2021年3月31日水曜日

星空の下で     25

  次の日の執政官会議には、初めてドーマーの研究助手達も招集された。中央研究所で研究室を離れることが可能な者全員が集まると、流石に大会議室も手狭に感じられた。研究者ではないが、維持班総代表のジョアン・ターナーも呼ばれて、ハイネ局長の隣に座った。

「何の話です?」

 ターナーが小声で尋ねた。ハイネは首を振った。

「私も知らない。」

 ケンウッドが壇上に上がった。私語を囁いていた人々が口を閉じ、会議室内が静かになった。長官は簡単に挨拶した。

「忙しいところを時間を割いてくれて有り難う。手短に説明するから、もしわからないことがあれば後で質問して下さい。」

 そして彼は、ドーマー達が学位や博士号などの諸々の高位学識保有者の資格を取る話を始めた。最初にコロニーの大学から学位を取り、それから地球の教育機関から資格を得ると言う話に、執政官もドーマーもちょっと驚いた様だ。いや、かなり驚いた筈だ。今までどんなに優秀でもドーマーには技術者以外に何の資格も学位も与えられなかったのだから。

「コロニーの大学に関する情報をドーマーが持っていないことを承知しています。だから、どの大学を選ぶかは、同じ研究に携わっている執政官と相談して下さい。執政官の皆さんは、彼等の将来を考え、適した学部を選び、論文提出の手伝いをして欲しいのです。手続きに必要な知識を彼等に分けてあげて下さい。これは、ドーマーが外の世界に戻っていく準備です。コロニーの技術で研究をしているドーマー達に地球の教育機関の研究技術がすぐに馴染むと思えない。ですから、まず学位を取って、外の研究に参加出来る資格を取るのです。
 外の研究機関は、ドームが持つ宇宙の科学技術を歓迎する筈です。ドーマーも執政官も出向と言う形で外へ腕試しに出かけてみませんか。執政官の諸君も地球の研究室での経験で新しい論文を書けるでしょう。
 論文を書くのに時間を取られることもあると思います。焦らないで下さい。どの世界の研究者も時間をかけているのです。君達は例外ではない。みんな同じです。」

 ケンウッドは言いたいことを一気に喋り、そして少し休むために口を閉じた。議場内の人々は執政官とドーマーと別れて座っていた。執政官は普段の会議の自分の場所に座っているだけだったし、ドーマー達は初めての出席なので空いている場所に腰を下ろしただけなのだ。意図して別れた訳ではない。だから、今、彼等は互いの研究室にいる同僚を目で探し、それぞれの反応を伺おうとしていた。ケンウッドは一言付け加えた。

「少し休ませてもらいます。その間に、質問なさりたい人は考えをまとめて下さい。」

 彼が壇上から退くと、執政官とドーマー、どちらからともなく同僚の座っている場所に移動するシーンが見られた。自分の席に座ったケンウッドに、一人だけ前もって今回の議題を聞かされていたゴーン副長官が囁きかけた。

「ドーマーが研究室からいなくなると心配する執政官もいるのではないかしら?」
「いるかも知れないね。でもそれは彼等の問題だ。私達が上からとやかく言うことじゃない。」
「確かに・・・研究者同士の揉め事はコロニーでも地球でもあることですね。ドームも例外ではありませんわ。」
「必ずしも揉めるとは限らないさ。」

 議場の末席に座っているハイネ局長とターナー維持班総代表は暫くは無言で場内の風景を眺めていた。やがてハイネが口を開いた。

「博士号を得たドーマーが外の研究施設に出て行くと、戻って来ない可能性がある。研究はすぐに終わるものでないからな。」
「そうですね。」

 ターナーが真面目な顔で返した。

「案外、一番外に出る可能性が低いと考えられていた研究所のドーマーが、一番早く元ドーマーの集団になるかも知れません。」
「全員が出て行く訳ではないから、心配は無用だと思うが。」
「当然ですよ。外の世界がそんなに人材不足だと思えません。」

 ケンウッドは2人のドーマーのリーダーが笑うのを見て、何が可笑しいのだろうと思った。

「長官!」

 不意にアナトリー・ギル博士が声をかけた。喋っていた人々が声をひそめた。ケンウッドが「何かね?」と返したからだ。ギルが立ち上がったので、ケンウッドは壇上に戻った。場内が静かになった。ギルが質問した。

「ドーマーに学位を与える考えは以前から研究所内にありました。何故、今になって急に具体案を出されたのです? 月の本部が指示してきたのですか?」
「いや、これは私の独断だ。だから、君達が反対意見を出してくれても構わないのだよ。」

 ケンウッドは場内を見回した。特に彼に対して敵意を持った視線は感じなかった。ケンウッドは素直に今回の考えを持つに至った経緯を説明した。

「実は、中西部のある地域で・・・はっきり言えば、サンダーハウス実験場のある州で、今インフルエンザが流行していると情報をもらった。サンダーハウスの研究者から、ドーマーや地球の疾病に免疫のないコロニー人を寄越さないようにと忠告があったのだ。それで、私は短絡的に、ドームでインフルエンザのワクチンを開発すれば問題ないと思ってしまったのだが、ハイネ局長から微生物をドーム内に持ち込むのかと批判された。」

 ハイネが自分の名前を出されたので、眉を上げてケンウッドを見た。ケンウッドは目で「許せ」と謝って、言葉を続けた。

「ドーム内でワクチン開発が出来ないのであれば、外の施設にこちらの研究者を送り込んで、ドームの技術でワクチン開発を早めてもらおうと、思ったんだ。ところが、それにはこちらの研究者に外の研究施設で働く資格が必要だと気が付いた。」
「つまり・・・ワクチン開発は、僕等やドーマーが外に出かけるために行いたかったと?」
「そう言うことです。私的な希望ですみません。」

 ケンウッドの軽い謝罪に、場内に笑い声が起こった。

「インフルエンザで私達やドーマーがすぐに倒れるとは思えませんが・・・」

と別の執政官が座ったままで意見を述べた。

「ワクチン開発は地球に貢献出来ますね。」
「ワクチン開発だけでなく、いろんな研究の視野を広げる機会になります。」
「ドーマーが私の研究室からいなくなると困るのですが・・・」
「それは君が助手に頼りきっているからだろう。」
「ああ・・・事実を言われた・・・」

ドッと笑い声。ケンウッドも笑ってしまった。

「これは私の提案とお願いであって、指示ではないし、皆さんがこれに従わなければならないと言う義務もありません。学位取得の希望がなければ、現状のままドームで研究を続けても構わないのです。また学位を取ってここに残っても良いのです。
 私がお願いしたいのは、繰り返しになりますが、ドーマーの助手が学位取得を希望すれば執政官は相談に乗って上げて欲しいと言うことです。外へ出るか出ないか、それは取得後の話です。」

 ギルは既に着席していた。別の執政官が立ち上がって尋ねた。

「助手が学位を取得して博士になったら、彼に今の研究室を渡して、私が外の研究機関に行っても良いのでしょうか?」

 ケンウッドは少し驚いた。ドーム以外の地球で働くことを希望する者もいるのだ。

「私は構わないと思いますが、地球人類復活委員会との雇用契約がありますから、その件に関しては、各個人が執行部と相談されると良いと思います。退職されて外部の研究機関へ行かれるか、期間限定の留学的なものか、それは個人の自由です。」
「有り難うございます。助手や執行部と相談してみます。」
「どこか働きたい研究室を見つけられたのですね?」
「まだ私一人が気に入ったと言う段階ですから、詰めなければならない項目が多々ありますが。」

 するとドーマーのグループから彼女の助手らしい人が声を上げた。

「先生、僕を捨てないで下さいよ。」

 ドッと笑い声が起きて、執政官も笑った。

「私の方が貴方に捨てられないか、心配なんです!」

 ケンウッドは場内を見回し、それ以上反対意見も質問も出ないことを確認した。そしてハイネ局長とターナー総代を見た。両名共に意見はなさそうだった。

「それでは皆さん、時間を取らせてすみませんでした。研究に戻って下さい。」




2021年3月29日月曜日

星空の下で     24

  クララ・ボーマン大統領は苦労人と呼ばれていた。彼女はハロルド・フラネリーが大統領を2期勤めた時、副大統領だった。当然フラネリーが引退すると次期大統領と目されていた。ところが、選挙運動中に息子が事故を起こし、事故処理の際に母親の名前を使った為にちょっとしたスキャンダルになってしまい、立候補を断念した。彼女はもっと若い頃にフラネリーとも候補の座を争ったのだ。その時は不運にも病気に罹ってしまい、治療の為に政界から一時期離れることになってしまった。現在の地位は、息子のスキャンダルが過去のこととして、そして彼女とは無関係と国民から判断され、彼女の代わりに立った同じ政党の候補を僅差で破った対立政党の大統領と争って勝ち取ったのだ。
 女性の大統領は彼女が初めてではない。しかし、ケンウッドがドーム長官になってからはずっと男性大統領が続いたので、面会してみると新鮮に思えた。ボーマンは、地球人の女性が全てコロニー人の卵子から作られたクローンだと聞かされて、ひどくショックを受けたし、動揺もした。だが、それが地球人とコロニー人の間に上下関係を生むことはなく、地球人に女性が生まれる目処が立ったことをケンウッドが辛抱強く丁寧に説明すると、この人類史上最大の秘密を守ることを誓った。
 彼女はケンウッドが気に入ったので、時々彼を朝食会に招いたり、大統領官邸で開かれる行事に出席を要請することもあった。だから、ケンウッドがドーマーの学位や博士号の取得について相談したいと連絡を取った時、彼女の母校である大学の大講義室での会見を提案してきた。ボーマン大統領は政治学博士だった。
 ケンウッドが護衛として保安課員アキ・サルバトーレと外での護衛経験は初めてのべサニー・ロッシーニを同伴して指定された日時に大講義室に行くと、そこではシークレットサービスに守られて大統領が学生達を前に講義をしているのだった。ケンウッドが最後列の空席に座ると、サルバトーレとべサニーはその後ろに立って警護に就いた。
 ドーム長官は行政の長であるが、ケンウッドの本業は遺伝子学者だ。政治学の講義は退屈で、ケンウッドは不覚にも居眠りをしてしまった。
 いきなり大きな拍手の音に彼はびっくりして目を覚ました。ボーマン大統領の特別講義が終わって学生達が拍手したのだ。ケンウッドは取り敢えず手を叩いて、周囲に合わせた。学生達がぞろぞろと講義室から出て行くのを、ボーマンが見送っている。彼女の側には側近と警護の人々が数人立っていた。
 ケンウッドは立ち上がり、手を挙げて見せた。側近が彼に気づき、ボーマンに耳打ちした。クララ・ボーマンが階段状の講義室の一番高い場所にいるケンウッドを見上げた。微笑みを浮かべ、彼女は側近に何か囁いた。そしてドーム長官に声をかけた。

