざめた。パーシバルが呟いた。

「とんでもないことが起きなければ良いが・・・」

泥酔者 3 - 3

 食事の後、男達は大きな窓があるリビングに移動した。キーラは義妹とキッチンで何やら甘い物を作っていた。

「子供達は留守番ですね?」

 ブラコフが尋ねると、パーシバルが端末を出して写真を見せた。

「息子のローガンはバスケットチームの合宿に行っているんだ。やんちゃでエネルギーが余っているので運動クラブに入れた。」

 母親の赤毛をそのまま受け継いだ少年の写真を見て、ブラコフは微笑んだ。

「顔は父さん似ですね!」
「祖父さんに似ればイケメンなのになぁ・・・」
「パーシバル博士だってイケメンですよ。」
「お世辞が上手くなったと言って欲しいのか?」

 パーシバルは笑ってから、呟いた。

「髪が白くなくて良かったよ。ハイネの血統だって知られたら、月の本部が黙っちゃいなかったろうからね。」

 2人の女の子は一卵双生児で、母親に似ていたが、髪の色は父親と同じダークブラウンだった。名前はショシャナとシュラミスだ。

「この2人がお喋りで、本当に煩い・・・賑やかで良いと他人は言うけど、僕の研究の邪魔ばかりするんだよ。」

と言いつつも、パーシバルの目尻が下がっているので、ブラコフは笑うしかなかった。

「ママ似と言うことは、お祖父さん似ですね・・・」
「幸いキーラと似ているので、執行部の人が先日訪問した時、気付かれなかった。」

 ブラコフの耳に、パーシバルはやっと聞こえる低い声で囁いた。

「2人とも、『待機型』を持っている。」

 ブラコフは聞こえなかったふりをした。ハイネの孫がハイネの進化型1級遺伝子を持っていると言うことは、当然ながら母親のキーラも持っているのだ。マーサ・セドウィックが娘の父親の正体を頑として明かさなかったのは、正しかったのだ。もし、キーラの遺伝子を調べられたら、赤ん坊の段階でキーラは地球に送還されていただろう。そしてドーマーとして一生をドームの中で過ごした筈だ。
 パーシバルとセドウィックの双子の女の子は、「待機型」を持っていても、地球人と無関係のコロニー人として自由に生きていける。ヘテロなので遺伝子の力に悩まされずに済む。祖父の名前をもらった男の子のローガンは祖父の特殊な遺伝子をもらわずに済んだのだ。しかし父親のパーシバルはそれがちょっと残念そうだった。

「もしかして、博士は小さなハイネを育てたかったのでは?」

とブラコフがからかうと、パーシバルは頰を赤くして笑った。

「まさに、その通り!」


2018年3月24日土曜日

泥酔者 3 - 2

 ガブリエル・ブラコフは火星第1コロニーにある個人病院セドウィック・メディカル・クリニックを訪問した。院長のロナルド・セドウィックは彼の大学の先輩で、ロナルドの姉キーラ・セドウィックはアメリカ・ドームで30年間出産管理区で働き、区長まで務めた人だ。ロナルドはブラコフを歓迎し、少し離れた所に住んでいる姉夫婦を呼んでくれた。
キーラ・セドウィックは夫のヘンリー・パーシバルと共に嬉々としてブラコフに会いにやって来た。キーラがドームに勤務していた時、ブラコフはまだニコラス・ケンウッド博士の助手に過ぎなかった。しかしケンウッドが長官に就任した時、副長官に抜擢されたのだ。
 キーラの夫ヘンリー・パーシバルは神経細胞研究の第一人者で、元アメリカ・ドーム執政官だ。ケンウッドとは大の親友で、ヤマザキ・ケンタロウ医療区長とローガン・ハイネ遺伝子管理局長とも親友だ。地球の重力に心筋をやられる重力障害と言う病気で退官を余儀なくされた後、キーラと結婚した。夫婦で月に住んでいたのだが、子供が出来たので教育の為に火星コロニーに帰省して10年暮らしていた。
 パーシバルはまだ地球人類復活委員会に籍を置いているが、子供が10歳になる迄養育権を持つ保護者は宇宙空間に出てはならないと言う法律に従って、火星の支部で働いている。

「そろそろ月の本部に戻ってこいと話が来ているんだ。」

とパーシバルはブラコフを歓迎する食事会で言った。

「神経科の医者はちゃんといるのだが、地球人とコロニー人の軋轢があるドームに巡回診察に行くのを渋っているらしいんだ。」
「ドーマーを怖がっている、と言うことですか?」
「そうらしいね。人間同士なのだから、怖がる必要はないのになぁ・・・」
「それ、どこのドームです? アメリカではないですよね?」
「オセアニア・ドームだよ。」
「あそこ、問題が多くないですか? ドーマーの扱いが下手なのかなぁ?」
「ドーム幹部の管理体質の問題でしょう。」

とキーラが新しい料理を運んできて、テーブルに置いた。チーズの香りが室内に広がった。ロナルドが鼻をヒクヒクさせた。

「お袋の得意料理だな。」
「チーズを挟み込んだカツレツですね! ハイネの好物だ。」

 ブラコフの言葉に、ロナルドが苦笑した。

「そう・・・地球の王子様の好物らしいね。お袋はこれしか作れないんだけどね。」

 パーシバルが取り分けながら尋ねた。

「君はドームを退官することを後悔しないか?」
「ええ・・・もう決心したことです。僕は地球を救えないが、テロの後遺症で苦しむ人の助けにはなれると思います。」

 キーラが彼の顔を見て微笑んだ。

「本当にすっかり綺麗な顔を取り戻したのね。」
「ケンウッド博士とパーシバル博士、ヤマザキ博士のお陰です。それにハイネ局長が命を助けてくれたのです、存分に生きないと叱られます。」

 ブラコフは憧れのハイネによく似たキーラを見つめて少し頰を赤らめた。

2018年3月22日木曜日

泥酔者 3 - 1

 ガブリエル・ブラコフは重力休暇の名目で月へ出かけた。実際重力対策で地球離脱は欠かせないのだが、今回は後任候補者の面接が主たる目的だった。執行部で人事の人々と話をしてから約束していた2名と会ったが、彼自身はピンと来なかった。1人はなんとなく彼の好みの人物ではなく、彼は「僕の好まない人物はハイネも気に入らないのでは」と思ってしまったのだ。もう1人は大雑把な性格で、ケンウッド長官と馬が合いそうにないと思われた。細やかな心遣いをする長官には、サポート出来る人を付けて苦労を軽減させてあげたいと、彼は欲張って考えてしまう。
 残りの8名からも返事があって、1人は日程が合わなくて辞退してもらったが、残りとは他の日に会うことになっている。
 ブラコフは空いた日を利用して、火星コロニーへ出かけた。新しい就職先である中央病院を訪問して、リハビリセンターの一日を見学させてもらい、少し手伝いもした。地球で副長官をしていることは内緒にしている。現在の役職で新しい仕事に影響が出るのは嬉しくないからだ。彼は一介護士として再出発したかった。
 翌日は住む場所を探した。大きなコロニーなので空き部屋はたくさんあり、職場に近く商店街にも近いアパートを見つけた。家具付きで、同じ建物の中に診療所やレストラン、コンビニも入っていた。忙しい日は助かるだろう。
 4日目は、懐かしい人に会いに、隣のコロニーに出かけた。火星コロニーは、惑星上の「生産区画」と少し地上から離れている「居住区」で構成されている。「生産区画」は食糧生産の場だ。工場形式ではあるが、土地が広いので野菜や穀類の栽培が盛んだ。家畜も飼われているし、巨大水槽で漁業も行われている。火星コロニーは宇宙連邦でも有数の食糧生産地なのだ。

 だけど、地球で生産される食糧の方が数倍美味しい・・・

 ブラコフはこれから地球産の食べ物が高価な贅沢品になるのだとちょっぴり残念に思えた。ドームの一般食堂で、中央研究所の食堂で、様々な料理がずらりと棚に並べられる、あの光景が3ヶ月後には過去のものになってしまうのだ。

 いかん、いかん、僕はテロの被害で苦しむ人々の援助をする仕事に就くと決意したんじゃないか・・・

 ブラコフは頭を振った。いつかはドームを去らねばならない。それはケンウッドも山崎も同じなのだ。早いか遅いか、それだけだ。コロニー人は地球人になれない・・・。

 地球に女性が誕生すれば、ドームそのものがなくなってしまうんだ。ドーマー達はその為に存在する地球人だ。彼等が本当の自由を手に入れる為に、女性を誕生させなければ・・・

 自分はその目標を目指すことに挫折してしまったが、師匠のケンウッドはきっとやり遂げてくれる、とブラコフは信じていた。あの人は、他の学者達と違う、何かを持っている。



2018年3月20日火曜日

泥酔者 2 - 9

 ハイネが声を上げた局員を見た。

「4Xとは? グレアム・グリーン・ドーマー。」

 グリーンは局長が名前を覚えてくれていたので、頰を紅潮させた。発言許可を求めるかの様にレインを見たので、レインは頷いて見せた。グリーンは、不確定の噂です、と前置きして、語った。

「中西部には大きな製造施設を持つメーカーがいます。彼等は個人と言うよりグループで活動しています。普段は牛や羊、豚などのクローンを製造して地道に稼いでいる様に見せかけているのですが、裏では人間も作っています。」

 ハイネは黙って頷いた。目新しい情報ではない。グリーンは緊張で声が裏返りそうになって、咳払いした。

「そのメーカーの中で、女の子を作る方程式を発見したグループがいると言うのです。」
「方程式?」
「そうです。クローンを製造する時に用いる薬品の調合順序を、機密保持の為に方程式の形で記録していると言う意味らしいのですが・・・」

 レインが先に結論を言った。

「その方程式を4Xと呼ぶらしいのです。XはX染色体だと言われています。」
「何故、女子を作ることが出来ると言えるのだ?」
「それは・・・」

 レインとグリーンは目を見合わせた。

「女の子を作ったのではありませんか?」
「ドームの科学力を持ってしても解明出来ない女性誕生の鍵を、田舎のメーカーが発見したと?」
「メーカーどもは地球に女の子が誕生しない事実を薄々勘付いています。しかし公表しない。女性製造が出来るのは自分達だけだと、有利な方向に考えているのでしょう。」

 ハイネがグシャグシャとボウルの中の物をかき回した。レインは動物の餌を連想してしまい、見ない様に努力した。レインとハイネを挟んで反対側の席に、クラウス・フォン・ワグナー・ドーマーが現れて座った。彼は局長に物怖じせずに挨拶して、それからボウルの中を見た。

「美味しそうなサラダですね!」
「食べるか?」

 ハイネに訊かれて、ワグナーは「はい」と答え、取り皿を取りに席をたった。
 レインは何故年下の連中は局長に甘え上手なのだろう、とふと思った。ハイネが彼の方を向いた。

「まず、4Xの噂の真偽を確認しなさい。真実なら、その資料を回収すること。勿論メーカーは逮捕する。」
「はい。」

 レインは不確定の噂の真偽を確認するお墨付きをもらった気分になった。そうなると、彼の目にもボウルの中が美味しそうな食べ物に見えてきた。

「あの・・・もしよろしければ・・・」

 ハイネが微笑んだ。いきなり手を伸ばしてレインのナイフとフォークを取り上げると、それでサラダを掴み取り、レインの空いた皿に盛り付けた。レインは頬が熱くなるのを感じた。ハイネが彼のフォークとナイフを元の位置に戻した。

「食い掛けで申し訳ないが、同じ物は二度と作れないのでね。」




2018年3月19日月曜日

泥酔者 2 - 8

 朝食会は和やかに・・・しかし微妙な緊張感の元に始まった。ポール・レイン・ドーマー班チーフ自らが仲間の出欠をとり、「いない奴には後で連絡」と誰にともなく言った。局員達は同じチームの中の連絡網を作っているので、すぐにメールで情報が飛ぶのだ。各チームのその日の予定がチームリーダーから告げられる。外勤務で外泊しているチームは当然欠席だ。
 食事はすでに始まっていて、食べながらの打ち合わせ会だ。レインは自身の皿に盛られたベーコンやポテトサラダや生野菜を味わいながら、そっと隣の席のトレイを横目で伺った。想定外の参加者、ローガン・ハイネ局長の皿には大きなボウルが一つ載っていて、中にはモツァレラチーズ、レタス、オリーヴ、トマト、数種類の煮豆、胡瓜、アボカド、ベリー類、シリアルといろんな物がごちゃ混ぜに詰め込まれていた。ハイネはそれにオリーヴオイルとバルサミコ酢をかけてグシャグシャと混ぜて、美味しそうに食べている。打ち合わせ会の内容には耳を傾けた様子はない。だが、局長執務室で開かれる班チーフ会議に数回出席しただけで、レインはこの人物がいつもぼーっとしている様に見えて実際はしっかり他人の話を聞いていることを知った。若い局員達は局長の同席に緊張していたが、局長がリラックスして食べることに専念している、と油断してしまった。
 レインが、仕事の話を始めた。世間話の様な軽いタッチで話始めたので、聞き逃した者もいた。

「中西部地域のメーカーどもの間で、奇妙な噂が流れているが、誰か聞いたことがある奴、いるか?」

 ごにょごにょと私語に熱中している若者数人がチラッとチーフを見たが、すぐ自分達の会話に戻った。レインはチームリーダー達の顔を見た。
 すると、ハイネが呟いた。

「1人足りない・・・」

 レインはチームリーダーの人数のことだと直ぐに気がついた。1人足りない理由を上司に囁いた。

「ワグナーは妻帯しているので、朝食は奥さんとアパートで摂るんです。」

 ハイネは成程、と頷いた。レインはさらに説明を追加した。

「彼は俺の副官なので、打ち合わせに遅れても部下の業務内容はほぼ全部把握しています。」

 ハイネはボウルの中を見つめたまま、小さく頷いた。そして誰もレインの問いかけに答える者がいないと思ったので、話の続きを促した。

「奇妙な噂とは?」

 すると、2人おいた席のドーマーが言った。

「4Xのことでしょうか?」


2018年3月17日土曜日

泥酔者 2 - 7

 会いたい人は向こうからやって来た。
 翌朝、ポール・レイン・ドーマーはいつもの様に早朝からジョギングに出かけた。子供の頃からの習慣で、こればっかりは仲良しのダリル・セイヤーズ・ドーマーやクラウス・フォン・ワグナー・ドーマーが真似出来ない真面目な彼の生活の一つだ。夜が明けきらないうちに着替えて運動施設のグラウンドに行き、走り出すと、半周しないうちに後ろから来た人物に追いつかれた。レインは足が速いので、これは意外だったが、声をかけて来たのはハイネ局長だった。

「お早う、レイン! 今日の調子はどうだ?」

 ハイネ局長は機嫌が良さそうで、うっかりすると置き去りにされそうな勢いだ。ハイネは足が速い。その速さは、春分祭の時にインタビューするジャーナリスト達から逃げ去る画像で宇宙に知れ渡っていた。身長があるので脚も長い。歩幅が大きいのだ。レインは彼の速度を緩めるために返答をした。