「どうぞ、こちらへ!」

 ケンウッドは階段を降りて、大統領の側へ行った。彼に続いたサルバトーレとべサニーは大統領の警護官達と無言で挨拶を交わした。

「お忙しいところを面会許可下さって、有り難うございます。」

 ケンウッドが挨拶すると、ボーマンも返した。

「こちらこそ、お呼びだてして申し訳ありませんでした。明日から遠方へ出かける予定がありますもので。」

 外遊に出るのだ。その程度の情報は普通に公開されている。ケンウッドは無駄な挨拶で彼女の時間を取りたくなかったので、すぐに要件に入った。

「ドーム内の職員に学位を取らせたいのですが、時間を短縮出来る方法はありませんかな?」

 ボーマンは一瞬彼の言葉の意味を悟ろうと考え込む表情になった。ケンウッドはドーム内のドーマーの教育方法についてここで説明したくなかった。周囲には大勢の側近や護衛官がいるし、大学の職員もいる。ドーマーが特殊な育ち方をした人々だと知らない連中ばかりだ。
 ボーマンが側近達に「退がれ」と合図した。彼女の部下達は素早くケンウッドと彼女から距離を置いて離れた。サルバトーレとべサニーも距離を取ったが、大統領の部下達と彼らのボス達の中間に立った。

「学位を取らせたい職員とは?」

とボーマンが尋ねた。ケンウッドは簡単に答えた。

「ドーム内の研究所で働いてる人々です。科学者としての研究の実績と実力を持っていますが、ドーム内にはアメリカ合衆国の教育制度が適用されませんので、彼らは無資格で無学位です。しかし、これからは外の世界に復帰させてやらなければなりません。彼等が外でもドーム内と同等の働きが出来るように、学位と資格を与えてやりたいのです。ただ、時間はかけさせたくないのです。彼等は十分一人前ですから・・・」
「仰る意味はわかりました。」

 ボーマンがちょっと考え込んだ。

「どこかの大学から彼等に学位を与えさせよ、と?」
「ムシの良い要求だとは思いますが・・・」

 ケンウッドの言葉を彼女が片手を挙げて遮った。

「長官、コロニーでは彼等をどう見ているのです?」
「え?」
「地球人の科学者にコロニーは学位を与えないのですか?」
「そんなことはありません。医療区と出産管理区の医学博士は半数が地球人です。」
「では、他の部門もコロニーから学位を貰えば良いのでは?」
「彼等は地球人です。地球の教育機関から学位を与えてあげたい・・・」
「長官・・・」

 大統領がグッとケンウッドに顔を近づけた。

「そんなことにこだわっているのは、貴方だけではありませんか?」
「こだわる?」
「ええ、地球人だから地球の大学の学位を与える、コロニーの大学では駄目だ、と考えているのは、貴方だけなのでは?」
「いや・・・そんなことは・・・」
「コロニーの大学から学位をもらってから、ドームの外で働きながら地球の大学に論文を提出すれば、地球の大学も学位を与えるでしょう。コロニーの学位を持っていれば、地球上での学位を持っていなくても研究には参加出来ますよ。私は、遠回りだとは思いませんが。」

 ケンウッドは頭をポカリと叩かれた様な気分だった。地球だのコロニーだのとこだわっているのは、自分だけなのか? ドーマー達はどう思っているのだろう。
 兎に角、ボーマン大統領はドーマー達が正規の教育課程を経験していなくても学位を取れると教えてくれたのだ。そう言えば、市民にも学校に行かずに博士になった人が過去に何人もいたではないか。地球もコロニーも同じなのだ。

「どうも私は目の前のことしか見えていない様です。」

とケンウッドは素直に認めた。ボーマン大統領はニッコリ笑って、彼の手を取った。

「ドームの科学技術は現在の地球の技術より優れています。それを持って私達の社会に戻ってくるドーマー達を、私は楽しみに待っていますよ。」



2021年3月28日日曜日

星空の下で     23

  翌日の打ち合わせ会で、ケンウッドはハイネ局長に外廻りの遺伝子管理局員達にインフルエンザの対策を取っているのかと尋ねた。ハイネは、インフルエンザの流行は局所的なものなので、当該地域に出かける班担当者に任せてあると答えた。つまり、北米南部班チーフ、クラウス・フォン・ワグナーが対策を考える役目を負っているのだ。

「維持班は流行が見られる地域へ出かけないのかね?」
「ターナー総代に訊いてみなければわかりません。しかし、維持班が感染力の強い疾病の情報を掴めば、必ず遺伝子管理局に報告してくれる筈です。まだ彼から何も言って来ないところを見ると、維持班のドーマー達はそちらへ出かけていないか、感染した者がいないと言うことでしょう。」
「感染者が出なくても、流行性疾病情報を得たら、すぐドームへ情報を入れて欲しいね。」

 ケンウッドは、これは医療区にも考えさせなければ、と思った。医療区も外の病気の情報をもっと積極的に集めるべきだ。これからドーマー達にもっと外に出て行く機会を与えるのだから、ドームは彼等を守る体制を今以上に強化させておかねばならない。執政官達にもウィルスの遺伝子解析をさせて、変異株のワクチン開発を研究させるのだ。

「ドームで開発するワクチンは当然ながら外の国立疾病対策センターに提供する。地球人を守るのが我々の使命だから。」
「無償で、ですか?」

と質問したのはゴーン副長官だった。研究にはお金はかかる。地球人類復活委員会の出資者様達は地球人を増やすことにはお金を出してくれた。しかし、地球の一部の地域で発生する流行性感冒は地球人の力で抑えることが出来る。出資者様はそう言うものの研究にはお金を出し渋る。地球からの見返りが期待出来ないからだ。ゴーンが心配したのは、出資者様から無駄遣いと思われないか、と言うことだった。
 ケンウッドは苦笑した。彼女の苦労は彼も副長官を経験しているので理解出来た。

「ウィルスの変異は毎年見られる。こちらの分析結果を無償で提供しても良いが、薬品製造はドームでは行わない。それにこちらが情報提供で点数を稼げば、ドーマー達の社会復帰計画の援助を増やしてもらえるだろう?」

 ゴーンも苦笑した。

「そちらの方向から見返りをいただくのですね。保養所の設備拡張や福利厚生の面であちらに資金を出していただくと・・・」

するとハイネが執政官達が思いを至らせなかったことを疑問の形で言葉にした。

「分析すると言うことは、インフルエンザウィルスをこのドームに持ち込むと言う意味ですな?」
「そうだよ、研究に必要だから・・・」

 ケンウッドはハッとした。ドームは今迄微生物を研究の為に持ち込んだことがなかった。必要がなかったし、ゲイトでの消毒でウィルスもバクテリアも外のものは全て排除してきた。
だから、ハイネや外に出たことがなかったドーマー達は安全な世界で安心して暮らしてきた。そこに生きたウィルスを持ち込んで研究するとケンウッドは提案したのだ。ワクチンを開発する為に。

「微生物研究の為の施設がこのドームにありましたか?」

 外から微生物を入れまいと閉鎖されているドームの中で、もし微生物が研究室から出てしまったら、どうなるのだ? ハイネはそれを心配しているのだ。
 ケンウッドは自身の考えが中途半端だったことを認めた。

「君が心配するのも無理ないことだ、局長。我々は人間のゲノムを分析する研究をしてきた。しかし、微生物は未経験だし、設備も整っていない。私の短絡的な思いつきだった。ドームの中でワクチン開発は出来ない。」

 ゴーン副長官も同じく考えが足りなかったことを認めた。

「私も費用のことしか頭にありませんでした。ここでは微生物の遺伝子分析は無理です。」
「だが、疾病対策センターに執政官達を出向させることは出来る。」

 するとハイネが提案した。

「その出向する学者にドーマーも加えてくれませんか?」

 ケンウッドとゴーンは顔を見合わせた。ドームの中でドーマー達はどんなに優秀でも「研究員」であって、「博士」ではない。それは彼等が大学で学位や博士号を取ることが出来ないからだ。ドームの中には世間で通用する資格を取れる学校がない。医療区と出産管理区で働く医学関係者のみが、医学博士の資格を取れるのだが、それは宇宙連邦政府から与えられる資格で、地球の政府が与えたものではない。勿論、ドームの外で医療行為を行えるが、免許はないから無償行為になる。
 ケンウッドは新たな課題が生じたことに気が付いた。

「ドーマーも地球の大学卒業資格を得られるように、外の政府と掛けあわねばならんなぁ。」


2021年3月26日金曜日

星空の下で     22

 「本当に来月の10日に、こっちへ来るの?」

と電話の中のシュリー・セッパーが尋ねた。彼女の背後には何やら恐ろしげな機械が見えている。屋内で放電実験をする器具だが、尖った先端が武器を連想させるので、ケンウッドは好きではない。どうして彼女は別の場所から電話をかけないのだろう。実験室からかけなくても良いのに。

「10日を空けてあるんだよ。13日迄有給休暇だ。行っちゃいけないのかい?」
「来て欲しいのよ。でも、今こっちの地域ではインフルエンザが流行しているの。感染したら暫くはドームに帰れなくなるわ。」
「ちゃんと消毒するよ。ドーム・ゲイトの消毒は君も経験しただろう?」
「子供の時にね。」

 彼女が言う子供の時は6、7年前だ。ケンウッドはまだ地球の感冒もインフルエンザも経験したことがない。だが空中の埃を吸ってクシャミをしたり、咳き込んだり、鼻水が出た経験はある。風邪による発熱はまだないが、銃創に機縁する発熱は体験した。あの苦痛と悪寒は2度と味わいたくなかった。あれはシュリーが生まれる前の話だ。

「ちゃんと出かける前にワクチン接種を済ませておくさ。」
「貴方は良くても、局長は駄目よ。」

 そう言えば、彼女にハイネを連れて行くと言った覚えがあった。確かに、ハイネの肺にとって感冒もインフルエンザも命取りになるだろう。それに来月はまだ彼の脚の骨は治りきっていない。ケンウッドはシュリーに同意した。

「ハイネは連れて行かない。ちょっとした風邪でも彼には危険だからね。それに脚の怪我もある。」
「脚の怪我?」
「うん。事情は会った時に話すよ。兎に角、今の局長は普段の生活は支障ないが走ることは出来ない状態なんだ。運動も控えている。」

 そして彼は彼女に要請した。

「彼が怪我をしたことは、キーラとヘンリーには内緒にしてくれないか。ハイネの沽券に関わるからね。」
「わかってるわ。」

 シュリーが母親の性格を思い出して笑った。

「局長がどんな状況で怪我をしたのか知らないけど、ママがそれを知ったら局長をからかうネタにしちゃうのね?」
「そう言うことさ。」

 そう言うところは、ローガン・ハイネとキーラ・セドウィックは似ている。血は争えない、とケンウッドは胸の内で笑った。
 
「それじゃ、来月は貴方一人でこっちへ来るのね?」
「うん。ひょっとするとピッツバーグ博士か他のドーマーを同伴するかも知れないが、局長は行かない。」
「がっかりしているでしょうね。」
「彼には計画を話していなかったから、黙っていれば大丈だよ。」

 では来月に、と挨拶して、シュリーが通信を閉じた。
 ケンウッドはふーっと息を吐いて椅子の上で脱力した。親友夫妻の長女と交際するようになって3年だ。最初は娘として見ていた。彼女が研究の為に単身地球へ降りてきて、父親がわりに見守るつもりでサンダーハウスに通ううちに、彼女の方がどんどん大胆になってきた。幼い頃から「ニコ小父さんの奥さんになるの」と言っていたシュラミスだ。小父さんを慕うのと恋愛を勘違いしているのだ、とケンウッドは思っていた。彼女が可愛くて、愛おしかったが、年齢差が彼に二の足を踏ませていた。だが、思いがけぬ方向から、シュリーに援護射撃があった。彼女の祖父、ローガン・ハイネだ。

「シュラミスを女として見てやっていただけませんか?」

と彼に言われた時は、心底驚いた。それも、男2人、裸になってジャグジーに浸かっていた時だ。しかもハイネはその時既に外堀を埋めていた。シュラミスの両親、ヘンリー・パーシバルとキーラ・セドウィックに孫娘の恋が真剣で本物であると説得済みだったのだ。母親のキーラはずっと以前から勘付いていた。ケンウッドが小娘を相手にしてくれるのかと、それが心配だったのだ。パーシバルもケンウッドなら娘を託すのに申し分ないと信じていたが、年齢差が大きいので親友が彼女を素直に受け入れるか疑わしかったのだ。
 途方に暮れたケンウッドがヤマザキ・ケンタロウに相談すると、プレイボーイの医者は笑って言った。

「素直に諦めて若い嫁さんをもらってしまえよ。最後のチャンスかも知れないし、グズグズしていると一緒にいられる時間がどんどん短くなるぞ。」

 随分失礼な物言いに、ケンウッドは腹を立てながらも、その背中を押してくれる言葉に感謝した。
 だから、ケンウッドは現在シュラミス・セドウィック・パーシバル、つまりシュリー・セッパーと交際している。まだ正式なプロポーズはしていないが。それでも微かに不安があった。

 いつか彼女は目が覚めて本当の愛を別の男に見つけるのではないだろうか。

 その考えが恐いと思うのは、やはり彼女を愛しているからなのか。ケンウッドは答えを見つけられずにいた。



星空の下で     21

  ポール・レイン・ドーマーから情報漏洩疑惑に関する次の報告があったのは、最初の報告から10日も経ってからだった。レインは最初にこう断っていた。

 ドーム内から送信すると中央アジア・ドームの保安課に傍受されるので、外出出来る日まで機会を伺っていました。

 そして、情報漏洩はあった、と彼は報じた。ウズベキスタンの支局長が端末を落としたのだ。売買したのではなく、うっかりして致命的ミスを犯してしまったのだった。そして紛失を本部に知られる前に、自分で解決しようと奮闘しているうちに、彼の端末は故買屋からコロニー人の手に渡り、そのコロニー人が地球へワクチン開発に使える微生物採取に来ていた企業の人間だった。コロニー人は地球人の端末を興味本位で買ったのだが、中身を分析して思いがけぬお宝を発見してしまった訳だ。支局長はマザーコンピューターのアクセスはセキュリティをかけていたのだが、自身の担当地域の住民リストはいつでも見られるようにオープンな状態で保存していた。中央アジアの大らかさで、遺伝子鑑定が必要な時に警察官でも見られるようにしてしまっていた。だからコロニー人も見た。
 支局長は厳重な注意を与えられ、ドーム本部から派遣された現役職員の監視を1年間受けることになった。コロニー人のバイヤーは空港で捕まり、支局長の端末を没収され、買い取った遺伝子も没収された。彼が属する企業は保釈金を支払う用意があると告げたが、地球人保護法が緩和されたとは言え、地球人の遺伝子を当局に申告無しに宇宙へ持ち出すのは連邦遺伝子管理法に違反するので、現在は宇宙連邦の検察と地球側の司法との話し合いの段階だと言う。
 レインはこう締めくくっていた。

中央アジア・ドームはこれを自分達の失態と考え、世間に公表することを良しと思っていません。恐らく、事件の発表はないでしょう。JJと私もドームの中ではこの件に関して会話することはありません。

 ハイネにこの報告書を見せられたケンウッド長官とゴーン副長官はホッと胸をなでおろした。何か大きな組織犯罪でも起きているのかと危惧していたのだ。

「レインはまさか南北アメリカ大陸ドームで騒ぎになったとは想像していないでしょうね。」

 ゴーンが可笑しそうに言った。

「私が騒いだのです。申し訳ありませんでした。部下達にも余計な気遣いをさせました。」

とハイネが謝罪した。ケンウッドも脱力しながら、しかし局長を慰めた。

「いやいや、これは中央アジアに限ってのことではないかも知れない。情報管理は本当に重要だよ。国家機密レベルではないが、個人の人生に関わってくる情報を我々は管理しているのだからね。気を緩めるな、と我々に忠告してくれた案件だ。」
「ネピア副長官はまだ部下や元ドーマーの口座を調べています。」

 ハイネはネピアに真相を打ち明けていないことを告白した。

「彼なりに納得出来るまでやらせるつもりです。案外、何か別件で問題を見つけるかも知れませんからな。」
「ネピアが見落としをするとは思えないから、きっと何か見つけるだろうね。それが良い案件なのか悪い案件なのか、ちょっと楽しみだ、と言ったら不謹慎かな。」

 するとゴーンも少し楽しそうに言った。

「セイヤーズは探偵ごっこが終わりと知ったら、がっかりするでしょうね。やっと内務捜査班とお近づきになれた、と喜んでいましたから。」
「そうなのですか?」

 ハイネが驚いて見せた。

「ここに一人捜査官がいるのですがね。」
「元じゃ、駄目だよ。」
「私は内務捜査班を引退した覚えはありません。」

 ハイネがニヤリと笑って、ケンウッドは恐れおののく仕草をし、ゴーンが声を上げて笑った。

2021年3月25日木曜日

星空の下で     20

  火曜日は打ち合わせ会の日ではなかったが、生死リストデータ移動の最終チェックを終えたネピア副長官が局長執務室にやって来たのは、ハイネ局長が長官執務室での打ち合わせ会に出かけるつもりで机上の書類を片付け始めた頃だった。
 何も見つかりませんでした、とネピアはクロエルの予想通りに告げて、チーム・リーダー以上の職員の口座を調査します、と言った。ハイネが質問した。

「調査範囲は?」
「現役・引退組、元ドーマーを含めて凡そ80名です。」
「遺伝子管理局関係のみ、と言うことだな?」
「ドーマーで遺伝子情報を扱えるのは遺伝子管理局だけですから。怪しい口座がなければ、ドーム内の調査は打ち切りにします。支局と元ドーマーに取り掛かるのはその後とします。外の銀行に口座を開いている人間の調査は慎重にならざるを得ません。外の捜査機関との折り合いもありますから。」
「口座の入金状況で嫌疑の有無がわかるか?」
「実際に事件が発生しているかどうかもわからない状況です。こちらの腑に落ちない入金がある口座だけでもマークしておきます。現場を抑えるための捜査はそれからになるでしょう。」

 ネピアは付け加えた。

「内務捜査班の協力は必要ないかも知れません。」
「わかった。ご苦労。」

 副長官は軽く会釈して退室した。
 セイヤーズはキンスキーを見た。キンスキーは無表情、無言で自分のコンピューターで自分の仕事を続けていた。セイヤーズは思い切って局長に声をかけた。

「局長、コロニー人の先生の誰かが情報を売ることも考えられますよね?」

 紙の書類を書類パックに入れていたハイネ局長が顔を上げた。

「だろうな。」

と彼が答えたので、セイヤーズは肩の力を抜いた。執政官と呼ばれるコロニー人学者は地球人の子供達の遺伝子情報を覗くことが出来る。ただ研究の為なので、覗く時は申告が必要だ。自由に覗ける遺伝子管理局幹部とは違う。そして両者共に情報を覗けば、マザーコンピューターに「足跡」が残る。

「もしかすると、中央アジア・ドームが疑惑を秘密にしているのは、事件がなかった可能性もありますが、コロニー人が絡んでいる可能性もあって調査に時間がかかっているんじゃないですか?」
「そうかもな。」

 ハイネ局長は他人事のように呟いた。彼にとって全てのドーマーは「我が子」だ。疑いたくない。そしてコロニー人達は「親」だ。年下でも「親」として敬えと教えられて生きて来た。「親」として信用して来たから、一つのドームの中で一緒に暮らせるのだ。

「君はこのアメリカ大陸で遺伝子情報の売買が行われていると思っているのかね?」
「それは・・・外は広いですから、宇宙からいつ誰が降りて来るか、私達が全て把握することは不可能です。人間は誘惑に弱い生き物です。家や車を買える金額を提示されたら、ちょっと端末を操作して情報を引き出しても地球に害を与えることはないと思ってしまう人も出て来るでしょう。」

 するとキンスキーが言った。

「いかにも外の世界で長く暮らした君らしい意見だ。」

 セイヤーズは若い時分にドームを脱走して18年間山の中に隠れ住んでいた。極力人前に出ずに慎ましく貧しく暮らしていたのだ。それでもドームの外の世界がお金で動いていることを十分理解出来た。
 キンスキーは局長に意見を述べた。

「中央アジアで情報を売っているのは、元ドーマーかコロニー人の研究者でしょう。現役ドーマーは遺伝子管理局であれ維持班であれ、例の件に関わっていると思えません。」

 ハイネが溜め息をついた。

「他にも仕事が山積しているのに、どうして遠い外国の問題をここで論じなければならんのだ? レインは問題に決着が着いてから報告すれば良いのだ。」

 珍しく彼が愚痴ったので、セイヤーズもキンスキーもびっくりした。
 ハイネ局長は書類入れを抱え、秘書達に打ち合わせ会に行ってくると告げ、部屋を出て行った。

「局長はご機嫌斜めですね。」

 セイヤーズが感想を述べると、キンスキーは苦笑した。

「無理もない、局長は私達『ドームの子供達』の父親だ。息子を疑うのはどんな親でも嫌だろう。しかし、レインの報告書を見てこの問題をドームに持ち込んだのは局長ご自身だからな。」

 そして彼は珍しく冗談を口にしてセイヤーズを驚かせた。

「支局長達全員がリュック・ニュカネンだったら、掛け値無しに信頼出来るのにな。」

星空の下で     19

  セイヤーズはクロエルと共にジムに入った。ドームは24時間稼働している不夜城だ。ジムでは夜勤組が仕事を終えて寝る前の軽い運動をしていた。昼勤組ではハイネやネピアと言った年配者が運動の早朝組だが、ハイネはまだ到着していなかったし、ネピアは副局長に就任してから運動は専ら夜集中するパターンに変更していた。どうやら朝寝の気持ちよさに気が付いてしまったようだ。
 セイヤーズは遺伝子管理局のメンバーがまだ誰も来ていないことを目視で確認すると、クロエルを隅のトレーニングマシンに誘導した。その頃になるとクロエルも彼の行動が目的あるものだと察していた。ステアクライマーに並んで乗ると、体を動かしながら質問した。

「僕ちゃんに何か用っすか? 局長の怪我に関すること?」
「いや、別の事案だけど・・・局長が怪我をされていることは、余り口外しないでくれよ。」
「わかってます。でも、骨が割れたって・・・」
「左腓骨を折られたんだ。日常生活には支障ないので、余り騒がない方が良い。」
「了解っす!」

 何故ハイネが骨折したのか、突っ込んで質問しないのは、クロエルの良いところだ。

「で? 別の案件とは?」

 急かされて、セイヤーズは周囲を見回した。こちらの会話に耳を傾けていそうな人間は見当たらなかった。みんなマシンの表示板に出てくる数値を睨んでいる。立ち聞きされる心配はなさそうだ。