「お早うございます。すこぶる快調です。局長、今日はお忙しいですか?」
「いつもと変わらん。」

 ハイネは聡い。レインの質問で部下が何か話したいことを抱えていると察した。走る速度を落としてレインに合わせてやった。重力のせいで走るのが遅いコロニー人に合わせて走るより遥かに楽だ。レインも局長が話を聞いてくれるつもりなのだと悟ると、すぐに話題を出した。

「メーカーの間で奇妙な噂が流れていると耳にしましたので、局長も興味を持たれるのではないかと思っています。ガセの恐れもあるのですが、例の優れたクローンを製造している謎のメーカーと関係があるかと思いまして。」

 果たしてハイネはそのネタに食いついてくれた。

「なんだか面白そうだな。君等の朝食会でそれを聞かせてもらっても良いか?」

 遺伝子管理局の局員達は毎朝同じ班の仲間と一緒に朝食を摂るのが慣例だ。外勤務に出ていないチームが集まって食事をしながら点呼を取り、その日の業務予定を確認し合う。出席は義務ではないのだが、互いの業務内容を把握しておく方が、外で仕事をする時の安全確保に有利なのだ。レインは班チーフになったので、必ず出席する。部下達の行動予定を把握しておく必要があった。彼には秘書がいないので、これは必至の課題だ。
 ハイネは常に朝食は1人だ。たまに誰かと一緒の時もあるが、基本的に単独で食事をしている。部下達に気を遣わせたくないのだ。若い部下の中には局長と滅多に出会わないので同席すると緊張して固くなる者もいる。しかしレインは二度手間を好まない人間だったので、局長の申し出を歓迎した。

「朝食会に出て頂けるとは、感激です。」

 ただ朝飯を一緒に食べるだけなのに、とハイネは思ったが、黙って頷いただけだった。
 レインは感激ついでに、好奇心を満足させたくなった。どうか機嫌を損ねないでくれ、と願いながら、質問してみた。

「下世話な話題で申し訳ありませんが、局長が新入りの執政官にご立腹だとか?」

 するとハイネは機嫌を損なうどころか、走りながらハッハッと笑った。

「もう噂が広まっているのか。」
「本当なのですか?」
「腹が立ったのは本当だ。昼寝の邪魔をされたからな。」
「お昼寝の邪魔?」
 
 ハイネが毎日昼食の後で庭園で昼寝をするのは、周知の事実だ。だから、彼が芝生やベンチで寝ているのを見つけたら、みんなそっと回避する。誰だって昼寝を邪魔されたくないのだ。局長が特別な訳ではない。だが、邪魔しようと思う者はいない。
 ハイネが簡単に説明した。

「楽しい夢の最中に、あの男の鼾で起こされたのだ。目を開いて目の前に見知らぬ男が寝ていたら、誰でも驚くだろう? しかも寝返りを打つと手が触れる距離だ。」
「そ・・・それは・・・酷い・・・」

 レインは絶句した。そんな近距離で寝転ぶなんて、常識では考えられない。恋人や部屋兄弟にしか許されない暴挙だ。局長でなくても驚くし、腹が立つ。

「しかし、昼寝の件は私個人の問題だ。私が気に食わなかったのは、あの男がドームに来る予定を無断で早めて、勝手に歩き回ったことだ。ゲート係の案内を無視したのだからな。」

 昨夜もゲストハウス係を無視したことを局長に教えない方が良いかも知れない。レインは納得しました、と頷いて、2人はシャワーを浴びる為にロッカールームに向かって走った。

2018年3月16日金曜日

泥酔者 2 - 6

 ポール・レイン・ドーマーの意識下では、ローガン・ハイネ・ドーマーは滅多なことでは腹を立てない。不機嫌になることはあっても、他人に向かって怒りをぶつける様な真似はしない。常に冷静で落ち着いている人だ。

「あの局長を激怒させるとは、一体全体、件の博士は何をやらかしたんだ?」
「僕にはわかりませんが・・・」

 ゲストハウス係はレインが驚く様なことを教えてくれた。

「副長官から中央研究所で働くドーマー達に通達があって、研究所内に局長がおられる時は、ハリス博士を絶対に局長の目につく場所に行かせるな、と指示が出ているそうです。ドーム内を博士が歩き回る時は、遺伝子管理局本部に足を踏み入らせるな、と。」

 うーむ、とレインは思わず唸った。

「それは局長をかなり怒らせた、と言うことだな・・・しかも副長官が気を遣っておられる。」

 ゲストハウス係は、10数年前の事件を思い出した。

「まさか、あの博士は局長を名前だけで呼んだとか?」

 ローガン・ハイネ・ドーマーはファーストネームで呼ばれることを好まない。何故なら、それは彼の亡き部屋兄弟ダニエル・オライオン元ドーマーだけの特権だったから。
それを知らなかったあるコロニー人が、危うくハイネに殴り倒されそうになってドームから逃げ去った、と言う事件があったのだ。
 考えても埒が明かないので、レインはゲストハウス係に礼を言って別れた。
アパートに向かって歩いている間、彼は新入の博士について考えていた。地球へ降りてくる時期を1ヶ月も早く数え間違いしていた、と言うのは、嘘っぱちに聞こえる。ハリスはコロニーに居ては都合が悪かったのだ。だから早々にチケットを購入して地球に降りるシャトルに乗り込んだ。

泥酔者 2 - 5

 ポール・レイン・ドーマーはジムの玄関横にあるモニュメントの根元に座っていた。モニュメントは何の意味があるのか知らないが、昔からそこに存在しており、ドーマー達の待ち合わせの場所の一つになっていた。レインは誰とも待ち合わせてなどいなかった。運動施設内を歩き回り、サウナやジャグジーまで覗いてみたが、ハイネ局長の姿はどこにもなかった。レインは今くたびれているのだ。明日は出動に備えて体調を整え、抗原注射の予約を入れないといけない。部下達が十分休息を取れたか、チェックもしなければならない。
 彼は端末を出して眺めた。運動施設内は事故防止の為、電話は禁止だ。誰かが怪我をしたり倒れた時に緊急連絡をすること以外、基本的にどんな使用方法も禁止だった。だから中に局長がいるかも知れないと使わずに我慢した。外に出て使おうかと思ったが、時刻は遅くなっており、もし局長が既にアパートの自室で休んでいるとしたら、電話は遠慮するべきだ。
 正直なところ、レインは望んで手に入れた地位に今は振り回されている。班チーフは仕事の時間配分を決める権限があり、支局巡りも部下と違って気が向く所に自由に行ける。
だからダリル・セイヤーズ・ドーマー搜索に時間を取れると思っていたのだが、大間違いだった。先ずは部下の身の安全や健康状態に気を配らねばならない。チーム毎の巡回コースや外勤務のシフトを考えなければならない。抗原注射の効力切れに神経を尖がらせ、部下が制限時間迄にドームに帰投出来るようにシフトを組むのだ。それから難問を抱える申請書の決裁や、申請者への面会もある。ちょっと時間に余裕が出来たと思えばチーフ会議が開かれる。ドーマーとして生まれた以上は、きちんと職務を果たすのが義務だ。
 ダリルは多分、規則に縛られるのが嫌だったのだ。昔から平気で規則破りをする子供だった。見境なく違反するのではなく、彼は納得がいかない規則を蹴飛ばすのだった。恐らくサンテシマに従わなければならないと言う、コロニー人に逆らってはいけないドーマーの基本の約束事が嫌だったのだ。今、レインがコロニー人の規則に従って部下達を統率しているのを見たら、何て言うだろう。

 俺はコロニー人に命令されてやってるんじゃない、ローガン・ハイネに従ってついて行くだけだ。

 その局長はどこに? と思っていると、「チーフ・レイン」と声を掛けられた。振り向くと、先刻のゲストハウス係のドーマーが立っていた。私服だから、もう勤務を上がって運動して帰宅する所だろう。

「先ほどはご迷惑おかけしました。」

 ゲストハウス係はちょっと緊張していた。遺伝子管理局はエリート集団で、美しいポール・レイン・ドーマーはドームの大スターだ。話しかけるのも勇気がいるのだった。レイン自身はそんなことに無頓着だった。彼はスター意識など持っていない。

「あの無礼なコロニー人のことか? あれは君の責任じゃないだろう。あの人個人の問題だ。」

 答えてから、レインは尋ねた。

「本当にあの人はここで働く新入りの執政官なのか?」
「ええ・・・1ヶ月早く来てしまったそうです。」
「1ヶ月も早く?」

 レインは吹き出した。

「それは問題だ。ここはそんな暇な場所じゃないぞ。彼はコロニーで何か問題を起こして逃げて来たんじゃないのか?」
「それは存じませんが・・・」

 ゲストハウス係がさっと周囲を見回して小声で囁いた。

「研究所からのリークですけど・・・あの人、ローガン・ハイネを激怒させたそうです。」


2018年3月15日木曜日

泥酔者 2 - 4

 ギルに恥ずかしい思いをさせられたレイモンド・ハリスは中央研究所の食堂へ行ってしまったのか、姿を消していた。ポール・レイン・ドーマーは食事を済ませると、まだお喋りに熱中している執政官達に「ではまた・・・」と言って立ち上がり、捕まらないうちに急いで食器を返却して運動施設に向かって歩き始めた。時刻を考えれば局長は食事の後で運動施設に行く筈だ。図書館は考えつかなかった。局長の図書館時間はお昼だ。だから局長が図書館でニコラス・ケンウッド長官、ガブリエル・ブラコフ副長官と共にブラコフの後任候補の履歴書に目を通しているとは夢にも思わなかったのだ。
 今時珍しい紙に印刷された履歴書の束をハイネ局長は気乗りしない顔で順番に眺めて行った。ブラコフは彼が目を通した書類をテーブルの上に広げて並べ、比較出来るようにした。紙に印刷したのはその為だ。画面では一度に10人分開示出来ない。大スクリーンが必要だ。
 ケンウッドはハイネの気乗りがしない理由がわかっていた。彼自身も同じ気持ちだったからだ。2人共、ブラコフがドームを去ると考えるだけで寂しいのだ。ブラコフはハイネに夢中で、ハイネは彼を孫の様に可愛がってきた。テロ事件の時は一緒に死線をくぐり抜け、ハイネは命懸けでブラコフを救ったのだ。ケンウッドにとっては教えることを何でも吸収してそれを発展させて考えてくれる素晴らしい弟子だ。彼のお陰で長官職を問題なくこなせてきた。ブラコフと同じ優秀な副長官など存在するだろうか?それにブラコフは気持ちの良い男だ。優しくて親切で細かい心配りが出来る。ドーマーの健康維持に気を配るのが役目の副長官にふさわしい人間だった。
 ケンウッドとハイネが黙って書類を眺めているだけなので、ブラコフが焦れて来た。

「何かご意見を聞かせて下さいよ・・・」

 ハイネが顔を上げた。

「データだけで人物像が拾えるものですか。DNAを読んで人間の性格を当てる様なものです。」
「しかし・・・」

 するとケンウッドが提案した。

「この10名と面接してはどうかな?」
「え? 直接会って見ると言うことですか?」
「うん。ドームに呼ぶ訳にいかないから、月で場所をセッティングすると良い。本部で部屋を借りるか、ホテルを利用するのだ。これはドームの職員を決めるのだから、経費を落とせる筈だ。」
「10名、全員が来られるでしょうか?」
「来ない人は真剣さがないと落とせば良い。」
「・・・そうですね・・・」
「10名から3名に絞って見なさい。その3名はドームで再面接を行って、ドームに馴染めそうか否か、観察するのだ。」

 ブラコフはハイネを見た。ハイネはケンウッドの言葉に頷いているだけだった。ドーマーに執政官を選ぶ権利はない。執政官が業務で行うことを反対する権利もなかった。
だが、ここでハイネが頷いているのは本当にケンウッドの提案に賛成しているからだ。
ブラコフはテーブルの上に広げていた10通の履歴書をかき集めた。

「仰せの通りに従います。助言をありがとうございます。」




2018年3月14日水曜日

泥酔者 2 - 3

 気を削がれたアナトリー・ギルはレイモンド・ハリスを無視してポール・レイン・ドーマーに「行こう」と声を掛けた。レインは素直に彼について食事を取り、テーブルに向かった。歩きながらギルに尋ねた。

「アイダ博士と同行していた女性は誰だったかな?」
「執行部の博士だよ。」

 ギルが確保しておいたテーブルを顎で指した。彼の仲間が3名既に座って食べ始めていたが、レインが来たので歓声を上げた。ファンクラブのメンバーだ。レインのファンクラブはすっかり世代交代が進み、創設期のメンバーは1人も残っていない。レインは創設期の人々が好きだったが、現在のメンバーはあまり好かなかった。彼等は美しいレインと仲良くすることが自慢なのだ。創設者のヘンリー・パーシバル博士が目的としたドーマーの保護と応援の精神はどこへ行ってしまったのだろう。
 席に着くと、レインは直ぐに食べ始めた。食事を終えたら直ちに局長捜索を再開するつもりだった。
 ギルが仲間に尋ねた。

「アイダ博士と一緒にいる女性博士、なんて名前だっけ?」

 仲間達が首を伸ばして離れたテーブルに着いた2人の女性博士を見た。

「ゴーン博士だ。」
「ゴーン? ああ・・・血液の研究をしている人か!」
「専門は血液だけど、執行部では卵子提供者の人選を担当しているらしいぞ。」
「つまり、地球人の母親を選ぶ仕事か。」
「アイダはドーマーを選び、ゴーンは母親を選別しているのか・・・考えたら彼女達は女神みたいな仕事をしているんだなあ。」

 レインは耳に心の栓をして執政官達の会話を聞かない努力をした。地球の外の話題は関心がなかったし、知りたくもない。美女の地位や仕事も興味がない。彼自身に直接的な影響はないから。




2018年3月13日火曜日

泥酔者 2 - 2

 レイモンド・ハリスが薄ら笑いを浮かべた。

「へぇ? 私のことをご存知ですか?」
「ええ・・・早速ドームニュースにアップされていますよ。」

 アナトリー・ギルはニュース画面を端末に出して、掲げて見せた。

「新執政官、勇み足! 来月着任予定のレイモンド・ハリス博士がどう言う理由からかアメリカ・ドームに1ヶ月も早くご到着された。予約なしの御逗留はドーマー達にも余計な仕事を与える結果となり、行政組織は迷惑している様子・・・」

 これはコロニー人社会の情報サイトだが、ドーマーも見ることが出来るアメリカ・ドーム限定ネットで配信されている。食堂内に居たドーマーやコロニー人達がギルの言葉を耳にして銘々サイトを開き始めた。
 ハリスの顔が赤くなった。

「私の行動が迷惑だって?」
「だって予定なしで来られた訳ですよね? ここ、ドームでは予定のない来訪者は送迎フロアで足止めが決まりなんです。」
「私はここへ越して来たのだから、通してもらえたんだ。」
「そりゃ、荷物抱えた人を送迎フロアで寝泊まりさせられませんからね。ゲートの保安課も困ったことでしょう。」