「君の管轄下で、最近進化型遺伝子保有者の家に遺伝子バイヤーが訪ねて来たと言う噂はないかい?」
「遺伝子バイヤー?」

 クロエルが足を動かしながら首を傾げた。

「進化型遺伝子って、2級とか3級の?」
「うん。主に3級の保有者を標的に訪ねて来るそうだが・・・」
「待って。」

 クロエルはセイヤーズを振り返った。

「そのバイヤーっちゅうのは、地球人の遺伝子情報の資料を持ってるってこと?」
「そうなるね。でもまだ確実にそうだと言えないんだ。調査中でね。」
「誰が?」
「中央アジア・ドーム遺伝子管理局。」
「へ?」

 クロエルが顔をしかめたので、セイヤーズは吹き出しそうになった。クロエルはとてもイケメンなのに、自ら好んで変顔をする。いつでも誰かを笑わせたい男だ。

「話が読めないんっすけどぉ、セイヤーズ・ドーマー・・・」
「私達もまだ何も摑んでいないんだ。レインからの報告で、中央アジアで進化型3級遺伝子保有者の家に、遺伝子を売ってくれないかと訪ねて来る連中がいるらしくて、中央アジア・ドーム遺伝子管理局は支局のどれかがコロニー人の企業に住民の遺伝子情報を密売したんじゃないかと疑って調査を始めたそうだ。」
「それ、中央アジアの話でしょ? どうして僕ちゃんの管轄下で・・・ああ、そうか、アメリカでも同様の事例がないか調べてるんすね?」
「昨日から副長官が君達の過去の報告書を見直す作業に入られたところだよ。君達が何気ない巷の噂だと思って書いた事例で、幹部も重要性を見出せずに見過ごしてしまったことをね。」
「だけどさ・・・」

 クロエルは班チーフだ。物事の深読みは出来る。

「進化型遺伝子の情報にアクセス出来るのは、チーム・リーダー以上の地位の人間っすよ? 部下の報告書を読む立場の人間が、噂の報告を見逃して自分の首を絞めると思います?もし情報漏洩があったとしたら、ですけどね。」
「うん、だからまだチーフの中では君にしか打ち明けていない。勿論、私が個人的に君を信用しているからだけど。」
「信用して戴いて有り難うございます。」

 そしてクロエルは呟いた。

「多分、ネピア副長官は報告書の再検討は無駄だと気づかれますよ。僕ちゃん達に内務捜査が入るのは嫌だなぁ・・・」
「みんな嫌だよ。家族を疑うことになるのだからね。」



2021年3月24日水曜日

星空の下で     18

  ダリル・セイヤーズは朝寝坊で知られていたが、恋人のポール・レインが結婚して旅に出てしまって独り暮らしになってからは早起き出来る様になった。それも少しずつ起床時間が早くなり、とうとう日が昇る前に起き出して運動に出るレインの昔の習慣に馴染んでしまった。

 ポールが乗り移ったかな・・・

 などと自分で自分に冗談を噛ませながら、彼は火曜日の朝、ジョギングに出かけた。運動場に出ると、ローガン・ハイネ局長がトラックに沿って歩いているのが見えた。その後ろをべサニー・ロッシーニがついて歩いている。

 局長は走れないので散歩しておられるのだ。べサニーは彼を観察しているつもりだろうが、きっと局長は尾行されていることをご存知だ。

 セイヤーズがトラックに出て走りかけると、後ろから軽やかな足音が追いかけて来て、彼に並んだ。

「おっはっよーっす! セイヤーズ・ドーマー!」

 いつも陽気な中米班チーフ、クロエル・ドーマーだ。ハイネと身長が同じで足が早い。しかしセイヤーズに合わせて速度を落とした。この週、クロエルは中米には飛ばずにドームにいる。中南米担当の2班は任地が遠いので、週休2日制とはいかず、3週間現地で働き、1週間ドームで休息と内勤に充てている。クロエルはチーフなので、現地で問題が発生すれば休暇中でも飛んで行くことがある。のんびりしていられないのは、幹部の宿命だ。
 
「おはよう、クロエル。今日は休業日かい、それとも内勤?」
「ドラムの日っす。」
「つまり、内勤か。」

 セイヤーズは思わず笑った。クロエルは事務仕事に疲れるとオフィスに置いてあるドラムを叩いてストレス発散をするのだ。
 クロエルがセイヤーズの腕を突いた。

「ねぇ、局長の後ろを歩いている子、可愛いっすね!」
「べサニー・ロッシーニだよ。」
「ああ・・・あの子があの伝説の秘書の娘・・・」

 ドーマー達の間では、もうべサニーはジャン=カルロス・ロッシーニの娘として認知されている。血縁関係は全くないのに、そしてロッシーニは彼女を養女にしたつもりもなかっただろうに、みんなが彼と彼女の絆の強さを知っているのだ。そしてべサニーはそれを否定しない。養育係の思い出を語る時、彼女は「父さんは・・・」とうっかり口に出してしまうことが多々あった。

「それにしても・・・」

 クロエルは何か言いたかったのだろうが、彼等は走っていたのでべサニーに追いついてしまった。「おはよう、べサニー!」とセイヤーズが挨拶したので、クロエルも「おっはっよー!」と声をかけた。べサニーは局長を尾行している最中だったので、ビクッとして思わず立ち止まった。彼女の横を2人の男が走り抜けた。クロエルは追い抜きざま彼女の顔をしっかりと見た。

「ワオ! タイプっす!」

 いつも女性に大もてなのに、女性に殆ど興味を示さなかったクロエルが珍しく感嘆の声を上げた。セイヤーズが笑った。

「クロエル、ライバルはドーム中至る所にいるぞ。」
「そんじゃ本気にならんといかんですね!」

 彼等は前を行く御大に近づいた。賑やかな声が近づいてくるので、ハイネには彼等が誰かとっくにわかっていた。クロエルはハイネの負傷を知らない。しかし、ドーム一の局長のファンを自認する彼は、ボスのそばまで近づくと走る速度を落とした。

「おはようございます、局長。左脚、どうされたんですかぁ?」

 ハイネが触れて欲しくないところへ見事に言及した。セイヤーズは前もって彼に注意すべきだったと後悔した。クロエルはハイネを敬愛する余り、ハイネの弱点も誰かを持ち上げるためのパフォーマンスだと称える妙な癖がある。ハイネは歩きながら横に並んだ部下を横目で見た。

「減らず口を叩く部下を蹴飛ばす練習をしていて、骨が割れたんだよ。」

 クロエルが目を丸くしてセイヤーズを振り返ったので、セイヤーズは思わず吹き出してしまった。彼はさっさとクロエルを連れ去るべきだと判断した。

「おはようございます、局長。ジムが空いているうちにトレーニングしたいのでお先に失礼します。」

 そして「来い!」とクロエルの腕を掴んでその場を離れた。
 もっと局長やべサニーのそばにいたいクロエルは、ちょっと唇を尖らせて見せたが、素直にセイヤーズについて走った。

「僕ちゃん、何かマズイこと言っちゃいました?」
「局長の怪我に気が付いただろ?」
「だって・・・」
「局長は怪我や病気のことを余り他人に触れて欲しくないんだ。」
「ああ・・・僕ちゃん、チョンボ・・・」




2021年3月23日火曜日

星空の下で     17

 「あるものの存在証明は簡単だが、ないものの不在証明は難しいものだ。発生していない犯罪が発生していないことを証明するのは難儀だぞ。誰もが納得しないとスッキリしないからな。」

とヤマザキ・ケンタロウが言った。ハイネがそれに応えた。

「発生していない証明をするのではありません。発生しているかも知れないと思わせる事例がないか、調査するだけです。」

 ヤマザキのアパートで、ケンウッドとハイネはウィスキーのグラスを片手にソファに並んで座っていた。向かい合う一人用の安楽椅子2つには、ヤマザキとエイブラハム・ワッツが陣取っている。グレゴリー・ペルラが旅立ってから、酒盛りのメンバーにワッツが加わった。下戸の彼はずっと酒盛りに参加することを断り続けていたのだが、ペルラが遺言で「局長を頼む」と彼に残していたので、ハイネのお守りのつもりで来ているのだ。それに酒盛りの場所がハイネの部屋からヤマザキの部屋に移ったことも影響した。ハイネの部屋にはお酒しかなかったが、ヤマザキは色々なソフトドリンクを常備している。彼の部屋は医療区のスタッフの会合にも使われるので、ヤマザキはアルコール類が苦手な客の為に様々な物を用意しているのだ。

「怪しい事例があるとわかって、初めて捜査にかかる訳だな?」
「そうです。ですから、現在はネピアが過去の報告書の洗い直しをしています。見落としがなかったか、読み直しているのです。」
「ネピアに限ってそんなことはないだろうが・・・」

 ワッツはピスタチオの殻の山をテーブルの上に築きながら呟いた。

「もしあいつの秘書の・・・なんて言ったけな、ハイネ、あの坊やは?」
「ライリー・コードウェル。」
「そうそう・・・コードウェルがネピアの見落としを発見したら、あいつは夜も眠れないほど悔やむだろうな。」

 ワッツは愉快そうに笑った。彼はたまに無遠慮に局長執務室を訪問するのだが、ネピアが秘書をしていた頃はあからさまに嫌な顔をされて嫌味を言われたりしたのだ。元維持班総代だったワッツに敬意を払った若い職員が、彼をフリーパスで遺伝子管理局本部に出入りするのを黙認することが、お堅いネピアには我慢出来なかったのだ。それにハイネと親友ぶりを遠慮なく発揮するワッツに嫉妬もしていたに違いない。しかしワッツにすれば、ネピアは規則を盾に煩く小言を言う「若造」なのだ。ネピアとハイネを張り合うつもりなど毛頭ない。

「ネピアとコードウェルの苦労が無駄に終わることを祈るよ。」

とケンウッドがウィスキーを一口飲んで呟いた。元ドーマーがお金欲しさに同胞の遺伝子情報を売るなど、想像したくもなかった。

「中央アジア・ドームは、そのことをまだ公表していないんだな?」

 ヤマザキが問うた。ケンウッドは首を振った。

「まだ何も言わない。レインも噂ですからと言うに留めている。接触テレパシーで噂はないだろうがね。」
「先方が事実を公にするまで秘密を明かさない、彼の礼儀を守っているんだな。」

 ポール・レイン・ドーマーは肌を直接触れて相手の思考を読む能力を持っている。これは進化型ではなく、地球人が昔から持っていた正に希少な遺伝子型能力だ。レインは誕生してから養育係にこの能力を自己満足に使用してはならないとみっちり仕込まれて、仕事にしか使わない。彼自身、テレパシー読み取り能力を使用すると消耗するので、使いたくないのだ。
それに現在は声を出せない妻JJとのコミュニケーション専門に使っている。

「中央アジアの長官をつついてみてはいかがです?」

 ワッツがケンウッドをそそのかそうとした。ケンウッドが苦笑して首を振った。

「あちらの長官とは親しくないんだ。」
「それじゃ、ハイネの方は? 遺伝子管理局長同士、横の繋がりで世間話でもしてみては?」
「その世間話のきっかけは何だ、エイブ? いきなり情報漏洩がありますか? なんて聞けないぞ。」

 ハイネはワッツの空になったグラスに苺ソーダ水を入れた。実はちょっぴりブランデーを落としてあるのだが、ワッツは気づかずに飲んだ。

「確かに、貴方がいきなり情報漏洩なんて言い出したら、レインが告げ口したとバレるだろうしな。」
 
 ワッツの言葉にヤマザキが可笑しそうに笑った。

「バレて慌てたら、情報漏洩の事実があったってことだ。あるいは疑いがあって調査中ってことだろう。」
「ケンタロウ先生、もしかすると支局ではなく外勤務の局員が情報を流しているかも知れませんぞ。」