 ギルはハリスがレインに目をつけたと思い込んだので、牽制しているのだ。特に目的があって絡んでいるのではない。ハリスがムキになって言い返すのが面白い、一種のいじめの心理状態になっていた。

「ゲストハウスにお泊まりのようだが、執政官のアパートにはまだ入れてもらえない訳ですね。ケンウッド長官は貴方が本気でここで働く意思があるのか見極めてからアパートを用意されるのかも知れません。」
「君は・・・」

 ハリスがギルの態度に抗議をしようとした時、女性の声が割り込んだ。

「そんなところで言い合いをするのは止めて下さいます? 邪魔なんですけど?」

 レインは振り返った。ギルも振り返った。ゲストハウス係も振り返った。そして慌てて数歩後ろへ退がった。出産管理区長アイダ・サヤカと見知らぬ女性が立っていた。
 アイダ・サヤカは前任者キーラ・セドウィック博士と共に多くのドーマーを新生児の中から選出した責任者だ。現在アメリカ・ドームの中にいる40代より若いドーマーは殆どこの2人に選ばれたのだ。ドーマーの母と呼んでも良いぐらいだ。ドーマーは精神的に彼女には逆らえない・・・。そして執政官も同様だった。彼女はドームの権力者の1人だ。
 丸顔の柔和な顔のアイダ博士の後ろに立っているのはすらりと背の高い綺麗な女性だった。年齢はアイダより少し若いだろうか。レインは彼女をどこかで見たような気がしたが、どこだったか思い出せなかった。
 アイダ博士は言い合いをしていたギルとハリスを交互に睨み、低い声で言った。

「ドーマーの前でみっともない。慎みなさい。」

 そして後ろの女性に「行きましょう」と囁いて食堂に入って行った。

2018年3月11日日曜日

泥酔者 2 - 1

 ポール・レイン・ドーマーは大嫌いな書類仕事からやっと解放されて一般食堂へ入った。北米南部班は担当区域が広大で人口も多い。毎日申請書や届出が山の様に送られて来る。局員だけでは手が足りず、引退した局員である内勤職員の手伝いでこなしているのが現状だ。しかし重要書類は幹部、即ちチーフとリーダーの仕事だ。他の班のチーフは皆秘書を付けてもらっているが、レインは面倒だったので申請していない。だから全部1人でやらなければならない。時々手が空いた弟分のクラウス・フォン・ワグナー・ドーマーが手伝いに来てくれる。ワグナーもリーダーに昇格したのでマザーコンピュータの情報を直接覗ける権限を与えられたのだ。それにワグナーには秘書がいた。
 食堂の入り口でレインは広い館内を見渡した。彼が探していたのは局長だったが、白い頭のドーマーは1人も見つからなかった。局長に聞いて欲しい情報があった。ちょっと信じ難い話だが、女の子をクローンで製造する方程式を見つけたメーカーがいると言う噂だった。なんでもそいつは既に女の子を創ってしまっていると言うのだ。それがラムゼイなのか、別のメーカーなのか、まだ不明だが、女の子を創ったメーカーは未だかつていないのだから、大発見になる。それを確認する任務をもらおうと、レインは局長を探していたのだ。しかし本部で書類と格闘するのに忙しく、局長に面会を求める時間さえなかったのだ。
 局長はまだ執務室か、それとも長官の所か、と考えていると、いきなり後ろから声をかけられた。

「もしかして、君はポール・レインなのかな?」

 馴れ馴れしい呼びかけに、彼はムッとして振り返り、見知らぬ男を見つけて表情をさらに硬化させた。コロニー人だ。ドーマーは皆礼儀正しい。ドームの中の無礼な人間はコロニー人に決まっている。彼は質問で返した。

「どなた?」

 相手はニヤッと笑った。

「レイモンド・ハリス、レイって呼んでくれていいよ。」

 そこへゲストハウスの係をしている維持班のドーマーが走って来た。息を弾ませながら、彼はコロニー人に注意した。

「ハリス博士、1人で歩き回られては困ります。まだ施設案内の途中ですよ!」
「いいじゃないか、腹が減ったんだ。良い匂いのする場所に惹きつけられるのは当然だろう。君だってもう晩飯にしてはどうかね?」

 こいつが博士? レインは難しい顔のまま、ゲストハウス係を見た。ゲストハウス係は困った様子だ。 施設案内は正規の仕事で、ボランティアではない。係は後で上司に報告書を提出しなければならないのだ。
 レインは男に向き直った。

「ドームの規則に従っていただかないと困ります。係の者に迷惑をかけないで頂きたい。」
「私が迷惑をかけているだって?」

 ハリスは係を見た。

「迷惑をかけているかな?」

 係は困惑してレインを見た。どう迷惑しているのか説明しても理解してもらえない相手だ。レインがその態度が迷惑だと言おうとした時、彼の後ろで声がした。

「ヨォ、ポール、何をしているんだ、早く席に着けよ。」

 レインは振り返らなかった。見なくても誰だかわかった。彼のファンクラブに入っているアナトリー・ギルと言う若い執政官だ。ドームに来てまだ1年未満だが、レインに夢中で入会して間もないにも関わらず、すっかり幹部気取りだ。ドーマーが執政官に逆らわないことをいいことに、レインをいつもそばに置いておきたがる。ただ地球人保護法は守って素手で触れることはしないので、レインも気にしないで相手をしてやっている。
 そのギルが、ハリスと対峙しているレインのそばにやって来た。彼はハリスを見て、おやおや、と呟いた。

「貴方は紫外線効果の研究をされているハリス博士じゃありませんか?」

2018年3月10日土曜日

泥酔者 1 - 8

 ケンウッドが電話を終えるとブラコフが心配そうに呟いた。

「局長はキスされたことに気が付いていないのですね。」

 大切なものを汚された気分なのだろう。ケンウッドはハイネが傷物になった訳でもあるまいに、と思ったが、彼とて親友に悪さをされた様な気分で気持ちの良いことではなかった。
 言葉通り1時間後にハイネ局長が執務室に現れた。事前にブラコフには余計なことを言わない様にと言っておいたケンウッドは、昼前の打ち合わせ以来の再会に挨拶をしてから、局長に尋ねた。

「もしかして、芝生で昼寝をしたかね?」
「しましたが・・・?」

 ハイネがそれ以上言う前にケンウッドは自分の頬に手を当てて、

「君の頬が少し汚れている。休憩スペースに消毒用ティッシュがあるから拭いて来なさい。」

と言った。ハイネが昼寝の後で顔を洗ったかも知れないと微かに思ったが、真面目な顔で注意を与えると、ハイネは「そうですか」と言って休憩スペースに歩いて行った。

「誰もそんなことを言いませんでしたが?」
「君に遠慮したのだろう。目立たない汚れだ。ジロジロ見て確認するのも失礼だろうしね。念のため両方の頰を拭いておくと良い。」

 ハイネはそれ以上何も言わずに素直にティッシュを取って顔を拭いた。ブラコフがホッと肩の力を抜いた。これで局長は汚れを落とし綺麗な状態に戻った、そんな気分だ。
 ハイネが面会の時の彼の席に着いた。ケンウッドはそれで一月早くやって来た学者の説明をした。

「今日、君が苦情を言ってきた学者は、レイモンド・ハリスと言う遺伝子学者だ。紫外線が染色体に与える影響を研究している。本当は来月ドームに来ることになっていたので、君にまだ告げていなかった。ところが、彼は何を思ったか、火星での仕事を早々に退職して住む場所も引き払い、地球へ降りて来たのだ。追い返す訳に行かないので、正式な着任まで地球人保護法の勉強をさせてドームのルールを教え込むつもりだ。君への挨拶は今日中に済ませておいた方が良いだろうかね? それとも少しここに慣れさせた方が良いか?」

 ところがハイネは不愉快そうな表情をした。

「挨拶は結構です。もう出会いましたから。」

 ケンウッドは思わずブラコフを見た。ブラコフも心なしか青ざめて見えた。ハイネはキスされたことに気が付いたのか?
 ケンウッドは努めて平静を装った。

「会った? 何処で?」
「庭園で。」

 ハイネは不愉快な表情を維持したまま言った。

「あの男の鼾で心地よい夢を中断させられたのです。私が目を覚ましたら、彼は私の真横で寝ていたのですよ。」

 またもやブラコフが固まった。ケンウッドが確認した。

「彼は君に添い寝したのか?」
「無断でね。」

 遺伝子管理局長はハリスの無礼がケンウッドやブラコフの関知するところでないことは承知していたので、ここで駄々をこねることはしなかった。

「騒がないことにしています。私が騒げば、ゲート係が彼を通した責任を問われます。本来なら予定のない訪問者は送迎フロアで足止めの筈です。彼は引越しの荷物を持っていたので、通されたのです。まっすぐここへ来るべきなのに、庭園で寄り道したのでしょう。」

 大人の対応でハイネは言った。

「彼は私を見たのですから、もう挨拶の必要もないでしょう。遺伝子管理局本部に彼を入れないで下さい。」


泥酔者 1 - 7

 レイモンド・ハリスがゲストハウスの係に誘導されて部屋から出て行くと、ケンウッドは遺伝子管理局本部にいると思われるハイネ局長の端末に電話を掛けた。ハイネは3回目の呼び出しで出た。

「ハイネです。」
「君の苦情の件について、話しておきたいことがある。手が空いたら私の部屋へ来て欲しい。」
「わかりました。1時間後に伺えると思います。」

 まだ仕事中だ。恐らく逃亡中のドーマー、ダリル・セイヤーズを探す為の住民登録リストと遺伝子リストの照合をしているのだろう。最近、この作業の副産物として、違法なクローン製造業者、所謂メーカーの摘発件数が増えた。リストは東海岸から中央部へ進んでおり、田舎ほど女性の数が少なく、メーカーの需要が増えるらしい。都会と違ってスペースがあるので、摘発してみるとかなり面積の広い工場の様な施設を持っているメーカーもいて、警察やドームを驚かせた。
 北米南部班は近頃気になる凄腕のメーカーを追いかけているのだが、なかなか尻尾を掴めないでいる。ほぼ完璧な健康状態のクローンを作るのだ。まるで女性から生まれた本物の人間の様なクローンだ。成人登録申請を出すのでクローンだと判明するクローンだ。当然ながら発注者はお金を持っている。クローンは実の息子として大切に養育され、成長している。実社会で活動する為に人間としての保証が必要なので成人登録するのだ。親にメーカーの名を尋ねたいが、「成人」と認められれば「人間」としての権利を持つので、製造元を尋ねることが難しくなる。プライバシーの侵害となるからだ。もっともクローンとして生まれた者には婚姻許可が降りない。子供が欲しければ養子をもらうしかない。これも養子縁組許可が出ればの話だが。兎に角、クローンとして生まれることは、決してその人生にプラスになる要因が多くないと言うことだ。
 遺伝子管理局北米南部班の新しい班チーフとなったポール・レイン・ドーマーは、そう言った成人登録したクローンの親の1人からメーカーの名前、恐らく通称なのだろうが、名前を聞き出すことに成功した。クローンの息子に養子縁組を許可してやった見返りだ。
 そのメーカーは「ラムゼイ博士」と名乗っていることが判明したのだ。その名はあるコロニー人遺伝子学者の名前を連想させた。ハイネ局長はレインにそのメーカーの正体を突き止めるよう指示した。局長が具体的な任務を与えることは滅多になかったので、局員達は驚いた。それにケンウッド長官も珍しくそのメーカーに関心を抱いている様に見えた。メーカー、ラムゼイ博士とは何者なのか。遺伝子管理局の若者達は類まれな才能を持つ謎のメーカー追跡に燃えているのだった。


泥酔者 1 - 6

「これは失礼しました。」

 ハリスはIDカードを出した。ブラコフがそれを受け取り、ハリスがこれからドーム内で使用する色々なカードや書類、端末の準備をする為の作業を秘書机で始めた。予定より1ヶ月も早く来た者が生活に困らないように手続きが必要だ。
 待たせているハリスにケンウッドが尋ねた。

「私達が本部から聞いていた君の予定は来月からだったのだが?」
「そうなんです!」

 ハリスが何の問題もないと言う顔で返した。

「でも火星の職場を退職してしまったので、退屈でしてね。アパートも引き払ってしまったので、地球に行けば何とかなるだろうと思ったのです。」
「そうかね・・・」

 これはただの楽天家なのか、それともアホウなのか? ケンウッドは判断つけかねた。

「急に来てもらってもアパートの部屋の準備が出来ていない。暫くはゲストハウスに寝泊まりしてくれるかね?」

 アパートの部屋はドーマーの住居維持班に一言言えば2、3時間で用意してもらえる。しかしケンウッドは何故かこの男の前でドーマーに指図したくなかった。地球人を奴隷と勘違いされそうな気がしたのだ。ゲストハウスの部屋も同じように準備してもらえるので、そちらは既に準備出来ているように振舞って維持班に指図のメールを入れておいた。維持班総代ロビン・コスビー・ドーマーは70歳、急な客人は嫌うので、彼にも事情を簡単に説明するメールを送った。
 長官と副長官が忙しく手を動かしているのを見ながら、ハリスがのんびりと喋り始めた。

「早く着いたので、ちょっと散歩させてもらいました。庭園があるのですね。森って言うんですか? それともジャングル? 兎に角木がたくさん生えている所に行きました。気持ちが良かったなぁ。」

 ケンウッドはふーんと軽く聞き流していた。すると、ハリスがとんでもないことを言った。

「芝生が生えている広い所に出たら、男の人が寝転がっていたんですよ。ダークスーツを着ていて、静かだったんで、死んでいるのかと思い、近づいて見たら、髪の毛が真っ白で・・・」

 ケンウッドは手を止めた。ブラコフも顔を上げてハリスを見た。

「でも顔が若いんです。とても綺麗な顔でしたよ。彼は昼寝をしていたんでしょうね。気持ち良さそうで、私は横に座って彼を暫く眺めていました。そのうちに気が付いたんです。もしや、彼はローガン・ハイネじゃないかってね。」

 ケンウッドはドキッとした。ネピアの怒り顔が目に浮かんだ。眠っているローガン・ハイネ・ドーマーに他人が近づくとネピア・ドーマーは怒るのだ。熱愛するボスの休息を妨げる人間は片っ端から無礼討ちにしかねない。コロニー人だろうがドーマーだろうが、熱血秘書は容赦しない。
 ハリスはケンウッドの危惧を全く感じないで喋り続けた。

「名前を呼んでみたのですが目を覚まさないので、そっと顔を近づけて頰にキスをしてやりました。」

 ブラコフがフリーズしてしまった。ハイネは副長官にとって憧れの人だ。太陽だ。神様だ。その人に、この、初対面の、身なりのだらしない男が頰にキスしただとっ!
 ハイネはキスされたことを知らないのだ。もし知っていたら、苦情だけでは済まない。内務捜査班が直ちに逮捕状を持って中央研究所に押しかけて来ている筈だ。
 ケンウッドはブラコフが爆発する前に急いでハリスに言った。

「それは拙いぞ、地球人保護法違反だ。警察沙汰になる恐れがある。」
「え? そうなんですか?」

 このハリスと言う男は1ヶ月も早く、委員会に無断で地球に来たのだ。委員会から会則を学ばされる時間も持たずに。
 ケンウッドは続けた。

「地球人保護法に違反すると即刻地球から退去しなければならん。」
「それは困ります!」

 ハリスが初めて慌てた。本当に行く宛がここしかないのだろう。

「では、これからゲストハウスに入って、地球人保護法を学んでもらおう。係の地球人に世話を頼んでおくが、これだけはくれぐれも心に留めておいてくれ。地球人は決して召使いではない。使用人でもない。一緒に働く仲間だ。君と対等の立場にいる。絶対に彼等の言葉を無視しないこと。彼等の忠告には必ず従うこと。そして、無闇に彼等の身体に触れないこと。手を触ることもキスもハグも駄目だ。向こうから手を差し伸べてこない限りは、コロニー人から接触してはいけない。」

 するとブラコフもハリスに忠告した。

「ハイネにキスしたことは絶対に口外してはいけません。ハイネ本人にも言わないように。さもないと、貴方は今日中にここを出て行くことになります。」

 ハリスは硬い表情で、「わかりました」と答えた。



泥酔者 1 - 5

「レイモンド・ハリス?」

 ブラコフが端末で調べた。

「ああ・・・ここで働くのは来月からの予定ですが・・・?」
「来月?」

 だからケンウッドの意識の中になかった人物だったのか。一体どんな人なのか、それにハイネとどんな遭遇をしたのか?
 ケンウッドはハリスの情報を素早く検索した。学歴と職歴が得られたが、それをじっくり読む前にドアのチャイムが鳴った。
 ブラコフがドアを開けた。

「ハリスと言います、火星のコロニーから来ました。」
「お話は伺っています。どうぞ、中へ。」

 ブラコフは来星の日時が違うとは言わずに彼を中へ通した。ケンウッドはボサボサ頭で無精髭を生やした中肉中背の男を見た。合繊セーターは古く、パンツもくたびれていた。これはファッションなのだろうか、それとも服装、身だしなみに無頓着な人なのだろうか。
 ケンウッドは立ち上がった。

「レイモンド・ハリス博士?」
「そうです、ケンウッド長官ですね?」

 ハリスが無遠慮に手を差し出した。ケンウッドは仕方なく握手に応じた。そして思った。ハイネはこの男と素手で握手したのだろうか? ハリスの手は乾いていた。
 ケンウッドはブラコフに視線を向けて紹介した。

「副長官のブラコフ博士だ。」

 ハリスがハッとした表情でブラコフを振り返った。そしてブラコフと視線を合わせると笑顔を作った。

「副長官でしたか! お若いのでてっきり秘書かと思いました。失礼しました。」

 ブラコフは軽く会釈しただけでハリスのそばに来なかった。代わりに言った。

「慣例として、IDを提示していただけますか?」

 副長官なので他のコロニー人は皆部下になるのだから、もっと偉そうに喋っても構わないのだが、謙虚な男だ。しかし口調は相手に逆らうことを許さない響があった。
 ハリスが薄笑いとも取れる微笑みを浮かべた。

「用心深いことは良いことですね。テロの被害を受けられたのですから、無理もありません。もうお怪我はよろしいのですね?」

 ケンウッドはブラコフがムッとするのを感じた。ブラコフはテロがまた起きることを心配して言ったのではない。規則を守らせようとしただけだ。規則を守ってもらえないなら、ドームで働いてもらっては困る。規則を守れない人間は地球人から反感をもたれる。1人が反感を買えば、他のコロニー人も地球人から反感を買う恐れが出てくる。コロニー人全員が危険を感じることになる。
 ブラコフは硬い表情で言った。

「これは委員会発足当時からの規則です。提示をお願いします。」

 

泥酔者 1 - 4

「ネピア・ドーマーから先ほど苦情が来ました。」
「苦情?!」

 ケンウッドは眉を顰めた。ネピアは遺伝子管理局の局長第一秘書だ。前任者のジェレミー・セルシウス・ドーマーが寄る年波で引退して第一秘書に昇格したのが半年前。元外勤務の局員で、年齢的に体力の限界を感じて内勤に移動した後、秘書に採用された。生真面目でお固く、若いドーマーやコロニー人がふざけたりすると機嫌を損ねる。さらに熱烈な局長ファンで、少しでも局長の邪魔をする人間には敵意を示す。長官のケンウッドでさえ、ハイネの仕事中に電話をかけるとネピアに邪険にあしらわれるのだ。
 ネピアの気に障ることをしただろうか、とケンウッドが不安になるのも無理はない。するとブラコフはケンウッドが予想しなかったことを言った。

「ハイネが文句を言っていたそうです。新任の学者が来るなら、必ず知らせて欲しい、と・・・」
「ええ?」

 ケンウッドは困惑した。

「何の話だ?」
「僕も訳が分からず、何のことかと訊きましたよ。」
「何のことだ?」
「それが、ネピアもよく把握出来ていない様で・・・兎に角ハイネ局長が貴方を名指しで文句を言っていると・・・」
「新任の学者が来る、とハイネは言ったのか?」
「ネピアの言葉を正確に言えば、『新任の学者が来たのならば、事前に知らせて欲しい』・・・」

 ケンウッドとブラコフは互いの顔を見合った。

「新任の学者が来たのか?」
「ハイネがそう言っているみたいですが?」
「君は知らないのだな?」
「先生もご存知ない?」

 その時、秘書机のコンピュータから呼び出し音が聞こえた。ブラコフが素早く席を立ってそちらへ行った。誰かが秘書に電話をかけている。端末ではなくコンピュータと言うことは秘書が長官執務室にいることを前提とした業務連絡だ。ブラコフは慣れた手つきで受信ボタンを押した。

「長官執務室だ。秘書は現在どちらも不在だ。」
「ああ・・・副長官!」

 画面に現れたのは、中央研究所ロビーのレセプション係のドーマーだった。彼はホッとした表情で言った。

「長官と副長官お揃いですね?」
「いかにも・・・」
「レイモンド・ハリスさんと言う方がお見えです。今日から当ドームで勤務されるとか・・・」

 音声はケンウッドの耳にも聞こえた。ケンウッドは「横取り」ボタンを押して、通話に割り込んだ。

「今日からドームで勤務すると言ったか?」
「はい、本人がそう言っています。ここに・・・あっ! 行っちゃいました・・・」

 ケンウッドは急いでロビー監視映像を呼び出した。画面の左半分にロビーフロアの映像が現れた。1人のセーター姿の男がエレベーターに乗り込むところだった。
 ケンウッドは画面右半分の中にいるレセプション係に言った。

「こっちに来るだろうから、対処するよ、有り難う。」



泥酔者 1 - 3

「2つ目の要件は何だね?」

 ブラコフはケンウッドがぎこちない手つきでお茶を淹れるのを見守った。ケンウッドは決して「男子は家事をしない派」ではない。ドームではちょっとした家事は全部ロボットがしてくれるし、それ以外は専門的技能を持ったドーマーがしてくれる。執務室では秘書がお茶の準備をしてくれるので、彼は時々お茶の淹れ方を忘れるのだ。

「僕の後任候補を後でチェックして下さい。」

 ブラコフも3ヶ月後にドームを去る。彼はテロで負傷した時、多くの人々から温かい励ましをもらい、生き延びたのは医療技術よりもその人の心のお陰だと信じている。だから、長い療養と副長官職の両立を頑張って来られた。そして考えたのだ。

 この恩返しは、今度は自分が療養生活をしている人々の支えになることだ。

 彼は地球に未練を残しながらも、火星第1コロニーで最も大きな病院のリハビリセンターで働くことにした。そこでは宇宙連邦各地から送られてくるテロの被害者達が社会復帰に向けて訓練と療養に明け暮れているのだ。
 ケンウッドは愛弟子の決意を誇りに思う一方で、寂しかった。ブラコフもヴェルティエンも彼が副長官になる以前の時代から一緒に働いてきた仲間だったからだ。

 みんな巣立って行くんだなぁ・・・

 自分はここで何をグズグズしているのだろう、とケンウッドは焦燥感を覚えていた。地球人の女性誕生を1日でも早く実現させなければならないのに、毎日予算やら執政官同士の争いの調停やらドーマーの生活改善やらで時間を取られてばかりいる。研究に没頭する時間がないのだ。遺伝子学者ではなく政治家になってしまっている・・・。
 ブラコフが喋っていた。

「自薦他薦色々と紹介状が来て、目を通すだけで2週間かかりました。昔の映画で札束ってあるでしょう? あんな感じですよ、紙がどっさり・・・」

 彼は手で積まれた物を表現した。

「取り敢えず10人選びました。先生に見ていただいて、検討しようと思っています。地球人のことを考えてくれる良い人々であって欲しいのですが。」

 ケンウッドはカップを彼に手渡して頷いた。地球人類復活委員会で働きたい科学者は多い。しかし彼等の多くは地球の為ではなく、自分達の経歴に箔を付けたいのだ。
 ケンウッドは席に戻って、愛弟子を見た。

「君は地球人の為の病院建設と言うのは考えていないのだね?」

 ブラコフはちょっと苦笑いした。

「それは資金が必要です。僕は富豪の子供ではないし、これから稼がないとね。寄付を募る才能も必要ですよ。第一、地球のどの政府もコロニー人が地上でしゃしゃり出ることを望んでいません。」

 悲しいかな、それは事実だった。コロニー人が地球を侵略しようとしていると考える人間も多いのだ。だからコロニー人が地上を旅する時は用心しなければならない。ヴェルティエンの様にバックパッカーになって旅行するのも必ず最初に行動範囲を該当地方の治安当局に届けなければならないのだ。そうしなければ住民とトラブルが起きても守ってもらえない。

「アメリカはまだマシですよ。ポール・レイン・ドーマーの兄さんが大統領選で勝ったでしょう?」

 元ドーマーを父親に、現役ドーマーを弟に持つ、初めての大統領が昨年誕生したのだ。ハロルド・フラネリー、緑色に輝く黒い葉緑体毛髪を持ち、接触テレパスの能力を母親から受け継いだ美形の政治家だ。ケンウッドは彼が就任した時、慣例によって大統領官邸に招待され、ドームの秘密を告げる「儀式」を行った。ハロルドは両親からテレパシーの形で全てを学んでいたので、その必要はなかったのだが、政治の方向性をケンウッドに語って、ドーム最高責任者に「敵ではない」とアピールした。彼はドームに可能な限り援助を約束し、実際に外で働くドーマー達の安全を保障してくれている。コロニー人に対して悪感情を抱く政財界の有力者を感化しようと努力しているのだ。

「ところで、三番目の件ですが・・・」

とブラコフが少し顔を曇らせた。

2018年3月9日金曜日

泥酔者 1 - 2

 ケンウッド長官は午後の業務を睡魔と闘いながらこなしていた。今日の仕事は急を要するものではないので、明日に延ばしても良いのだが、それではいつになっても片付かないだろうから、やってしまうのだ。
 2人の秘書は既に午後の休憩に入っていた。チャーリー・チャンとジャクリーン・スメア、どちらもコロニー人だ。ケンウッドはどちらか片方はドーマーで、と思ったのだが、ジャン=カルロス・ロッシーニ・ドーマーが引退する時に後任を推薦しなかったので、仕方なく地球人類復活委員会推薦のコロニー人女性を採用した。スメアはキビキビと働く有能な秘書で、先輩のチャンが食われそうな勢いだ。大企業で働いた経験があり、地球へは海の青さに惹かれて来たのだと言う。休暇を取ってダイビングに行くのが趣味だ。ヤマザキ医療区長は、「海洋資源を探りに来た企業側のスパイじゃないか」と冗談を本人の前で言った。スメアは笑って、「ではその企業より高額のボーナスを頂けるなら、ドームの収入になる道を探しますわ」と返した。
 ケンウッドが眠気に抗しきれずに目を閉じた瞬間、端末に電話がかかって来た。ハッと目を開き、通話ボタンを押すと、副長官のガブリエル・ブラコフだった。

「ちょっと3件ばかり所要が出来ましたので、そちらへお伺いしてもよろしいですか?」

 ケンウッドは構わないと答えた。通話を終えて、誰もいないので大欠伸をした。ブラコフが来たら一緒にお茶でも飲もうと立ち上がり、休憩スペースでお茶の準備に取り掛かった。体を動かすと、目が覚めて来た。
 湯が沸く頃に、ブラコフがチャイムを鳴らして入室して来た。小さなカートを押していた。カートには小さな包みがいくつか載っていた。

「ヴァンサンが中央アジアから送って来たんです。先生のお好きな物をお一つどうぞ。」

 ヴァンサン・ヴェルティエンは一昨年迄ブラコフと2人で副長官の任に就いていた。ブラコフがテロ事件に巻き込まれ、重傷を負わされ、副長官職を続けることが危ぶまれた時、月の執行部のハナオカ委員長の勧めで長官秘書から副長官になった。ヴェルティエン自身は遺伝子学者ではなく文化人類学者だったので、彼はドームの副長官になって良いものかと迷い、結局ブラコフが完治する迄共同で任務遂行に当たったのだ。ブラコフがすっかり健康を取り戻し、傷で失った顔面を細胞再生治療で元どおりにすると、ヴェルティエンは地球に来た本来の目的を果たすことに決めた。つまり、地球各地を巡って各地の民族の文化を調査することだった。ケンウッドもドームの仲間達も彼に残って欲しかったのだが、ヴェルティエンの決意は固く、結局ケンウッドは折れた。
 ヴェルティエンはバックパッカーとして地球の表面を旅して回っている。そして時々珍しい産物に出会うとアメリカ・ドームに送ってくれるのだ。
 ケンウッドは小さな箱を手に取った。振ると中で何か軽い物がカサカサと音を立てた。

「これは何だね?」
「チーズだそうです。」
「チーズ?」

 室内は暖かい。ケンウッドはカートに積まれている箱の山を見た。

「これ、全部?」
「そうです。」
「ハイネ宛てじゃないのか?」
「ハイネ局長には一番最初に選んで頂きました。」
「全部同じに見えるが・・・」
「全部同じですよ。乾燥チーズです。」

 それでケンウッドはお茶を淹れるから座るようにとブラコフに言った。


2018年3月8日木曜日

泥酔者 1 - 1

 お花畑には白やピンク、紫の花が咲き乱れていた。何の花かと昔クリステル小母さんに訊いたら、コスモスだと教えてくれた。小さいのに、雄大な名前だと思った。
 コスモスの花に中に、幼いキーラが座っている。キーラの子供時代など全く知らないのに、キーラだとわかった。彼女はせっせとお花で首飾りを作っていた。どこかで見たようなシーンだ。そう言えば、昨晩見た映画の中で子供が作っていたっけ・・・。
ハチがブンブン羽音をたてて飛んでいる。だんだんその音が大きくなって、耳障りになり、腹立たしくなってきた。何処にいるのだ、追い払ってやろう。キーラが刺されては大変だ。
 ローガン・ハイネ・ドーマーは振り返ろうとして、寝返りを打ち、手が何か大きな物に当たって目が覚めた。目蓋を上げると、カーキ色の物体が目の前にあった。視線を移動させると、それは服で、1人の男が彼のすぐ隣に横たわって、大きな鼾をかきながら眠っているのだった。
 ハイネは驚いて上体を起こした。周囲を見回すと、そこは彼がいつも昼寝をする庭園の芝生で、昼寝する前と変わらない風景だ。違っていたのは、すぐ隣にカーキ色のセーターを来た中肉中背の男が寝ていることだ。

 誰だ、こいつは?