 ワッツが一同をギョッとさせるような意見を言った。確かにチーム・リーダー以上の地位にいる遺伝子管理局職員は詳細な遺伝子情報を覗く権限を与えられている。ケンウッドは「ドーマーは天使ではない」と言う自分自身の言葉を思い出した。中央アジア・ドーム遺伝子管理局の本部職員が情報を民間企業に売り渡しているかも知れぬと言う懸念を述べたのは、彼自身だ。

「エイブ、ドーマーもやはり金が沢山あれば良いと考えるのだろうか?」

 その時、ヤマザキはハイネがブランデー入りの苺ソーダ水を再びワッツのグラスに注ぎ足すのを目撃した。メッと睨み付けると、ハイネは悪びれもせず、ソーダ水を自身の酒に加えてソーダ割りのウィスキーを作った。苺味のウィスキーだって? ヤマザキは老ドーマーの舌の感覚を疑った。
 ワッツは気がつかずにグラスを手に取り、ケンウッドの質問に答えた。

「金で好きな物を沢山買えると学んでしまいましたからね、しかも外の世界にはドームの中にない物がいっぱいある。テレビや映画で見て知っていても、実際に手に取って体験するのとは違います。金で実物を手に入れられると知れば、やはり物欲が生じます。物を買うには金が必要だし、沢山あれば沢山買える。我々も所詮は普通の人間ですよ。」

 コツコツと物を作り続けることだけが生き甲斐の様な「親方」エイブラハム・ワッツにそう言われると、ケンウッドは寂しく感じた。ドーマー達だけは外の世界の汚れた慣習に染まって欲しくなかった。だが、彼等は普通の人間なのだ。
 物欲から遠い世界で生きている神様の様な容姿のローガン・ハイネが、苺ソーダ水をヤマザキのグラスに入れようとして断られた。

「苺ソーダ水はそのまま飲んだ方が美味しいんだよ、ハイネ。」
「このウィスキーに合わせればもっと行けますよ。」
「そうは思わないね。」

 ケンウッドは向かいのワッツの微妙な変化に気が付いた。

「エイブ、顔が赤いが、大丈夫かい?」

 ヤマザキがワッツを見た。ハイネも見た。ワッツは大丈夫ですと答えた。

「ちょっと体が熱くなってきましたが・・・」
「熱でもあるのか?」

 声をかけたハイネに、ヤマザキが白々しいと言った。

「君が仕掛けたんだろ、ハイネ。」
「何をです?」
「エイブに酒を飲ませた。」
「ええ?!」

 ワッツが自分のグラスを見た。ケンウッドがハイネの前に置かれていた苺ソーダ水の容器を手にとって、中の液体の香りを嗅いだ。苺の甘い香りの中に、別の甘い香りが微かに混ざって匂った。

「ハイネ、悪戯するんじゃない!」
「悪戯ではありません。」

 ハイネが憮然として言い訳した。

「エイブに酒を教えようと思っただけです。」
「そんな気遣いは無用です。」

 ワッツはヤマザキとケンウッドに向かって言った。

「これだから、この人から目を離せないんですよ。」

 ケンウッドとヤマザキは笑い出した。2人とも、若々しいハイネと風格ある仙人の様なワッツが可愛らしくて仕方がなかった。笑いが収まる頃に、ヤマザキがワッツに言った。

「今夜は泊まっていけよ、エイブ。君が自分の枕でなけりゃ眠れないと言うのは知っている。だけど、さっきハイネが君に飲ませた酒はかなり強いんだ。『黄昏の家』にたどり着く迄に君が通路で寝込んでしまったら、僕等はドーマーに酒を与えた規則違反者として内務捜査班に摘発されてしまう。」

 ワッツはもう一度自身のグラスを手に取り、残っていた液体を口に流し込んだ。

「わかりました、ヤマザキ先生。今夜はお世話になります。」



 

星空の下で     16

  セイヤーズは内務捜査班のオフィスを出ると一旦局長執務室に戻った。誰もいない室内で先刻のエストラーベンとのやりとりを思い出しながら、報告書を書き、局長とキンスキーのコンピュータに送った。副局長にも必要か?と一瞬迷ったが、局長秘書が副局長に報告する義務はない。秘書はあくまで直属の上司の為に働くのだ。それで副局長への連絡は局長に任せることにして、少し遅くなったが昼休み入った。
 一般食堂に行くと、まだ少し混み合っていた。なんとか空席を見つけて食事を始めて間も無く、女性の声が話しかけてきた。

「正面の席に座っても良いですか?」

 セイヤーズが顔を上げると、あまり見覚えのない若い女性がトレイを手に立っていた。栗色の髪をひっつめて、化粧も抑え気味の地味なものだが、素材が整った美しい顔だ。少しアフリカ系が入っている。服装は保安課のツナギを着ていた。それで、セイヤーズは彼女の名前を思い出した。

「ああ、いいよ、べサニー・ロッシーニ。」

 女性ドーマーには姓がない。クローンなのでオリジナルのコロニー人卵子の母親の名前だけをもらう。姓は彼女達が成長したら自分で好みのものをつけられるのだ。養育係の姓を自身の姓につけた保安課のべサニーは、ちょっと首を振って礼を示すとセイヤーズの正面に座った。他に空席が見つからないので、渋々なのだろうが、セイヤーズの方は悪い気がしなかった。
 べサニーの方はセイヤーズが彼女の名前を知っていても驚かなかった。女性ドーマーは人数が少ないので、男のドーマー達は常にチェックしているのだ。
 少し前まで内務捜査班の部屋にいたセイヤーズは、ちょっとこの事態を偶然だろうか、と考えながら食べ物を口に運んだ。彼はジャン=カルロス・ロッシーニを晩年しか知らなかったが、彼が伝説の内務捜査官であることは遺伝子管理局内では有名だった。亡くなるまでコロニー人に正体を知られることがなかった潜入捜査官。ロッシーニはケンウッド長官には正体を知られていたが、それも偶然だったのだ。彼が局長執務室で業務している時に、たまたままだ平の学者だったケンウッドが来合わせて、出会ってしまった・・・それだけだった。
しかし局長がケンウッドを信頼していたし、ケンウッドが局長の命を救ったことはドーマー社会に広く知れ渡っていたので、ロッシーニは口止めを要請する必要もなく、ケンウッドも自然に彼の秘密を守った。
 ロッシーニはべサニーを厳しく、しかし愛情深く育てたとセイヤーズは聞いている。彼女は養父からどんなことを学んだのだろう。
 べサニーはセイヤーズが何者か全く気にせずに、食べることに集中していた。セイヤーズは彼女に自然に聞こえるように努力しながら話しかけてみた。

「保安課員がここにいると言うことは、誰か監視対象がいるのかな?」

 べサニーが手を止めて彼を見た。

「ドーム内ではいません・・・ドーマー・・・」
「セイヤーズ。」

とセイヤーズは名乗った。

「ダリル・セイヤーズ、遺伝子管理局の局長秘書をしている。」
「べサニー・ロッシーニです。」

 よろしく、とべサニーが手を差し伸べたので、セイヤーズは握手に応じた。女性らしい柔らかさはあるが、武道を嗜む力強さも持つ手だ、と感じた。

「貴方が局長秘書のセイヤーズ・ドーマーですね?」

 べサニーが声のトーンを落とした。

「今日はゴメス少佐の言いつけで、局長を見に来ました。」
「?」

 セイヤーズが怪訝そうな表情をしたので、彼女は慌てて説明した。

「局長が脚を怪我されたと聞いた少佐が、怪我をしている人としていない人の歩き方の違いを研究するように、と私と3名の若い同僚に命じられたのです。恐らく局長は周囲に怪我を悟られないように歩かれるだろうが、健全な状態の時とはどこか違いがあるはずだ、と。」

 ああ、とセイヤーズは得心した。護衛対象が負傷したら、護衛する人間は注意しなければならない項目が増える。避難行動に支障が出たり、時間がかかるのだ。ゴメス少佐は医療区から局長負傷の情報をもらって、生きた教材として局長の観察を思いついたのだ。
 ちょっと愉快な気分になって、セイヤーズはべサニーに尋ねた。

「局長を見たかい?」
「まだです。食堂2箇所を廻って見ましたが、お姿が見えません。」
「局長は長官執務室で長官と副長官を交えて打ち合わせ会だ。そろそろ終わる頃だから、中央研究所の近くにいれば出会えるよ。」
「情報、有り難うございます!」

 べサニーは食べるスピードを速めた。セイヤーズはその可愛らしい慌てぶりに、思わず微笑んだ。

「急がなくても大丈夫だ。今日の局長は速く歩けない。普段でもゆっくり歩く方だ。歩幅が広いので速いだけで、足の運びが速い訳じゃない。本気で局長が走ったら、私達は到底追いつけないよ。」

 べサニーは最後の食べ物をお茶で飲み下して、セイヤーズに尋ねた。

「今日はどちらの食堂に行かれるのでしょう?」
「さぁ・・・どっちかな。普通はこっちだけど、ギプスが邪魔だと仰っていたから、中央の方かも知れない。」
「私は平の保安課員なので、中央の食堂には入れません。」

 中央研究所の食堂は、出産管理区の食堂に接している。マジックミラーで地球人女性達の食事風景を観察して健康状態などを見るので、あちらの食堂を利用出来るのはコロニー人とドーマーの幹部だけと限られている。
 セイヤーズはちょっとだけ若い保安課員を助けてやることにした。端末を出して、ボスの位置情報を拾った。

「局長はまだ長官の部屋だ。動き出した・・・今から行けば広場で長官と局長に出会えるぞ。」
「有り難うございます!」

 べサニーは空の食器が載ったトレイを掴み席を発つと、トレイを返却して慌ただしく食堂を出て行った。
 セイヤーズは時計を見て、まだ業務に戻るのは早いな、と思った。あまり早く部屋に戻ると、早食いで有名なアナトリー・キンスキーの昼寝の邪魔をしてしまう。図書館にでも行って読書でもするか・・・彼も席を発った。古巣の遺伝子管理局北米南部班の連中が1チーム、離れたテーブルを占領していたが、そちらへは行かずに食堂を出た。チームの仲間は出世したセイヤーズを今でも歓迎してくれるが、今日は内務捜査の事案を抱えてしまった。セイヤーズは自身が仲間に嘘をつけない性格であることを承知している。この手の仕事を持つと仲間とのコミュニケーションがぎこちなくなってしまい、却って秘密を持っていることがバレてしまうのだ。

 ああ、早く捜査が終わって、結局このドーム管内では情報漏洩がなかったって判明しないかな・・・


 

2021年3月22日月曜日

星空の下で     15

  セイヤーズが席を発とうとすると、エストラーベンがその動きを止めるかのように質問を発した。

「セイヤーズ、君は内務捜査班の班員が入局式に出たのを見たことがあるかね?」

 セイヤーズは一瞬キョトンとして、そして考え込んだ。彼自身の入局式は異例だった。ハイネ局長が重病で入院して、リモートで新人の自己紹介を見て、挨拶もなく画面から消えた。式典は当時のドーム長官サンテシマ・ルイス・リンの主導で行われ、実際は必要だった局員の遺伝子紹介が行われなかった。
 セイヤーズが局長秘書に就任してから立ち会った入局式は正式なものだったが、内務捜査班の班員に採用された少年達はいなかった。