 ハイネは記憶を探った。ドーマーではない。ドーマーだったら名前を思い出せなくても顔はわかる。ドーマーは誰もが身ぎれいにしており、こんなボサボサ頭で無精髭を生やしていない。男は服装もだらしなく、セーターからたいこ腹がはみ出している。
 第一、ドーマーだったら、ローガン・ハイネ・ドーマーの隣に断りなく横たわって昼寝をする様な無礼な行為は慎む筈だ。
 コロニー人でもこんなことはしない・・・地球人保護法抵触寸前だ。それにドームで働くコロニー人は職種に関わらず、着任の時、必ずハイネの元に挨拶に来る。それがルールだ。こんな男の挨拶を受けた記憶はない。
 ハイネは頸に冷たいものを感じた。見知らぬ人間がドームの中にいる。それも彼の真横に。
 彼は静かに端末を出すと、保安課のゲイト係の詰所を呼び出した。画面に現れた係員は、電話を掛けてきたのが遺伝子管理局長だったので、仰天した。ハイネは彼の顔を見るなり、自身の唇に指を当てて、「シーッ」と合図した。そして端末のカメラを横で寝ている男に向けた。係員に男を見せてから、再び端末を自身に向けた。唇だけ動かして尋ねた。

 誰だ?

 係員は手で「待って」と合図を送ってきた。そしてすぐに横のコンピュータで顔認証を開始した。5秒後に答えが出た。ハイネの端末から係員の姿が消え、代わりにデータが表示された。

ーーレイモンド・ハリス 46 火星第3コロニー出身 遺伝子学者 骨の形成を専門とする。 本日地球に上陸、午後1時15分 アメリカ・ドーム到着。

 ハイネは係員に礼を告げ通話を終えた。
 再び男を見ると、コロニー人は遺伝子管理局長を驚かせたことも知らずに、まだ鼾をかいていた。
 ハイネは静かに立ち上がった。衣服からそっと芝生の葉を払い落とし、それからくるりと体の向きを変えると、さっさと遺伝子管理局本部に向かって歩き出した。

2018年3月7日水曜日

Break 19

登場人物紹介


ドナルド・アンガス・フェリート

アメリカ・ドーム 薬剤管理室長。コロニー人
サンテシマ・ルイス・リン元長官が創業した薬品会社で働いていたが、リンが失脚した時、リストラされた。その後、地球人類復活委員会に職を得て、アメリカ・ドームに派遣された。


ショーン・ドブリン・ドーマー

薬剤管理室の薬剤師主任。
真の身分は遺伝子管理局内務捜査班の潜入捜査官。
フェリートの証言の矛盾に気がつき、室長がテロリストの一味であることを見破った。


エイリアス大佐

宇宙連邦軍憲兵隊の司令官。
各コロニーの防衛軍憲兵隊を統括する人物。
ローガン・ハイネにコンピュータをハッキングされて焦るが、ハイネを知らなかったので、地球人類復活委員会の幹部達からバカにされる。


2018年3月6日火曜日

Break 18

登場人物紹介


ビル・フォーリー・ドーマー

遺伝子管理局内務捜査班 班チーフ副官
チーフのロッシーニが長官秘書として隠密活動しているので、事実上の内務捜査班の責任者となっている。ドームの住人達は皆彼がチーフだと勘違いしている。
冷静沈着で、あまり笑わないし、無駄話もしない人物と思われる。
ハイネやロッシーニとは記号だけで文章を作成する「内務捜査班言語」で連絡を取り合っている。


ハン・ジュアン

遺伝子学者。 テロで死亡。

リック・カールソン

ハン博士の研究室の研究員。テロで死亡。
なお、当初は カール・リックマンと書いていたが、途中で変更。

チャーリー・ドゥーカス

カールソンの同僚。テロで死亡。


エリザベート・エルドラン

地球周回軌道防衛隊の司令官。少将。

カレン・ドナヒュー

地球周回軌道防衛隊所属の憲兵。軍曹。


地球周回軌道防衛隊

月のコロニー政府が所有する軍隊。
「防衛軍」とも呼ばれるが、これは宇宙連邦軍の一部として考えられる時に使用される。
宇宙連邦軍は、各コロニーが所有する軍隊の集合体である。


セシリア・ドーマー

アメリカ・ドーム薬剤管理室の薬剤師。女性ドーマー。
狭い薬剤室に閉じこもって勤務する生活に嫌気がさしていた頃に、リック・カールソンと知り合い、恋に落ちた。しかし、コロニー人との恋愛は禁じられているので、彼の家族の情報を間違った形で解釈して、テロリストに利用されてしまう。


マーガレット・エヴァンズ

アメリカ・ドーム薬剤管理室の薬剤師。コロニー人。
セシリアの友人とは言えないが、同僚として彼女の行動に疑問を抱き、心配していた。



2018年3月5日月曜日

Break 17

 地球上ではテロ事件が後を絶たない。事件の報道を聞くたびに胸が痛む。正常な神経を持っている人は皆同じだろうと思う。自分は他人より虐げられていると思う人が起こすのだろうか。しかし裕福な家に育った人でも暴挙に出る。なぜ自分の意見を言う為に他人の血を流すのか理解出来ない。

 ドームもテロの標的にされてしまった、と言うのが今回のお話。
 相手は、地球人の為にお金を使うのは無駄だ、地球人なんか絶滅させてしまって、資源をコロニーがいただこう、と言う人々だ。彼等は決して貧しくもなく、虐げられてもいない。ただ自分達の税金を衰えた母星に費やすのが嫌なのだ。

 脱落者は、人類愛から脱落したテロリスト、順調に歩んでいた人生を突然奪われてしまった若い副長官、日常の生活に疎外感と不満を抱いており、それをテロリストに利用されてしまった女性ドーマー・・・最後にチラリとサタジット・ラムジーを思わせる台詞もあり・・・。

 ポール・レイン・ドーマーがハイネを「俺の転機に何時も入院している」と文句を言うところがある。偶然だとわかっていても、彼は局長に甘えたいので文句を言うのだ。
彼は本編で息子ライサンダーにハイネのことを「彼のことは尊敬しているし、好きだが」と言い、「俺はどちらかと言えば実務経験のある先輩の方に親しみを覚える。」と言っている。これはなんでも相談出来る相手が先輩だと言っているのであって、ハイネに信頼を置いていないと言う意味ではない。局長はダリルが言う様に「雲の上の人」なので、気安く甘えられない。だが本当に彼を守ってくれるのは局長や長官であることをポールは理解している。だから2人切りになった時、ポールは彼の方から局長に話しかける。心の底では局長とお話したいからだ。逃げてしまった恋人のことを。

 

脱落者 15 - 7

「ところで長官・・・」

 ハイネが何かを思い出して、ケンウッドを見た。

「今年の春分祭は何に扮装されるのです?」

 ケンウッドはアッと声を上げて立ち止まった。爆発事件の騒ぎですっかり忘れていた。春分祭迄、残り一月だ。

「か・・・考えていなかった・・・」

 不幸があったので、今年は中止しようと思っていたのだが、アメリカ・ドームより大きな被害を受けたアフリカ・ドームが春分祭をやると発表したので、アメリカでもやらないわけにも行かなくなった。地球人類復活委員会はテロに屈せずに地球に女性を誕生させる迄頑張るぞ! とアピールしなければならない。
 ハイネは情報を集めてきていた。

「ガブリエルとヴェルティエンの副長官2人は、『ハイジ』をするそうです。」
「2人でハイジ?」
「ガブリエルがハイジで、ヴェルティエンがクララだそうですよ。」
「逆じゃないのか? 車椅子に乗っている方がクララだ。」
「ガブリエルは見えないだけで歩けるのですから、ヴェルティエンが座る車椅子に掴まって歩くのでしょう。」

 副長官2人が2人の少女を演じるのであれば、ヤギは誰がするのだろう、とケンウッドはしょーもないことを考えてしまった。

「ケンタロウは楊貴妃をやると言っています。」
「楊貴妃?」
「古代の中国の美女です。」
「知っているよ。 傾国の美女の筈だ。」
「ケンタロウも化粧をすれば美人になりますよ。」

 ヤマザキ・ケンタロウは毎年アジアの女になって挑戦するが、まだ優勝経験がない。しかし彼の豪華な衣装は女性執政官やテレビを見る視聴者には人気だ。ヤマザキは手作りで衣装を用意するのだ。忙しい医療区長が何時お裁縫をしているのか、誰も知らない。
兎に角、彼が作った衣装は春分祭の後のバザーで何時も高値で売れる。珍しいし、価値ある地球土産になるのだ。
 ハイネはその後も知り得た情報をケンウッドに伝えた。ベックマンはジャンヌ・ダルクを選んだ。他にもキュリー夫人、マーガレット・サッチャー、エビータ(エヴァ・ペロン)、マリー・アントワネット、等等・・・。
 ケンウッドは歩きながら悩み、ふとハイネを振り返った。そして呟いた。

「アン・シャーリーにしよう。」

 ハイネが眉を上げた。

「貴方が?」
「うん。昔、美しいが、馬鹿でかいアン・シャーリーに出会ったことがあってね・・・」


2018年3月4日日曜日

脱落者 15 - 6

 セシリア・ドーマーは、セシリア・テーラーの身分証をもらい、事故で過去の記憶を失った薬剤師と言う偽の経歴で遠いアラスカへ旅立った。セシリア・テーラーが彼女のオリジナルの母親だとは知らされず、ただカールソン家の写真だけお守りの様に胸に抱いていた。これから出張所の監視の下で生きて行くのだ。
 ケンウッドは彼女が罪滅ぼしではなく、本当に自由な生活を手に入れて幸せになってくれれば良いと思った。亡くなった3人の研究者は女性達が自由に暮らせる世界を作ろうとしていたのだから。
 ガブリエル・ブラコフは火星への旅行に耐えられる体力をつける為に、視力がなくてもできる筋トレを始めた。ドーマーもコロニー人も彼に協力的で、ヤマザキを安心させた。
 事件から半月経って、ドームは落ち着きを取り戻した。
 ケンウッドが夕食後の散歩をしていると、ハイネが追いついて来た。すっかり元どおりの体力を取り戻している。とても92歳とは思えない。ヤァ、とケンウッドは声を掛けた。

「遺伝子管理局はこの数日忙しく出入りしているそうだが、外で何かあったのかね?」
「何も特別なことはありませんよ。」

 ハイネはケンウッドの歩調に合わせて歩く速度を緩めた。

「質の悪いメーカーがいるので、その棲家を調べているのです。」
「質の悪いメーカー?」
「かなり高い技術力を持ち、ドームのクローンに匹敵する質の良いクローンを製造出来るメーカーです。」

 ケンウッドは驚いた。

「そんなヤツがいるのか?」
「調べてみると、そいつは3、40年前から活動していた様です。ただ、成人登録申請を出すクローンが少なかったので、目立たなかった。」
「3、40年前から?」
「成人登録するクローンが出現したのが2、30年前ですから、逆算するとね。」
「しかし・・・それだと、そのメーカーはかなり年寄りじゃないか。それとも世代交代をしながら製造を続けているのか?」
「そう言う可能性もありますが・・・そのメーカーが地球人でなければ、1人でやっている可能性もあります。」
「コロニー人のメーカーだと・・・」

 ケンウッドは眉を寄せて考え、ある男を思いついてハッとした。

「まさか・・・あの男?」

 ハイネは否定も肯定もしなかった。だが2人共同じ人物を頭に思い浮かべていた。
 クローン研究から脱落して地球上のどこかに姿を消した、あの男を。

脱落者 15 - 5

 ローガン・ハイネ・ドーマーが一般食堂で昼寝をしている。そんな噂がドーム内を駆け抜けた。遺伝子管理局長はケンウッド長官とヴェルティエン新副長官と共に昼食を取りに来たが、食事が終わって執政官2人が食堂を出て行った後も1人残って、椅子に座ったままうつらうつらし始めたのだ。局長は大怪我をして、退院してからまだ日が浅い。食堂スタッフが心配して様子を伺いに近づくと、局長は薄眼を開けて、ジロリと目蓋の下から睨んだ。
 若いピート・オブライアン・ドーマーと言う厨房スタッフは果敢にも局長に声を掛けた。

「局長、そんな場所でお休みになられたら、却ってお体に良くありませんよ。」
「お気遣い有り難う。」

 ハイネは目を閉じて言った。

「時間調整をしているだけだから、お構いなく。」

 オブライアンがお辞儀して立ち去ろうとすると、彼は言い足した。

「3時になったら、レアチーズケーキにラズベリーソースを掛けて、カフェイン抜きのコーヒーにミルクと砂糖を入れて持って来てくれないか?」

 ここはセルフサービスだ、と言おうとして、オブライアンは相手が誰か思い出した。ハイネが自ら配膳コーナーへ取りに行けば、チーズケーキは一瞬のうちになくなる・・・。
若い料理人は恭しく答えた。

「承知しました、3時にお持ちします。」

 彼が立ち去って半時間後、ポール・レイン・ドーマーと北米南部班チーフ、フレデリック・ベイル・ドーマーがやって来た。ベイルはチーフとして10年以上働いてきたのだが、そろそろ抗原注射の飽和が近づきそうな気配で、最近は自ら外勤務をセーブしていた。ドームの外で発作が起きれば命取りになりかねない。外の地球人はドーマーの体に何が起きたのかわからないのだから。50歳と言う年齢は、外勤務をする局員にはそろそろ限界なのだ。ハイネはベイルの髪に白いものが混じっているのに気が付いた。

「レインが局長とセルシウス・ドーマーの会話に気になる話があったと申しましたが?」

 座るなりベイルが切り出した。ハイネがレインを見たので、レインは仕方なくきっかけを捻り出した。

「昨晩、浴場でお話しされていましたよね? セルシウス・ドーマーが住民登録と遺伝子登録の照合で気になるデータを見つけられたとか?」

 ベイルが気が削がれた様な表情をした。たったそれだけでわざわざ病み上がりの局長を呼び出したのか? しかし、真の言い出しっぺの局長は、部下が聞きたい情報を素直に出してきた。

「この1、2年で中西部での成人登録申請が8件もある。」
「成人登録ですか?」

 ベイルが表情を引き締めた。成人登録申請は、違法クローンが18歳になって正規の人間としての権利を得る目的で出す法律上の手続きだ。違法クローンが医療機関の世話にならずに成人する迄生きられるのは珍しい。18年間、バレずに生きて来たのだ。遺伝子管理局の目を欺いて。
 レインも重要性に気が付いた。成人登録申請を堂々と出せるクローンを作る技術を持つメーカーがいるのだ。クローンの子供を大事に守って育てられる財力を持つ人間がいて、その支払い能力を利用しているメーカーがいる。
 レインは尋ねた。