 そう言えば、内務捜査班はいつ採用されるんだ? 入局式に出ればコロニー人に面が割れてスパイ活動など出来ない・・・

 セイヤーズはエストラーベンを改めて見た。

「内務捜査班の入局式なんて、あったっけ?」

 ハマー・ブライトがクスッと笑い、エストラーベンも口元に微かに笑みを浮かべた。

「あるんだ。でも養育係の執政官は気がつかない。ドーマーの養育係だけが知っている。」

 セイヤーズは驚いた。

「では、養育棟で行われるのか?」
「養育棟の訓練室でね。」

 エストラーベンが立ち上がり、セイヤーズにも立つようにと促した。そして机を回ってセイヤーズの横に来た。

「時々局長が養育棟に参観に行かれるだろう?」
「うん・・・子供達の成長を見に行かれる。」
「子供達が10歳になれば、進路が決められる。数名が遺伝子管理局へ、残りはその能力や興味を持つ方向から維持班各所へ・・・内務捜査班へ進む子供は維持班へ振り分けられる子供から選ばれる。」
「そうだったんだ! 局長は子供達の適性を見極めに行かれているのか・・・」
「いつもではないがね。単純に子供達の成長を楽しまれる時の方が多いが。」

 ブライトが珍しく言葉を挟んだ。

「局長にお声をかけられると、子供でも嬉しいものだよ、セイヤーズ。そして局長が秘密の合言葉を教えてくれたら、もう天にも昇る気持ちになる。」
「ああ・・・」

 それが「採用」なのか。セイヤーズは得心が行った。エストラーベンがそっと彼の肩に手をかけ、顔を寄せて囁いた。

「君も仲間だ。」

そして左の頬に軽くキスをした。セイヤーズがびっくりすると、エストラーベンが体を離し、クスリと笑った。

「これが、入局式だ。残念だったな、セイヤーズ、私は局長ではないので、君は仲間に入れないが。」

 セイヤーズは胸がドキドキした。40年以上生きてきたが、こんな身近にこんな秘密があったなんて! だが彼の頭はただ感動しているだけではなかった。エストラーベンがこの秘密を教えてくれた意味を意図を考えていた。

「つまり・・・チーフ・エストラーベン、貴方が言いたいのは、内務捜査班の班員は私達が思う研究所の科学者達だけではないと・・・?」
「君の視野が狭いようだったので、ちょっとからかってみた。」

 エストラーベンはまだ可笑しそうに口元を緩ませたまま席に戻った。セイヤーズは座れと合図をもらって、また椅子に戻った。

「調査の依頼を引き受けよう。捜査官は研究所の外の人間だ。必要な人数を伝えてくれたら、こちらで選出する。だから彼等が支局へ行く言い訳を君達が考えてくれ。」
「わかった。」

 セイヤーズは肩の力を抜いた。

「調査対象は支局長になる。元ドーマーだから、内務捜査班の存在は知っている。だから尻尾を掴まれない人材が必要だ。そして支局長室に入れる人だ。技術者でも経理関係でも良いかな。支局の職員全員の健康診断で医療関係者が行く手もある。」

 研究員と言う縛りがなくなれば、アイデアはいくらでも出てきた。

「局長は最初から様々な分野にいる捜査官を想定なさって賛同なさったんだろうな。」
「アルもそのつもりで案を出した筈だ。」

 アルとは、アルジャーノン・キンスキーだ。エストラーベンはキンスキーと部屋兄弟だ。部屋兄弟だからと言って職務上の秘密を共有したりはしない。キンスキーが内務捜査班の事情を知っているのは、第2秘書として働いている間に中央研究所に出入りして情報収集することによって、捜査官達の存在が研究所内だけでないことに気が付いたからだろう。セイヤーズは自分がまだ未熟な秘書であると痛感した。思わず呟いていた。

「ネピア・ドーマーもそのつもりだったのかな・・・?」

 エストラーベンとブライトが声を立てずに、しかしはっきりと笑った。

「ネピア・ドーマーは内務捜査班の暗号文字を解読出来ないよ。」
「局長は秘書が必ずしも内務捜査班の実態を知っているべきだとは考えておられない。ただ、亡きペルラ・ドーマーは聡明な方だったからご存知だったし、セルシウス・ドーマーはフォーリー・ドーマーと部屋兄弟で仲が良いから恐らくご存知だ。どちらの大先輩も、局長が瀕死の状態で入院中に内務捜査班のチーフに指令を出されたからな。」

 そしてエストラーベンはこう付け加えた。

「内勤にもうちの部下がいるから。」



 

 

2021年3月21日日曜日

星空の下で     14

  内務捜査班のオフィスは局長執務室と同じフロアにあった。副局長執務室を新たに造ったおかげで内務捜査班の大部屋は少し狭くなってしまったが、普段から班員が集まることなどない部署だ。セイヤーズはチーフのエストラーベンと彼の秘書以外の内務捜査班の人間を遺伝子管理局本部内で見たことがなかった。たまに引退した前チーフ、ビル・フォーリーが何か調べ物をする為に大部屋に出入りするのを見かける程度だ。フォーリーは養育棟の訓練所で若い捜査官候補生を教育する仕事をしている。大部屋はほとんど資料保管庫扱いになっていて、内勤の局員も利用しているが、現役の捜査官は来ない。うっかり本部に出入りするところをコロニー人に見られて内務捜査班であることがバレては困るからだ。
 セイヤーズは大部屋の向こうにあるチーフ執務室に訪問する連絡を入れてから、そこまで歩いて行った。ノックする前にドアが開き、秘書が「どうぞ」と招き入れてくれた。内務捜査班の秘書ハマー・ブライトは秘書会議に来るが静かで出席していることに気づかれないほどだ。チーフもチーフ会議に滅多に顔を出さないので、チーフ達は時々エストラーベンの存在自体を忘れることがある。
 セイヤーズは務めてさりげなく、「ヤァ、ハマー」と挨拶した。

「忙しいかい?」
「それなりに。」

 ハマー・ブライトは短く答え、客をボスの執務机の前の席に案内した。
 コリン・エストラーベンは中央研究所で働いている部下から送られてくる報告書に目を通していたが、セイヤーズが前に来ると立ち上がって握手した。

「君がこの部屋に来るとは珍しい。」
「うん・・・電話ではちょっと話しにくい話題でね。」

 セイヤーズは椅子に腰を下ろした。すぐに本題に入った。

「局長宛のポール・レインの報告に気になる案件があって、局長も長官も憂慮されている。今朝の打ち合わせ会での議題になって、内務捜査班の協力を得たいと言う話になった。」

 エストラーベンは黙ってセイヤーズを見ているだけだ。セイヤーズは話を進めた。

「中央アジア・ドーム遺伝子管理局の管轄下で、住民の遺伝子情報が漏洩した疑いがある。進化型3級遺伝子保有者のところにコロニー人らしき訪問者が来て、精子を売ってくれないかと持ちかけるそうだ。中央アジア・ドーム遺伝子管理局は支局のどれかが情報漏洩の発信源と考えて調査中だとレインは報告している。
 以上は中央アジアの問題だ。しかしケンウッド長官とハイネ局長は僕等の南北アメリカ大陸で同様の案件が起きていないか心配されている。ネピア副局長が調査に乗り出された。過去の報告書をもう一度再検討してそれらしき事例がなかったか洗い出しを開始されたところだ。
 だけど事務的に調査してもわからない場合も多い。そこでキンスキー・ドーマーが内勤局員か内務捜査班に協力願って現地調査をしたらどうだろうと提案した。」
 
 内務捜査班は、実際に起きているかどうかわからないコロニー人の不正研究を調べるのが仕事だ。実際に起きているかどうかわからない情報漏洩を調べるのも可能だろう、と言うのがキンスキーの考えだ。
 エストラーベンが視線をセイヤーズから秘書のブライトへ移した。ブライトが肩を竦めて見せた。それを視野の片隅で捉えて、どう言う意味だろう、とセイヤーズは思ったが、言葉にはせずに内務捜査班チーフを見つめた。
 エストラーベンが自身の執務机を手で撫でた。

「私の先先代のロッシーニ・ドーマーがその生涯でこの机の前に座った日は数えるほどだったそうだ。」
「彼はずっと潜入捜査専門だったからね。」
「私の師、先代のフォーリー・ドーマーはここで仕事をされていたが、彼が部下達と直接任務の話をする姿は誰も目撃したことがなかったと言われている。」
「そりゃぁ、内務捜査班は潜入捜査官だとバレては困るから・・・」

 彼が何を言いたいのか、セイヤーズはぼんやりと察した。

「研究員として潜入捜査している部下が外へ出かける理由を作らなきゃいけないってことか・・・」
「保養所へ出かけるのであれば、理由は簡単に作れる。しかし、支局に研究員が行く目的がない。」
「う〜ん・・・」

 セイヤーズは思わず腕組みした。 内務捜査官達は本物の科学者でもあるのだ。彼等は少年期から遺伝子工学や薬学や医学を学び、ビル・フォーリーが訓練所で彼等に教えているのはそれらの専門知識を使ってどうやって不正研究を見破るかと言う技術だ。コロニー人はフォーリーが教えている「一般教養科学」なる科目がどんな実態なのか知らない。広範囲の自然科学の知識を浅く教えて専門知識に偏らないようにする為のもの、と言う認識だ。
 だから、科学者達が遺伝子管理局の支局へ出かけて行く目的がないのだ。支局が扱っているのは、住民の婚姻と養子縁組と出生・死亡届け、そして女性の妊娠確認だ。住民の遺伝子情報が欲しければドームにある本部で調べれば事足りる。潜入捜査官が用事がないのに支局に出かけて仕事をすれば、ドームにいるコロニー人達に捜査官であることがバレてしまうのだ。

「保養所に行くふりをして・・・或いは研究資料を収集する旅行に出るふりをして支局に出かけると言うのは?」
「保養所にはコロニー人も行くし、研究資料を収集すると言う口実は、現物の資料を持ち帰る必要がある。それに支局の数だけ資料収集に出かける訳にはいかない。研究のリーダーはあくまでもコロニー人執政官だからだ。」

 エストラーベンは機嫌が悪い、とセイヤーズは感じた。先刻迄目を通していた部下の報告書に何か不愉快なことでも書かれていたのだろうか。
 セイヤーズは内務捜査班の協力を諦めようかと思った。折角局長が乗り気になってくれたキンスキーのアイデアも現実的ではなかったか・・・
 その時、秘書のハマー・ブライトが質問した。

「セイヤーズ・ドーマー、調査は一斉に行うのですか? それとも支局一箇所ずつ順番に?」

 ああ・・・とセイヤーズは呻きたくなった。ネピア副局長は調査する順番を決めると言ったが、そんな悠長なことで大丈夫だろうか? もし本当に情報漏洩が行われていたとしたら、支局に捜査が入ったと情報が流れでもしたら、犯人はその痕跡を消してしまうのではないか。だが、内務捜査班が支局の数と同じ人数の捜査官を一斉に外へ出す筈がない。

「話を持って行く場所を間違えたな、セイヤーズ。」

とエストラーベンが言った。

「内務捜査班ではなく、内勤部屋へ行くべきだ。外勤務の経験者を集めて捜査させてはいかがか?」



星空の下で     13

  普段通りの業務を進め、お昼前にハイネ局長は定例の打ち合わせ会に出る為に中央研究所の長官執務室に出かけて行った。歩く姿は普段と全く変わりない。違っているのは、ギプスを隠す為に少しゆったりめのズボンを着用していることだけだ。
 局長がドアの向こうに姿を消すと、キンスキーがセイヤーズに向き直った。