「その子供達の遺伝子はどうなっています?」
「申請した親の遺伝子を継いでいる。完璧なクローンだ。健康障害も出ていない。」
「ドームのクローンと同じですか?」
「ドームのクローンは受精卵から作る。違法クローンは男性の体細胞から作る。同じではない。」
「体細胞クローンは親が作った時の親の年齢が受け継がれます。だから成人迄生きるのが難しい。」
「恐らく生殖細胞から作っているのだ。」
「男性単体で繁殖出来ません、脊椎動物は無理です。」

 しかし、ハイネは部下達を見比べて言った。

「無理ではない、女性の卵細胞を使って、受精させずに男性のクローンを作るのだ。そうすれば、父親の遺伝子をそっくり持った健康状態が良好な子供を得られる。」
「それは・・・メーカーの設備では無理でしょう? 技術だって、そこまで到達していない。」

 レインはハイネが何も返さないのに、何かを言いたげな目をしたことに気が付いた。しかし、ハイネは結局何も言わずに、ベイルにメーカーの存在を確認するようにと指図しただけだった。






脱落者 15 - 4

 ケンウッドはハイネとヴェルティエンを連れて昼食を取りに一般食堂へ行った。ブラコフも誘いたかったが、彼はまだ口から食事を取れなかったので、医療区に戻って行った。自動センサー付きの車椅子で介護なしで独りで来て、独りで戻って行ったのだ。ブラコフは勇気があるが、許可したヤマザキも大胆な医者だ、とケンウッドは思った。
 昼食時間は遅かったので食堂内は空いていた。空いている時間がケンウッドもハイネも好きだった。普通に昼休みを取っていたヴェルティエンは、食堂内を見渡した。彼はどちらかと言えば中央研究所の食堂で食事をして、庭園で休憩するのが昼休みの過ごし方だったので、一般食堂は賑やかな場所だと思っていたし、空いている時間が珍しいのだ。

「かなり広いんですね、こっちは。」
「まさか初めて来た訳ではあるまいに。」
「でも、空いている時間帯は大概僕の昼寝時間ですから。」

 彼はハイネに向かってウィンクした。

「局長も庭園でお昼寝なさるでしょう? でも一番他人に邪魔されない場所をご存知ですか?」

 ケンウッドはハイネが溜め息をつくのを見た。遺伝子管理局長は相手を見て言った。

「副長官、ドーマーに敬語を使用なさるのはお止しなさい。」
「しかし・・・」

 数日前迄秘書だった男は少々うろたえた。

「僕は地球に勤務して15年・・・ずっとこう言う喋り方で貴方と接して来ましたから・・・」

 ハイネが肩を竦め、ケンウッドが苦笑した。

「ハイネ、慣れる迄我慢してやれ。それにヴァンサンは執政官になるつもりもなかった人間だ。急にドーマーの『親』と言われても戸惑うだけだ。」

 ハイネは長官を見て、また視線を副長官に戻した。それでヴェルティエンはもう一度尋ねた。

「さっき僕が言った場所がわか・・・る?」

 ハイネは数秒間彼を見つめ、副長官の緊張がマックスになる頃に、ゆっくりと首を振った。

「いいえ。」

 ケンウッドが吹き出した。

「ハイネ、君も人が悪いぞ。」
「私は考えていただけですよ。」

 その時、ハイネの端末に着信があった。ハイネは上司達に断りを入れて電話に出た。

「局長、ベイルです。午後にお時間をいただけますか? 場所は本部でなくても良いのですが・・・レインが、局長とセルシウス・ドーマーの会話を小耳に挟んで気になることがある、と言うのです。何の話か彼は言いませんが、私にも聞いて欲しいと申しますので・・・。」

 ハイネはレインが上手く話に食いついてくれたので、胸の内で微笑んだ。顔は無表情に

「わかった、では午後3時に一般食堂でどうだ? お茶でもしながら、何をレインが気にしているのか、聞こう。」

と答えた。ヴェルティエンが時計を見た。

「お茶の時間まで、2時間もありませんが・・・?」

 ハイネの目がまた彼を見つめた。だからどうした? と目で問われ、新副長官はドキドキした。



脱落者 15 - 3

 翌日の昼前に行われるドーム幹部の日程予定打ち合わせには、いつものメンバーが揃っていた。ケンウッド長官の執務室に、ハイネ遺伝子管理局長、ベックマン保安課長、そして新副長官ヴェルティエンと、車椅子に座ったブラコフ副長官だ。ブラコフは歩けるが視覚がまだないので、車椅子で医療区からやって来た。秘書スペースには、月から来たばかりの新人のコロニー人秘書が緊張の面持ちで座っていた。ロッシーニ・ドーマーが彼を優しい・・・とは言えない目で見ている。新入りがしくじったら補佐する役目なので、彼も気を張っているのだ。
 日程予定打ち合わせは通常保安課長の参加はないのだが、その日は特別だった。班長会議でセシリア・ドーマーに対する裁決が下るので、結果を聞かなければならなかった。ドアのチャイムが鳴り、ロッシーニに目で急かされて新人秘書が応対のボタンを押した。女性の声が聞こえ、ロッシーニが頷いたので、彼は「どうぞお入り下さい」と言って、ドアを開いた。
 出産管理区長のアイダ・サヤカ博士が入室した。彼女の登場はケンウッドだけが聞かされていたので、他のメンバーは皆驚いた。素早く女性好きのハイネ局長が彼女の席を自身の隣に用意して、彼女を誘導した。ベックマンが不安気に呟いた。

「アイダ博士まで呼ばれると言うことは、セシリア・ドーマーの処遇は出産区絡みでしょうか?」

 ヴェルティエンが肩を竦めた。それからブラコフには見えないのだと思い出して、口で「どうでしょうか?」と囁いた。
 ケンウッドは時計を見た。日程予定打ち合わせはとうに終わっていた。昼食の時間だ。ハイネは遅くなっても平気だが、ブラコフは医療区の給食時間が決まっているので、時間内に帰してやらないと、医療区から苦情が来る。ヤマザキ・ケンタロウはこう言うところは厳しいのだ。
 やっとロビン・コスビー・ドーマーがやって来た。遅くなったことを少しも悪く思っておらず、一言、「裁決が出ました」と挨拶がわりに言って、着席した。

「どうなった?」

とベックマンが急く様に尋ねた。コスビーが一同を見回した。

「セシリア・ドーマーをドーム外に追放します。」
「外に追放?!」

とベックマンが声を上げたが、ハイネは頷いただけだった。ケンウッドは裁定の意味を考えた。

「外の世界を何も知らない人間を、いきなり外へ放り出すのかね?」
「そうです。」
「しかし、女性は貴重だろう?」

とまたベックマン。するとハイネが言った。

「女性ドーマーは元々外で生きる為に生まれて来たのですよ、保安課長。」
「しかし・・・外の世界の暮らしも危険性も何も知識がないのに・・・」
「これは処罰です。」

 コスビーが咳払いして幹部の注意を自身に向けた。

「ドームに牢獄はありません。セシリア・ドーマーはフェリートに騙されて爆弾の触媒を調合して3名を死亡させ、ブラコフ副長官とエヴァンズ薬剤師に重傷を負わせ、ハイネ局長を錯乱の下に殺害しようとしました。無罪とするには、結果が重すぎます。しかし、有罪にしても彼女を置く場所がドームにはありません。コロニーに送ることは許されない。
ですから、ドームの外で、普通の地球人として暮らすことが、彼女への処罰です。ドームからの保護は一切ありません。元ドーマーとは違うのです。そして監視は付きます。遺伝子管理局出張所が彼女を監視して、行動をドームに報告します。」

 ハイネが眉を上げてコスビーを見た。遺伝子管理局にまだその話は来ていないのだ。

「どこの出張所が担当するのだ?」

 コスビーが自身の端末メモを見て確認した。

「北米北部班のアラスカ、アンカレッジ出張所です。」

 一同の中で、ただ独りアラスカへ行ったことがあるヴェルティエンが思わず口笛を吹いた。

「冬は極寒ですよ、アラスカは!」
「ですから、セシリアには辛いでしょうな。」

 コスビーは続けた。

「勿論、何の準備もなく放置することはしません。そこまで我々は非道ではない。取り敢えず、彼女に新しい身分と名前を与え、薬剤師として生きる道は用意します。そこからどんな人生を送るかは、彼女次第です。」

 彼はアイダ博士を見た。

「セシリア・ドーマーには、女性クローンの本来の役目、地球人の母親となる役目を課します。彼女が望んでいた自由な恋愛が出来れば良いのですが・・・彼女が出産することになったら、その時は、よろしくお願いします。普通の母親として面倒を見てやって下さい。奪った命の数だけ、子供を産んでくれれば良いのですが。」

 アイダ・サヤカは自分が呼ばれた理由を理解した。爆発の後、セシリアの手術をして看護したのは出産区だ。

「わかりました。彼女が幸せな母親となってくれる様、祈っています。」

脱落者 15 - 2

 ポール・レイン・ドーマーはやっと班チーフ会議で北米南部班に復帰することが決まり、しかも第4チームのリーダーに任命された。南部班復帰は嬉しいが、リーダーは思った以上に忙しく、またダリル・セイヤーズ・ドーマー捜索の時間が遠のいていく。
 人生とは上手く行かないもんだと思いながら、彼はある日の夜遅く、業務を終え、ジムで夕食後のトレーニングをしてから浴場に行った。サウナは満員だった。丁度保安課の日中当番が業務を終えて一斉にやって来たのだ。ここでも上手く行かないもんだ、と心の中で愚痴りながら、彼はジャグジーに行った。保安課と同席するのは嫌いではないが、座るスペースがなかったのだ。
 ジャグジーは空いていた。少し早い時刻だったらここも満員だっただろう。レインがお湯のそばに来た時は、1人しか浸かっていなかった。先客の真っ白な頭を見て、レインはドキリとした。本当に・・・今日はついていない・・・。

「こんばんは」

 声を掛けてお湯に入ると、相手も返事をしてくれた。微温い温度のお湯に浸かって、ぼーっと空を眺めているその人に、レインは話しかけてみた。

「お身体の具合はいかがですか?」

 ローガン・ハイネがゆっくりと首を動かして彼を振り返った。

「調子は良いよ、やっと運動の許可が下りたのさ。お気遣い、有難う。」

 彼の白い肌の胸の下に、赤いイビツなU字型の傷痕が見えた。全て完璧な美しさのハイネの体に、傷が付いている。レインは思わず尋ねてしまった。

「その傷痕、整形で消せるんじゃないですか?」

 ハイネがチラリと自身の胸を見下ろした。そして顔を上げてレインを再び見た。

「傷痕の一つぐらい付いていても構わないだろう? 寧ろ野性味があってかっこいいじゃないか。」

 口角を上げて、悪戯っ子の様に微笑んで見せたので、レインも思わず微笑した。そして思った。

 外に出たことがないので真の危険を知らないと思われるのが、この人のコンプレックスなのかも知れないな・・・

「でも、普段は服の下でしょう?」
「見せびらかすものではないし、ロッカールームで皆見ないふりをして見るから、それで良いんだ。」

 ハイネが可笑しそうに言った。

「昔から、皆私が服を脱ぐとそっと観察するのだよ、1本ぐらい黒や赤や茶色の毛が生えていやしないかとね。」
「まさか!」

 レインもつられて笑った。彼が笑うのを止めるのを待って、ハイネが何気ない風に言った。

「君は忙しくて来られないだろうから、住民登録と遺伝子登録の照合をジェレミーと私の2人で続けていたのだが、最近気になるデータが出て来て、どうしたものかと考えている。」

 え? とレインがお湯の中で体を乗り出した。ハイネはすぐに牽制した。

「セイヤーズとは関係ないと思われる。メーカーの方だ。」
「メーカー・・・ですか?」

 レインは努力して落胆を隠そうとした。本来の仕事の方だ。身を入れて聞かなければならない。ハイネは、しかしこう言った。

「寛ぐ場所で仕事の話は野暮だな。明日はまだドームに居るのかね?」
「はい、明後日出動します。」
「では、明日、君の手が空いてからで良いから、チーフに言って、2人で私の部屋に来なさい。ベイルにもまだ話していないのだ。」
 
 レインはちょっと躊躇った。

「局長から俺に直接お話があったと言うのは、チーフを飛ばしたみたいで、良くないですか?」

 するとハイネがクックッと笑った。

「君はそんなつまらないことを気にするのか? ちょっと頭を働かせてみなさい。フレデリック・ベイルが気を悪くしない様な話をすれば良い。」

 彼は片目を瞑って見せた。

「リーダーと言うのは、チーフ候補なのだからな。」



 

2018年3月3日土曜日

脱落者 15 - 1

 ニコラス・ケンウッド長官は秘書ヴァンサン・ヴェルティエンを副長官に任命した。この人事には反発する人もいたが、ヴェルティエンが不満だからと言う理由でないことは救いだった。反発する人達は、入院中のガブリエル・ブラコフに同情しているのだ。
 ブラコフはケンウッドから説明を受けた時、5分間脳波翻訳機の電源を落とした。ケンウッドは忍耐強く彼が再び話し合いを再開するのを待った。
 やがてブラコフの手が翻訳機のスィッチを入れた。

「失礼しました。ちょっと感情の波が押し寄せてきて、上手く言葉を作れなかったので。」
「いくらでも待つさ。中途半端に話し合いを終わらせる訳に行かないからね。」
「ヴァンサンは副長官にふさわしい人です。」
「だが遺伝子学者ではない。彼は君の助けを必要としている。だから2人副長官制を採用する。」
「僕はまだ必要とされている? 本当に?」
「本当だ。こんな重要なことで嘘をつくものか。ドームはお情けで病人を置いておける場所じゃない。」

 ブラコフは体を起こした。顔には人工皮膚マスクが装着されている。感染症を予防する為に必要なのだ。まだ眼球や鼻は形成途中で、唇もできていないが、病室の中は手探りで歩ける迄に回復した。

「ヤマザキ博士が、僕に火星へ行けと仰るのですが。」
「火星に?」
「パーシバル博士が神経を再生させる治療を施して下さるので、火星で眼球の手術を受けて来いと・・・」
「そうか!」

 ケンウッドは端末でクローン製造施設を呼び出した。ブラコフの顔のパーツの形成進行状態を問い合わせてみた。ブラコフの眼球は後10日で完成すると言う返答だった。

「先ずは目を回復させなさい。筋肉と皮膚は徐々に再生されている。顔の造形は感覚器官の回復が終わってから整えよう。長期入院になるので、パーツができる都度、火星に送ってあげるよ。仕事は通信を介してヴェルティエンと共同でやってくれ。出来るだろう?」
「火星に行っても良いのですね?」
「勿論だ。迷っていたのかね?」
「執行部は僕をクビにするのではないかと心配でした。」
「クビになんかさせない。ドームで署名を集めている。執政官も研究員もドーマーも皆が君がここに残ることを望んでいる。」
「副長官職から降りても構いません、ここに残って研究を続けたいです。」
「ヘンリー・パーシバルは優秀な神経の研究者だ。再生技術はピカ一だから、きっと治してくれる。」

脱落者 14 - 6

「貴女は触媒が間違ったものだと気が付いた?」

 キャリーの質問に、セシリア・ドーマーはまた涙を目に浮かべて頷いた。

「ハン博士が1滴入れた瞬間に気がつきました。予想された色と違っていた・・・私が気づくと同時にハイネ局長が叫ばれました。何を叫ばれたのか覚えていませんけど、直後に局長に押し倒されて気絶しました。頭を床にぶつけたのだと思います。
 気が付いたら、部屋の中の空気は気化した薬品で真っ白になっていて、酸っぱい嫌な匂いがしていました。喉が焼けるように痛くて・・・私はリックが無事なのか気になって起き上がり、名前を呼びましたが、返事はありませんでした。テーブルの向こうへ行こうとしたら、倒れている人達が目に入りました。3人・・・血まみれで顔が・・・」

 彼女は両手で顔を覆った。ハイネとキャリーは辛抱強く彼女がまた口を開く迄待った。
 やがてセシリアは「すみません」と言って、気持ちを落ち着かせた。

「私は彼の名を呼び続けたような気がします。彼を助けなければ、と思い、彼はもう死んでいるのだと思い、何をどうして良いのかわかりませんでした。
 それから、気化した空気の向こうで誰かが動いているのに気がつきました。局長が副長官の蘇生処置をされていたのです。私は副長官は亡くなっていると思いました。死んだ人を手当するのなら、リックを助けてと言いましたけど、局長は聞いてくれませんでした。私は腹が立って、近くに落ちていたガラス片を掴みました。局長を脅してでもリックを助けて欲しかったのです。私はおかしくなっていたのでしょうね。
 局長はリックはもう手遅れだと仰いました。私はカッとなりました。ただ猛烈に腹が立った・・・それだけです。ガラス片を持って、死んだ副長官に向かって駆け出しました。死体を刺して死んでいることを局長に納得させようと思ったのか、それともただガラス片を持って走った意味不明の行動だったのか、もう思い出せません。局長が前に立ち塞がって、私はぶつかって行きました。」

 セシリアはハイネを見た。

「ごめんなさい、本当に申し訳ありませんでした。あの時は本当に世界が終わったと思いました。リックがいない世界なんて、私には意味がなかった・・・ドーマーは閉じ込められずに広い世界で死ぬべきです、私は解放されたかったんです。リックと宇宙へ行きたかったんです。狭くて暗い薬剤管理室はもう嫌でした。私は自分を解放して、貴方も解放して、自由な世界へ行こうと・・・あの部屋の中の人間は1人残らず死んでしまえば良いと・・・」

 キャリーが彼女の背中に手を当てた。

「貴女、お友達はいなかったの?」
「私・・・誰にも馴染めなくて・・・でもリックは優しくしてくれました。フェリート室長も・・・」

 セシリア・ドーマーはハイネを見た。

「私は殺人者ですね?」
「君は誰を殺したのかな?」

 ハイネは立ち上がった。ひどく悲しい気分だった。女性たちはドーマーとして生まれたのではない。取り替え子となるべき男子が母胎内で死亡してしまったので、止むを得ずドームに残されたのだ。もし男子が無事に生まれていたら、セシリア・ドーマーは今頃別の名前をもらって両親の下で暮らし、恋愛をして結婚して・・・。

「君はテロリストに道具として利用されたのだ。君にもつけ入れられる弱さがあったのは確かだ。君の処遇は班チーフ会議に委ねられる。今の君の証言は保安課がモニターしているので、会議で使用される可能性がある。君は弁護人を依頼するか?」

 ハイネが感情を交えない言葉で尋ねると、セシリア・ドーマーは首を振った。

「チーフ達に全てを委ねます。どんな処罰も受けます。私はもう元の生活に戻れませんから。」

脱落者 14 - 5

 キャリー・ワグナー・ドーマーは椅子をハイネに譲り、自身はセシリアと並んでベッドに座った。
 セシリア・ドーマーはハイネのハンカチで涙と鼻水を拭い、気分が落ち着いて来ると、リック・カールソンと血縁関係にあると思い込んだ経緯を思い出せる範囲で語った。
 リック・カールソンはハン・ジュアン博士の遣いで度々薬剤管理室を訪れていた。ハンサムで若い彼は女性達に人気で、大人しいセシリアも薬剤師の人数が少ないので彼と話をすることが出来た。ある時、彼が姉の名前はセシリアだと言った。そして双子なので、そっくりの姉がいるとも言った。セシリア・ドーマーは同名の人がいると言う話に興味を抱いた。それが憧れているコロニー人の身内なので、嬉しかった。
 フェリート薬剤管理室長が、ドーマーの名前の約束事を教えてくれた。ドーマー達は皆その約束事を養育棟時代に教えられるのだが、多くは気にしないで忘れてしまう。だから室長の言葉が間違っていても気にしなかった。フェリートはセシリアのオリジナルの名はセシリアだと言った。そしてオリジナルはドーマーと双子同然だから、そっくりなのだと。オリジナルの母親の名がセシリアなのに、オリジナルの名がセシリアだと言った、ただそれだけの言葉が、セシリア・ドーマーの勘違いを引き起こした。

「今思えば、私は本当に愚かでした。私はリック・カールソンが好きでした。でもドーマーとコロニー人の恋愛は禁じらています。少なくとも、コロニー人は罪に問われます。私は気持ちを努力して抑えていましたが、もし彼と姉弟なのであれば、彼を弟として愛せば良いと思ったのです。
 リックは別の勘違いをしたと思います。私が彼に必要以上に親しげに接したので、私が彼に恋愛感情を持っていると思ったようです。勿論、彼は間違っていませんでした。私は彼を男性として憧れたのですから。その思いを姉弟愛に無理矢理置き換えただけなのです。彼は親切にも、私に出来るだけ応えようとしてくれました。そして私の姉弟ごっこに合わせてくれました。
 私達の振る舞いをマーガレット・エヴァンズが見咎めて注意してくれましたが、私は愚かでしたから、聞く耳を持ちませんでした。もしあの時、彼女の注意に耳を傾けていれば、私はリックを死なせずに済んだかも知れません。」

 ハイネもキャリーも黙って聞いていた。セシリア・ドーマーが真実を語っているのか作り話をしているのか、確認する質問もしなかった。彼女の気がすむまで語らせた。

「フェリート室長は、オリジナルが広い世界で生きているのにクローンが閉じ込められて一生を過ごすのは気の毒だと言いました。それにリックは優秀なのに研究員の身分のままで博士になれないのも気の毒だと言いました。リックが博士になれないのは、大学の裁定で落とされたからです。でも地球で研究成果を上げれば、論文の成績に付加されて博士になれるのだそうです。」

 それはドーマー達もよく耳にする話だ。だから若い研究員達が地球勤務を希望して地球人類復活委員会に登録する。地球に女性誕生を、と本当に考えているのか首を傾げるような研究員が多いのはそのせいだ。そんな連中がルックスの良いドーマーをペット扱いして問題を起こすのだ。

「私はリックの研究成果の援助をしようと、色々薬剤調合で協力しました。ハン博士が新しい羊水分析薬を開発された時、それがリックの手柄だったらどんなに良いかと思いました。リックが博士の原稿を清書して室長に渡した時、薬品の反応時間が長いことに気がつきました。私が薬剤の置き換えで反応速度を上げてはどうかと言うと、リックはそれは彼も考えたが博士に却下されたと言いました。その時、室長が呟いたのです。」

 セシリアは涙を拭った。

「ハン博士はカールソン研究員の意見を潰すつもりだ、と。」

 キャリーはハイネを見た。これは悪魔の囁きだ。ハイネは微かに眉を寄せたが、何もコメントしなかった。

「リックはハン博士のレシピを少し変更しました。分析剤を完成の一歩手前で調合を止め、最後の1剤を実験直前に入れると反応速度が早くなるので、そのように書き換えたのです。そしてフェリート室長がそのレシピを木星の製薬会社に送信しました。
 けれど、製薬会社から戻ってきたのは、未完の分析剤と変更が追加されたレシピでした。触媒が2剤に増えていたのです。
 室長は反応がさらに早くなると言いましたが、エヴァンズが怪しんで未完の分析剤を検査しました。結果はシロで、私は室長の立会いの下で触媒2剤を調合しました。室長がそれを私が実験室に持って行くようにと言いました。調合した責任者として実験に立ち会っても良いと言って下さったので、私は嬉しかったのです。実験が成功すれば、ハン博士の研究が進み、リックも博士の称号を得るチャンスをもらえます。」

 ハイネが初めて呟いた。

「フェリートは君も一緒に爆発に巻き込むつもりだったのだな・・・証人を消す目的で。」



脱落者 14 - 4

 ドアをノックする音がした。キャリー・(ジンバリスト)・ワグナー・ドーマーは立ち上がって自分でドアを開けた。ローガン・ハイネ・ドーマーが立っていた。昨日脱いだスーツを着て(勿論、シャツは新しいのをもらって)身ぎれいにして立っていた。彼は女性医師に「おはよう」と声を掛けた。

「入ってもよろしいか、先生?」

 キャリーは後ろを振り返った。セシリアは泣いていて、局長の声に気が付いていなかった。キャリーは微笑んだ。

「おはようございます。勿論です、お入り下さい。」

 彼女は場所を空けて彼を通した。ハイネが静かに入室した。そしてセシリア・ドーマーに声を掛けた。

「おはよう、セシリア・ドーマー。」

 セシリア・ドーマーの動きが止まった。聞き覚えのある声に戸惑った。聞こえる筈のない声に。
 キャリーが声を掛けた。

「セシリア、ハイネ局長にご挨拶は?」

 セシリア・ドーマーがパッと立ち上がった。ほとんど跳び上がったと言って良い程、驚いていた。目を丸くして、目の前の長身の男を見上げた。 それから震えだした。

「嘘・・・生きているの?」

 ハイネが頷いた。

「なんとか救助されて生きている。クック先生は素晴らしい外科医だ。」

 そしてセシリアの顔、鼻を見た。

「咄嗟のこととは言え、君の顔を殴ってすまなかった。まだ痛むかね?」

 セシリア・ドーマーは無言で首を振った。そしてまた泣き出した。

「ごめんなさい・・・刺したりしてごめんなさい・・・」

 床にしゃがみこもうとした彼女の体をハイネが支えた。そして抱き締めた。ハンカチを出して彼女の手に握らせた。

「まだ鼻を擤んだりしては駄目だぞ。そっとぬぐいなさい。」


脱落者 14 - 3

 キャリーはセシリアが食い入る様に写真を眺めるを黙って観察していた。写真の被写体人物は皆一様に似ていた。リック・カールソンは中央に並んで立っている両親の母親の横に立っていた。両親の後ろには、軍人の弟、末っ子の弟、双子の姉の1人とその夫、父親の横にはもう1人の双子の姉と夫、前列には両親の孫達、つまり双子の姉のそれぞれの子供達が並んでいた。リックの隣には従兄弟達が数名いた。
 血縁の家族と言うものを知らないドーマーにとっては、不思議な光景だ。映画やテレビで見たことはあるが・・・身近にいた人の親族を見るなど経験がない。
 セシリアがキャリーに視線を向けた。目で説明を求めてきたので、セシリアはケンウッドの説明書きをそのまま説明した。

「同じ顔の女性が2人いるでしょう?」
「クローンね?」
「いいえ、双子よ。一卵性双生児、最初の受精卵は一つ、でも母親の胎内で2人に分かれたの。習ったこと、あるわよね?」
「ええ・・・でも・・・この人達・・・」
「リックのお姉さんよ。この写真の人々はカールソン家なの。」

 セシリア・ドーマーの目に困惑の色が浮かんだ。キャリーが整理する為に尋ねた。

「リックは、貴女のオリジナルの弟だと言ったわよね?」
「ええ・・・でも・・・」
「その双子は貴女に似ていないわ。オリジナルなら、貴女はその双子とそっくりでなければならない。」
「でも・・・」
「双子の1人の名前はセシリアなの。でも、ドーマーの名前はお母さんからもらうのよ。貴女のオリジナルのお母さんの名前はセシリア、それは間違いないわ。でもその双子のセシリアとリックのお母さん、リックの隣に立っている女性ね、彼女の名前はエリザベート。」
「エリザベート?」
「エリザベート・ウェスト。彼女は受精卵を地球人類復活委員会に提供したことがない。コロニー人の4割が人工授精で子供を作るらしいの。地球人の母親になるクローンは、その人工授精した受精卵を母胎に入れる前に借りて作るの。でもウェストさんは自然な交わりで子供を作ったので、提供しなかった。」

 セシリア・ドーマーの手から写真が床に落ちた。

「それでは・・・私は・・・」

 彼女の声が震えた。

「私はリックの姉のクローンではないのね?」
「貴女は、ちゃんと別の人のクローンだとマザーに登録されているわ。」
「私は・・・」
「貴女がリックの姉のクローンだと言ったのは、誰?」

 セシリア・ドーマーの目から涙が落ちた。

「私・・・オリジナルがコロニーで自由に暮らしているのに私が狭いドームで一生を生きるなんて不公平だと思った・・・」
「貴女の本当のオリジナルは確かにコロニーに居る筈よ。でも自由に生きているのかどうか、それはわからない。」

 セシリアが振り向いたので、キャリーは優しく言った。

「コロニーにだって規則はいっぱいあるし、法律は当然あるわ。コロニーは規則を守らなければコロニー全体の生命の危険が生じるけれど、ドームはそんな心配がない。それにコロニーは空気がある場所が限られているから、広くないわよ。ドームの方が外の綺麗な風景が壁越しに見えるし、抗原注射を打って外に出かけることも出来る。女性ドーマーだって、外出の必要性を認めてもらえれば、出かけられるのよ。」

 セシリアは首を強く振った。

「駄目よ! 私は人を殺してしまったのですもの!」


脱落者 14 - 2

 キャリー・ジンバリスト・ワグナー・ドーマーはちょっと髪に手をやって乱れていないか感触で確かめた。今朝、アパートを出る時に夫のクラウス・フォン・ワグナー・ドーマーとハグしてキスをして互いの顔を撫であった。いつもの習慣だ。養育係にしてもらった様に、同じ部屋で育った夫妻はずっとこの習慣を続けていたが、時々クラウスがふざけて彼女の髪をグシャグシャにする。
 観察棟の保安課員達は女性医師が来ることを楽しみにしていた。キャリーは美人だし優しい。素敵なお姉様だ。クラウスが羨ましい。おはようございます、と挨拶してから、1人の保安課員が尋ねた。

「先生は、どうしてワグナー姓を名乗らないのです?」
「名乗っているわよ?」
「でも余り使わないでしょう?」
「長くなるから省略しているの。ジンバリストと言った方が、私だって思い出してもらえるもの。」
「でも、キャリー・ワグナーの方が短いですよ?」