「長官は来月サンダーハウスにお出かけになるが、局長を同伴されるおつもりだと言う噂だ。知っているかね?」
「はい、長官の口から聞きました。」

 セイヤーズはキンスキーがどこからその情報を得たのかは尋ねなかった。昨夕、ケンウッド長官はまだ自分の頭の中だけの計画だと言った。長官が方々に言いふらすことはないから、キンスキーは恐らく長官の秘書から情報をもらったのだろう。長官の秘書2人は口が固いが、キンスキーにはあまり隠し事をしたくないようだ。局長第2秘書は中央研究所でコロニー人社会の情報を収集する仕事がある。セイヤーズも現在はそれを仕事の一つにしているのだが、最近まで第2秘書だったキンスキーが中央研究所で築いた信用は簡単に超えられない。それに悔しいことに、セイヤーズは「ちょっと口が軽い」と恋人のポール・レインから評価をもらっていたので、口が固いことで評価されているキンスキーほどコロニー人から打ち解けてもらえない。
 キンスキーはセイヤーズが長官直々に情報をもらったことに関して何もコメントしなかった。その代わりに質問してきた。

「局長は遠出なさると思うか?」

 セイヤーズは考え込んだ。ハイネ局長はまだドーム空港のビル内とドーム周辺の花畑しか出かけたことがないし、1時間ほどですぐ帰って来る。マスクの効力を完全に信用しきれないのだ。それに花畑は昆虫が増える季節になれば出かけなくなる。

「精神的に無理なんじゃないでしょうか。」

 セイヤーズの正直な意見に、キンスキーは同意を示して首を振った。しかし・・・

「局長は好奇心の強い方だし、長官には逆らわない。もし長官から強く同伴を求められたら、お出かけになるだろうな。」
「でも、あの脚では心配です。サンダーハウスにはセッパー博士がおられます。彼女の前で怪我をしていることを知られないよう無理をなさる恐れがあります。」

 ドームの住人達は、シュリー・セッパー博士が何者か、薄々勘付いていた。ローガン・ハイネは孫娘に弱味を見せまいと張り切ってしまうだろう。
 ふむ、とキンスキーは少しばかり考え込み、それから自分のコンピュータの画面を閉じた。

「不確定の未来に今から悩んでも仕方がない。私は昼休みに入る。君も休みなさい。」

 セイヤーズは時計を見て、まだちょっと早いな、と思った。それで先刻の会議の内容を思い出して言った。

「私は内務捜査班のオフィスにちょっと顔を出してきます。今ならまだエストラーベンは席にいるでしょう。」



星空の下で     12

 「支局からの情報漏洩ですか・・・」

 南北アメリカ大陸ドーム遺伝子管理副局長ネピアは顎に手を当てて考え込む様子を見せた。
局長執務室での幹部打ち合わせ会の席だ。副局長と言うポジションが出来てから、この打ち合わせ会が始まった。局長が昼前に開かれる長官執務室での定例打ち合わせ会に毎日出かけるのと違って、遺伝子管理局の幹部打ち合わせ会は月曜日の朝と決まっている。出席するのは局長、副局長、それぞれの秘書3名の5人だ。

「どうも解せませんな。」

とネピアが呟いた。

「中央アジアの支局がどれほどの数なのか知りませんが、そんな重要な情報を漏洩させたら、すぐにどこから出たのか判明しそうなものです。他の支局のデータは支局長でなければ見られないのですから、職員が扱えるレベルではありません。支局長達を調べれば情報漏洩の元などすぐ判明するのではありませんか?」

 すると、若い頃1年間だけ西ユーラシア・ドーム遺伝子管理局に勤務していたダリル・セイヤーズが発言した。

「私は一度だけ中央アジアに出張したことがあるのですが、あちらはひどく大らかなんです。」
「どう言う意味だね?」

 ネピアとセイヤーズはあまり仲が良くない。どちらかと言えばネピアが一方的にセイヤーズに対して壁を築いているのだが。セイヤーズにさっさと要点を言えとせっつくつもりで声をかけた。
 セイヤーズも先輩のそんな態度に慣れているので、続けた。

「民族性と言いますか、中央アジアの人々は仕事の成果を上げることにあまり急がないんです。それに、空間的にも支局同士の距離がかなり遠く、交通手段もアメリカやヨーロッパほど発展していません。オンラインでの調査では限界があります。もしデータをオンラインで売り渡せば、本部から調べて誰が情報を売り渡したかわかるでしょうけど、もし情報チップや原始的に紙を用いた媒体で売り渡していたら、本部ではわかりません。現地へ赴いて物的証拠を集めることが必要です。航空機や地上車で支局を巡って調査すると時間がかかるのです。」
「中央アジアがどんな手段で調査しているのか、それを我々がアメリカで論じても埒があきません。」

と言ったのは、局長第1秘書のアルジャーノン・キンスキーだった。彼は普段会議で多く発言する方ではない。しかし口を開くとしっかりと論点を突く。

「南北アメリカ大陸で、同様の企業、バイヤーからの接触がなかったか、それを調査するべきです。支局巡りをしている各班チーフに調査させても良いですが、彼等は普段でも多忙です。内勤か内務捜査班に調査させましょう。」

 ああ・・・と一同が納得した。ネピアなどは内務捜査班と聞いて、あの連中が外に出るのか、と呟いたほどだ。内務捜査班は基本的にコロニー人研究者達が本来の研究目的から外れた研究をしていないか探る組織だ。しかし、地球人に女性が誕生しなかった理由が解明され、正常な遺伝子を持つクローン女性が生み出されつつある現在、内務捜査班は警察のような仕事でドーマーも含めたドーム住人の治安維持に関わっている。捜査を内務捜査班が行い、反抗する人を拘束するのが保安課だ。
 内勤か内務捜査班を外に出して捜査させると言うキンスキーの案に、元内務捜査班の捜査官だったハイネ局長が、面白い!と言った。

「何も出なければ、アメリカ大陸は安泰と言う訳だな、諸君?」
「そうです。」

 ネピアは、内心何故自分がその考えに至らなかったのだろうと悔やみながらも、後輩であるキンスキーの提案に賛同した。

「では、私がチーフ達の日々の報告書の内容を検討して、調査を入れる順番を決めましょう。」

 彼は自身の秘書であるライリー・コードウェルを振り返った。

「手が空いた時で良いから、君も直近1ヶ月の報告書で気になった点などがあれば掘り起こしてくれないかね?」
「わかりました。」

 若いコードウェルは、外勤務局員の経験がない。頭脳は優秀だが、喘息持ちの遺伝子があるので、ドームの清潔な空気の中で働かせるよう執政官から要請されて採用時から内勤業務に就いている。しかし、最近はたまに、ハイネ局長がドームの外に散歩に出る時、ネピアの許可をもらって局長の護衛を兼ねてお供させてもらっている。この男もマスク着用を欠かせない。ネピアはこの男を気に入っているが、時々仕事の手が空くと居眠りする癖には愚痴をこぼしていた。この際だから、仕事を増やしてやろうと言う魂胆だ。
 セイヤーズは自分が外に出て調査したい派だ。しかし進化型1級遺伝子危険値S1保有者なので、滅多に外出させてもらえない。

「内務捜査班には私から話を持って行って良いでしょうか?」

 と手を挙げてみた。内勤を使うか内務捜査班を使うか、まだ決めていない。内務捜査班の若きチーフ、コリン・エストラーベンが部下を外に出すことに同意するかどうかもわからない。セイヤーズは、気難しいネピア副局長を全く恐れないエストラーベンに対してネピアが苦手意識を持っていることを薄々勘付いていた。果たして、ネピアが、「お!気が利くじゃないか」と言いたげな表情で頷いた。

「では、セイヤーズにエストラーベンと交渉してもらおう。局長、それでよろしいですか?」
「それで良い。」

 ハイネ局長は眠たそうな顔で言った。もっとも彼はいつも会議の時、こう言う表情なのだ。彼自身がノリノリにならない限りは、どこか遠くで会議が行われているのを聞いている、そんな顔をしている。だが、ちゃんと話を頭に入れているので、部下は油断出来ない。
 打ち合わせ会が終了して、部下達が会議テーブルから離れようと立ち上がった時、ハイネが口を開いた。

「今朝、朝一に言うべきだったが、うっかり忘れていたことがある。」

 何でしょう? と代表してネピアが尋ねたので、ハイネは副局長とその秘書を驚かせることを発言した。

「昨日、私は片脚の骨を折ったので、暫く運動をサボる。私が運動施設に出かけないからと言って、余計な心配はしないように。」
「こ・・・骨折なさったのですか?!」

 局長を心から敬愛するネピアが顔色を失った。何を騒ぐか、と言いたげに、ハイネは頷いた。

「少しアホなことを自分でやってしまったのだ。若い連中には知られたくないのでな、私が運動をサボっているからと言って騒がないように。何かあればすぐヤマザキ先生が来てくれる。気遣いは無用だ。」

 セイヤーズはキンスキーを見た。キンスキーがネピアに言った。

「局長は普通に歩行されています。副局長が心配なさる必要はありません。」
「2ヶ月ほど走れないだけだ。」

 ハイネは手を振って、副局長とその秘書に「退がれ」と合図を送った。



2021年3月20日土曜日

星空の下で     11

  ローガン・ハイネの怪我を月の地球人類復活委員会に報告する義務はなかったが、ケンウッドは進化型遺伝子の密輸と言う噂が気になったので、本部勤めをしている親友ヘンリー・パーシバルに連絡を取ってみた。パーシバルはそんな話はまだ月に届いていないと答えた。

「多分、中央アジア・ドームは密輸の事実を掴むかして確証を得るまでは、本部に報告したくないのだろう。」

と彼は考えを述べた。

「遺伝子バイヤーが中央アジア・ドームの担当地域だけに出没しているのであれば、やはり支局あたりからの情報流出があったと考えなきゃいけない。中央アジア・ドーム遺伝子管理局の大失態だ。」

 ケンウッドは考えたくなかったが、別の可能性も言ってみた。

「本部局員が流した可能性も考えられるだろう?」
「ドーマーが?」

 パーシバルがスクリーンの中で不機嫌な顔をした。

「ドーマーを天使のように愛している君がそんなことを考えるなんて・・・」
「私は別にドーマー達が天使だなんて思ってはいないよ、ヘンリー。彼等だって人間だ。ドームの外と自由に交流を持つようになってまだ数年しか経っていないが、金が物を言う世界を知るのは遅くないだろう。特に若い世代は新しい知識を貪欲に吸収するからね。」
「僕は支局が雇った民間人を疑ってみたのだがね。」

 パーシバルが溜め息をついた。ドーマーを愛することに関して、彼はケンウッドに勝るとも劣らない。ケンウッドは疑問に思っていたことを尋ねてみた。

「しかし、地球に来て買い漁るほど、進化型遺伝子は相場が上がっているのかね?」
「相場が上がったとは聞いていないよ。ただ、宇宙で進化型遺伝子保有者を探すより、地球で探す方が簡単なのさ。遺伝子管理局がしっかり地球人の遺伝子追跡を記録しているからね。」