 キャリーは相手の顔を数秒間見つめた。そしてニッコリした。

「そう言われればそうよね・・・」

 ジンバリストを省略しても、先輩キャリー・ドーマーと混同されることはないだろう、ワグナーを付けるのだから。キャリーは保安課員の肩をバンバンと叩いて、颯爽と棟内を歩いて行った。それを見送る保安課員達は、キャリー先生ってなんてかっこいいんだろう、と頷きあった。
 キャリーはセシリア・ドーマーの部屋の前に来ると、先ずはドア横の小さなモニター画面で室内の様子を確かめた。拘束を解かれたセシリアは早い朝食を済ませて、寝巻きのままだが髪や顔の手入れを済ませていた。女性らしく面会者に見苦しい姿を見られたくないのだ。食事を運んで来るロボットには申し訳ないけれど、朝食の搬入時だけは寝起きの顔だ。しかし下げに来る時は保安課員が様子を見に来るので、きちんとしておきたい。
 セシリアがベッドに腰掛けてテレビを見ていたので、キャリーはドアをノックした。セシリアはテレビの音量を下げて、ドアを見た。キャリーが入室した。

「おはようございます、セシリア・ドーマー。」
「おはようございます、ジンバリスト先生。」

 キャリーが照れ臭そうに言った。

「今日からワグナー姓を使うことにするわ。」
「ああ・・・貴女は既婚者だったわね・・・でもどうして?」
「ジンバリストよりワグナーの方が短いから。それだけ。」

 キャリーはテーブルの椅子を出して座った。室内に椅子はそれだけだった。
 彼女は手にしていた書類挟みから一枚の写真を出した。

「昨晩、月に出張中のケンウッド長官が送って下さったものよ。貴女に見て欲しいのですって。」

 手渡された写真を見て、一瞬セシリアは不思議そうな顔をした。見たこともない風景だった。広い緑色の平地の上に、人間が20人ばかり集合してカメラに向かって微笑んでいる。大人がいれば子供もいる。男も女もいる。空は青いが、ドームの天井の様な色ではない。

「これは?」
「コロニーの野菜農場ですって。本当はドーマーにそんな写真を見せてはいけないのだけど、貴女にどうしても見て欲しいって、長官が・・・」

 その時、写っている人物の1人をセシリアは判別した。

「リック?!」




脱落者 14 - 1

 ヤマザキ・ケンタロウは、アーノルド・ベックマン保安課長が余計なことをした、と内心悔やんでいた。
 セシリア・ドーマーとの面会を早朝に設定していたので、彼はかなり早い時間に観察棟に出向いた。ローガン・ハイネはまだ傷が完治していないので、毎朝診察が必要なのだ。彼が訪問した時、ハイネは起きて保安課が用意した朝ご飯を食べていた。
 観察棟は本来収容された違法クローンの子供達を治療・観察する場所だ。違法クローンはメーカーと呼ばれるモグリのクローン製造業者の未熟な技術や不完全な設備で生まれたので、健康上の問題を抱えていることが多い。多くは成人前に死んでしまうのだ。ドームに収容されている子供達は、出来るだけ人間として長く生きられるように治療を施され、刑務所に収監された親が刑期を終える迄教育を受けたりして暮らしている。
 観察棟の規則として、収容者は寝巻きを着せられ、病院食を出される。ハイネは幽閉時代は私服で普通の食事も偶に出してもらっていたが、今回は一時的な収容なので、寝巻きにお粥だ。但し不機嫌なのは、そのせいではない。

「頭痛がします。」

と彼は端末で走査診断をしているヤマザキに訴えた。ヤマザキは原因を知っていたが、ベックマン課長の為に誤魔化した。

「休養が必要な体なのに、無理な姿勢で寝たからだよ。」

 ハイネは長身なので、少年用のベッドは少し小さくて体を縮めて寝ていたのだ。彼は納得しなかった。

「筋肉痛ではありません。頭痛です。脳の血管が収縮するみたいな・・・」

 人生経験豊かなドーマーは医師をグッと見つめた。

「まさか、ドクターが睡眠薬を盛ったのではないでしょうな?」
「そんなことはしないよっ!」

 ヤマザキは慌てて否定した。彼は前科がある。ハイネのアパートで酒盛りをした時に、彼に大酒をして欲しくなくて眠らせたのだ。その結果、翌日のハイネは不機嫌でケンウッドに当り散らした。犯人がヤマザキだと判明した後4、5日はハイネは彼を無視したのだ。

「僕が君の収容を知ったのは、君の晩御飯が終わった後だ。」

 ハイネの青みがかった薄い灰色の目がヤマザキ・ケンタロウの目をじっと見つめた。ヤマザキは負けじと見つめ返した。1分後、ハイネが先に折れた。

「わかりました、貴方は無実の様だ。」

 彼はテーブルを離れた。

「シャワーを浴びます。女性に面会するのですから、身ぎれいにしておかないとね。」


2018年3月2日金曜日

脱落者 13 - 8

 くれぐれもカレン・ドナヒュー軍曹にお咎め無きように、とケンウッドはエイリアス大佐に念を押して委員会本部から送り出した。
 大佐がロビーから出て行き、迎えの車に乗り込んで去って行くと、見送りに出ていたハナオカ委員長がケンウッドとハレンバーグ、ヴェルティエンが待っている場所に戻って来た。

「全く・・・あの白いドーマーにはいつも振り回される・・・」

 ハナオカが愚痴ると、ハレンバーグが愉快そうに笑った。

「だが、あの男の行動は利己主義から来るのではないぞ、ハナオカ君。」

 その見解にはケンウッドも異議がなかった。ハレンバーグはハイネに好かれていないが、彼自身はハイネを愛しているので、困った時には頼りになる。
 名誉顧問がケンウッドを振り返った。

「ケンウッド博士、今日は楽しかった。追悼式で楽しいと言うのは不謹慎だろうが、許して欲しい。私も近頃は回顧録を書くだけの生活で、うんざりしていた。今日は可愛いドーマー達の思い出にどっぷり浸れたよ。」

 老人は遠くを見る目をした。

「エイブラハム・ワッツもジョージ・マイルズもグレゴリー・ペルラも・・・まだ元気だろうか?」
「3人共に元気です。現役は引退しましたが、時々『黄昏の家』から出て来て後進指導に能っています。」
「私がドームで働いていた時は、あの子達はまだティーンエイジャーだった。今ではすっかり爺さんになってしまったがな。」
「3人共、ハイネに負けないくらい見事な白髪ですよ。」
「そうか! あの連中はまだ髪はフサフサか!」

 ハレンバーグは薄くなった自身の頭部を撫でた。彼はまたケンウッドを見つめた。

「ドームは平和で神聖な場所でなければならん。暴力で自分達の意見を通そうなどと愚かな考えを持つ連中の好きにはさせん。我々は武器を持たない文民だが、ドームと地球をしっかり守って行こう、この年寄りもまだキーボードと通信機器で闘えるぞ。」

 ケンウッドの視野の片隅で、ハナオカ委員長がヴェルティエンに何やら話しかけているのが見えた。副長官の件の続きだろう。
 その時、ハレンバーグが顔をケンウッドに寄せて来て、低い声で囁いた。

「オフレコで君に尋ねたいことがある。」
「何でしょう?」

 ハレンバーグが声を一段と小さくして尋ねた。

「キーラ・セドウィック博士は、ローガン・ハイネの娘だな?」

 ケンウッドが答えるのを躊躇うと、彼はちょっとだけ微笑した。

「知ってどうこうしようと言うつもりはない。私はハイネが立派な男性としての機能を持っているのに子供を作ることを許されないのは気の毒だと思っていた。だが彼女の顔を見て、もしやと思った。彼女の母親は私の後輩執政官だった。ハイネと仲が良過ぎて同僚の女性達から槍玉に挙げられてしまったのだ。彼女がハイネの子を産んでいたとしても、私は驚かない。寧ろ、私の多くの罪の一つが消えた気分だよ。進化型遺伝子を継いでいなくても、彼の子がこの世に生まれて、その子孫を繋いでいく、それだけ考えれば私は安心してあの世に行ける。」

 ケンウッドは真面目に答えた。

「我々は女の子を地球に誕生させようとドーマーを育てているのに、そのドーマーが宇宙に娘を残すとは、皮肉だと思いませんか?」

 ハレンバーグがニヤリと笑った。

「確かにそうだな・・・ケンウッド博士。何とかして、彼が生きているうちに・・・君が、女の子誕生の鍵を見つけてくれ。」



脱落者 13 - 7

 エイリアス大佐が咳払いして一同の注意を自分に向けた。大佐はなんども無視されることに若干苛立っていたが、なんとか辛抱して一番理性的と思われるケンウッドに向けて質問した。

「その地球人はどうやって軍のデータベースのパスワードを入手したか打ち明けたのかね?」

 ケンウッドはこの際正直に喋ってしまおうと決心した。下手に隠すとドナヒュー軍曹の立場が却って悪くなるだけだろう。

「ハイネ局長はテロ事件で負傷して入院していました。そこへ地球周回軌道防衛軍憲兵隊のドナヒュー軍曹が事情聴取に訪れました。当方の保安課長と医師が立ち会いました。軍曹が局長と面会したのはその時だけです。局長はまだ体を動かせず、枕から頭を上げることも出来ませんでした。彼はタブレットを打つ軍曹の指の動きを見ていただけです。」
「指の動き?」

 するとハレンバーグ名誉顧問が面白そうに笑った。

「ローガン・ハイネとダニエル・オライオンの部屋兄弟達は子供時代、他人の指の動きでどのキーを打ったか当てる遊びが好きだったのだ。」

 するとハナオカ委員長も言った。

「ダニエルのお気に入りの遊びだったそうですね。私は見たことがないが、養育棟の執政官が1日に1回は彼にせがまれると言っていました。ハイティーンになるまで彼等はあの遊びをしていました。指の動きより手の甲の筋肉の動きでキーを当てるんですよ。」

 またぞろお気に入りの地球人の自慢が再開された。ハレンバーグとハナオカは彼等が育てたドーマー達の幼い頃の思い出話をいくらでも語りそうだったので、ケンウッドは急いで割り込んだ。

「あの時、地球周回軌道防衛軍はテロ組織に通信を傍受されるのを防ぐ目的で、月と地球の間の通信を停止させていました。ですからドナヒュー軍曹は複数のサーバーを経由して憲兵隊のコンピュータに事情聴取の内容を送信していました。ハイネ局長はその時の彼女の指の動きをそっくり彼の部屋のコンピュータで真似てみただけなのです。結果的に憲兵隊本部のデータベースにたどり着いてしまったのですが・・・」

 彼はいかにも偶然ハイネが憲兵隊本部にハッキングした様に聞こえるよう、喋った。だがハイネは調査目的で宇宙にあるコンピュータにアクセスしたのだ。相手がどこのデータベースかわかっていてやった。それにエイリアス大佐が気がつかないでくれ、と心の中で願った。

 エイリアス大佐が深い溜め息をついた。

「その・・・スパイ能力が抜群の地球人は、2度と我が軍のデータベースにアクセスしないと保証出来るかね?」
「彼は分別のある男です。」

 ここでローガン・ハイネの性格を案じても仕方がない。ケンウッドは軍人を安心させてこの会合を終わらせた。

2018年3月1日木曜日

脱落者 13 - 6

「必要だった? どんな必要性があったのだ?」

 エイリアス大佐は地球人類復活委員会が主導権を持つこの会合が気に入らなかった。彼はハッカーの正体と目的を調査する為に来たのだが、委員会の連中はそれを全て知っている様だ。
 ケンウッドは簡潔に説明した。

「当方のドームで勤務していた女性薬剤師が、逮捕されたフェリート薬剤管理室長に騙されて爆薬の触媒を製造してしまいました。彼女は友人達の命を奪ってしまった罪の大きさに少し精神状態が不安定になっています。ハイネは全てのドーマーを守る義務を負っています。彼は彼女がどの様な言葉で室長に惑わされたのか調べているのです。彼女の精神を安定させてから裁判を受けさせるつもりです。」
「それが軍のデータベースとどう言う関係があるのだ?」
「ハイネは軍が殺害された研究者達の背後関係を調べているだろうと思って、ただ覗きに行っただけなのです。コロニー人の家庭の事情などは地球人に調査できませんからね。それ以上の情報は彼には無意味です。彼は余計なものは見ていません。」

 本当に見ていないのか、ケンウッドは知らなかったが、ここは見ていないと押し通すしかない。宇宙連邦軍がドーマーを拷問にかけることは避けたい。人間の記憶を消すくらい軍は平気でやるだろう。ハイネの膨大な知識からほんのちょっぴりの過去を消すのは不可能だ。彼の脳にダメージを与えたくなければ、ここはしらばっくれることが重要だ。
 そして頼もしいことに、この部屋の中にいる大佐以外の人間全員がケンウッドの味方だった。ハレンバーグ名誉顧問が誇らしげに言った。

「大佐、ローガン・ハイネは私がドーム勤務時代に育てた様なものだ。あのドーマーは優秀なだけでなく、実に礼儀正しい。決して執政官に逆らわないし、年長者を敬い、自身より劣る者にも丁重に接する。何が大切で何が無駄かよく理解している。必要な情報を収集しても彼自身にとって意味のないものは直ぐ忘れるのだ。」

 ケンウッドは何故ハレンバーグがここに居るのか理解した。ハナオカ委員長はハッカーの通報を憲兵隊から受けた時に、犯人がわかったのだ。そしてローガン・ハイネをこよなく愛する委員会の長老に連絡を入れた。ハレンバーグは追悼式出席よりもハイネを庇うのが目的でここに居るのだ。
 エイリアス大佐は、まるで大好きなアイドルの話を語る少女みたいに喋り続ける老人をうんざりした表情で見返した。しかしハレンバーグの方もそれを承知の上で語り続けているのだ。
 やがてハレンバーグの勢いが落ちて来た。流石に老齢なので長時間のお喋りは体に応えるようだ。遂にエイリアス大佐が折れた。

「わかった、ハレンバーグさん、そのハイネとやらは、悪気があってハッキングしたのではないと、貴方方は保証するのですな?」
「勿論!」

 ふむ・・・と大佐は考え込んだ。その間にハナオカがヴェルティエンに話しかけた。

「先程の選挙結果は残念だったな、ヴェルティエン君。」
「ああ・・・いえ、あれで良かったのです。僕は科学者ではありませんから・・・」
「しかし君の文化人類学者としての知識と考察は、ドーム長官の職には必要だと思うが・・・」

 ふとハナオカは何かと思いついて、ケンウッドを振り返った。

「ケンウッド博士、ヴェルティエン君を君のところの副長官にしてはどうだろう?」
「それは・・・」
「ブラコフ博士の復帰は当分先の話だろう? 君も色々とやることが多くて大変な筈だ。」
「ブラコフは辞職する意思はありませんが・・・」
「しかし半年も休業するのでは、君が倒れるだろう。だから、この際、ヴェルティエンを昇進させて、副長官を2人置くことにしてはどうか?」
「2人副長官ですか・・・」
「そうすれば、ブラコフ君も安心して治療に専念出来るだろうし、ヴェルティエン君は科学者としての副長官が必要な時にブラコフ君の助太刀を得られる。如何かな?」