 それに、とパーシバルが付け加えた。

「惑星開拓の移民を改良する以外にも遺伝子の使い道があるんだ。人間の進化型遺伝子を使ってある種のウイルスからワクチンを開発する研究が最近盛んになっている。ウィルスを変異させるから、かなり危険な研究なのだがね。」
「まさか、人間の居住コロニーで行なっているのじゃないだろうね?」
「僕が知る限りでは、それはない。小惑星や並走する宇宙ステーションに研究施設を持つ企業がやっているんだ。連邦政府は連中に研究過程を細かく報告させている。生物兵器を作られては困るから。企業の目的は、重力障害の予防薬だ。従来の薬は、重力障害を発症した人や、発症の恐れがある長期地球滞在者が毎日服用する物だ。僕も地球へ降りる時は欠かせない。だが、彼等が今研究しているのは、発症する前に服用して、それも数回の服用で効果が出るものを作り出すことだ。」
「それは、コロニー人の遺伝子の中の重力適応能力の部分を改良してしまう薬、と言うことかね?」
「そう言うことなんだろうなぁ。多分、地球でもコロニーでも自由に往来出来る適応能力を高める薬を作ろうとしているんだよ。」
「だが、遺伝子の密輸だ。まともな企業ではないのかも知れない。」
「そうかな・・・」

 パーシバルが苦笑した。

「地球人類復活委員会がドーマーの遺伝子を売る相場を知っているのかい? ニコ。」
「ドームの送電線の主軸ケーブル1キロメートル分の値段はするだろう。」

 ケンウッドがそう答えたのには理由があった。20年近く前、宇宙連邦軍がテロ組織の無人戦闘機を地球の成層圏で撃墜したことがあった。これは地球に不安を与えないよう、地球の全ての政府に送られた情報では「廃棄人工衛星の墜落」とされていた。その時、破壊された戦闘機の残骸が燃え尽きずに南北アメリカ大陸ドームの周辺に落下して、ドームの発電施設と周辺のドームシティに大きな被害を与えたのだ。宇宙軍はシティに損害賠償を支払ったが、ドームは資金不足を理由にケーブル代の立て替えを要請されてしまった。その時に支払ったのが、お金ではなく2人の若い健康なドーマーの精子だった。ケーブル代の債権を買い取った宇宙開拓事業団の希望だったのだ。

「送電ケーブル1キロメートル分・・・ね・・・」

 パーシバルがやれやれと首を振った。

「ドームで消費する電力を流すケーブルだ、絶対に安くない。製薬会社は研究費用にそんな金額を出せないだろう。だから、直接地球人と交渉して精子を売ってもらうんだ。密輸と言っても、連中には犯罪の意識はないんじゃないかな。」
「それじゃ、取り締まりは難しいだろうね。宇宙港でなくても離発着出来る航宙ボートの類なら地球上どこにでも降りられる。連中は堅気で犯罪者の意識がないから、多分見た目は上品で丁寧に売り手に接するだろう。」
「だからバイヤーを取り締まるのは捕まえないと無理だ。規制しても効果がない。中央アジアの遺伝子管理局がしっかり情報を守れなかった為に起きているんだろ。他のドームも支局の管理をしっかりやらなきゃ。」

 ケンウッドは支局の管理をしているのは局長第1秘書だったか、第2秘書だったかと考えた。そして現在はその役目が副局長に移っていることを思い出した。

「うちのドームの支局管理担当はネピア・ドーマーだ。超が付く堅物だから、大丈夫だと思うが・・・」


 


2021年3月19日金曜日

星空の下で     10

  暫くケンウッド長官とハイネ局長は並んで夜空を眺めていた。ドームの壁越しの夜空だから風に吹かれて体が冷える心配はなかった。羽虫が飛んでくることもない。もしサンダーハウスにハイネを連れて行くことが出来たら、シュリーも一緒に3人で夜空を見上げてみようとケンウッドは思った。ハイネは羽虫に驚くかも知れないが。
 するとハイネがふと何かを思い出して言った。

「中央アジア・ドームに滞在しているポール・レインから報告が届いていましたが、長官は目を通されましたか?」
「いや、今初めて聞いた。」

 レインは妻のJJ・ベーリングと共に世界のドームを巡っている。JJが新しい人工羊水で育つクローンの遺伝子が正常に保たれているか検査して回る仕事に同行しているのだ。名目はJJの護衛だが、ハネムーンでもある。報告を送ってくるのは、真面目なレインらしい所業だ。まさか楽しい旅行の報告ではあるまい。ケンウッドは質問した。

「どんな内容だね?」
「それがちょっと不穏な話でして。」

 ハイネは端末を出した。レインの報告書を開いて見せた。そこには、地球が宇宙連邦の一員として再加入する時期を待ちきれない人々が地球資源の密貿易をしている噂を聞いた、というものだった。不愉快な話だが、宇宙では手に入らない地球のレアな資源をコロニーで闇市場で売買する組織があることは事実だ。しかし・・・

「これは、ドームの管轄じゃない。外の警察組織の縄張りだよ。」
「それはレインも承知しています。しかし、進化型遺伝子の売買は問題です。」
「なんだって?!」

 ケンウッドはびっくりした。ハイネの端末を取り上げるようにして、画面をじっくり読んだ。レインの報告書には、中央アジアでどこかの支局から流出したらしい住民の遺伝子情報がコロニーに売られ、進化型遺伝子を持つ地球人の住む所に奇妙なバイヤーが訪問する事例が数件、中央アジア・ドーム遺伝子管理局に報告されていると書かれていた。
 進化型遺伝子と言うのは、遺伝子操作された遺伝子と言う意味で、現在太陽系の内外のコロニーで暮らしている人類は全員進化型遺伝子保有者だ。つまり、地球の重力と異なる重力圏で暮らしていけるよう遺伝子操作されて宇宙に飛び出した人々の子孫になる。これは進化型5級遺伝子と呼ばれ、全然特別でもなんでもない、「普通」の遺伝子と見做されている。そして現在の地球人は女性が生まれなかった為にコロニー人の卵子を用いたクローン女性から生まれているので、彼等も進化型5級遺伝子保有者なのだが、地球で誕生した為に、進化型遺伝子は「進化」して地球の重力に適合したものに変化と言うか退化して安定している。その為、地球人の遺伝子は「オリジナル」と呼ばれる。コロニー人の子孫でない唯一人の地球人ジェリー・パーカーだけは「オリジン」と呼ばれているが。
 5級からさらに操作されて移住や職業に適した能力を発揮出来るように開発された遺伝子が4級から1級だ。但し、1級は「それ以上操作すると人間の定義から外れる恐れがある」とされ、人口を増やすことを警戒されている。ヘテロで生まれれば問題視されないが、ホモで1級遺伝子を持って生まれてしまうと、その生涯を追跡記録されることになる。ローガン・ハイネとダリル・セイヤーズが一生をドームで暮らすように監視されているのは、その為だ。
 進化型1級遺伝子保有者の人口は地球人類復活委員会が完全に把握しているし、管理している。しかし、4級から2級は外野で育っている人々なので、遺伝子管理局が婚姻許可不許可で人口を調整しているのだ。これが遺伝子管理局の本来の役目だ。進化型と言われるだけあって、これらの遺伝子はどんな組み合わせで次の段階に発展するかわからないからだ。
 ポール・レインが集めた情報では、主に3級遺伝子を持っている家族を正体不明のコロニー人と思われるバイヤーが訪問して、男性達に精子を売らないかと持ちかける、と言うものだった。
 身元不明者の遺体を調べる警察関係の検視局や監察医に遺伝子管理局は情報提供することがあるが、進化型遺伝子の情報は渡さない。法律で禁じられているし、身元判定に必要がないからだ。しかし、コロニー人と思われるバイヤー達はその進化型遺伝子のリストを持っている。

「どこから入手したのだろう。」
「それがわかれば当該地区の行政組織に伝えて住民に注意を与えてもらえるのですが、情報の流出元を調査している最中ですから。」
「中央アジア・ドームは調べているのだね。」
「そのようです。まだあちらの遺伝子管理局からは何も連絡はありませんが。」

 ハイネはポケットに端末をしまった。

「明日、ネピア副局長に伝えて、中央アジアから何か言ってきたら私にも知らせて欲しいと言っておきます。」


2021年3月17日水曜日

星空の下で     9

 「そもそも、どうして局長をサンダーハウスへ連れて行こうと考えられたんですか?」

とゴールドスミスが尋ねた。夕食は既にデザートの段階に進んでいた。ケンウッドはカフェイン入りのコーヒーを選んでいた。 苦味を味わいながら彼は答えた。

「マスクなしで大気を呼吸させてやりたいのだよ。」

 セイヤーズがちょっと不安げな表情を見せた。

「それって、局長の体で人体実験することになるんじゃないですか?」

 ケンウッドは気が進まなかったが、認めた。

「そうだよ。彼の様な肺に問題を抱える人間でも呼吸が出来る空気が造れているか、確認しないといけないんだ。」
「何も局長の肺で・・・」
「これはハイネ自身が以前から希望していたことでもあるんだ。」

 サンダーハウス・プロジェクトに参加しているコロニー人の科学者の一人、シュリー・セッパー博士は、キーラ・セドウィック博士とヘンリー・パーシバル博士の娘だ。キーラはハイネの隠し子で、だからシュリーはハイネの孫娘になる。ハイネは孫の研究成果を確認する実験に自ら志願したのだ。だがサンダーハウスへ行く迄に体を外気に慣らさなければならず、時間がかかっている。もっともサンダーハウスの方でも実験の成功を公表するにはまだ慎重を要して時間をかけたがっているのも事実だ。
 セイヤーズは渋々ながら、納得した、と呟いた。

「では来月あたりでサンダーハウス・プロジェクトの研究に一区切りつけそうだと言うことなのですね?」
「その予定だ。しかし、ハイネの体調は兎に角、あちらの研究の進み具合でまた延期になるかも知れないがね。」
「それじゃ、僕のフライトは?」

 ゴールドスミスが自身のスケジュールの心配をしたので、ケンウッドは微笑んだ。

「それは大丈夫だ。恐らくピッツバーグ博士か私のどちらかが行くことになっている。それは変わらないよ。」

 食事を終えると、図書館で映画を見ると言うセイヤーズとゴールドスミスと別れ、ケンウッド長官は庭園に向かって歩き出した。少し休憩してからジムで運動するつもりだった。しかし途中で気が変わって、アパートで本でも読もうと思い立った。普段ならハイネと一緒に運動するのだが、一人ではつまらない。ヤマザキも今夜は当直だ。
 中央研究所前の広場へ来ると、噴水の池の縁にローガン・ハイネが一人で座っているのが見えた。休日なので普段着姿で夜空をぼーっと眺めている。妻のアイダ・サヤカ博士と食事をした後で彼女が仕事に戻ってしまったのだろう。
 ケンウッドは近づいて行った。

「ヤァ、ハイネ。休憩かい?」

 声をかけると、ハイネがゆっくり振り返り、微笑みを返した。

「こんばんは、長官。」

 見るまいと思ったのだが、ケンウッドの視線はどうしても彼の脚に向けられてしまった。ハイネも気が付いて、先手を打ってきた。

「ドクターの報告を聞かれましたね。」
「うん。驚いたよ。」

 ケンウッドは彼の隣に座った。

「痛むかい?」
「いいえ、薬が効いていますから。でもギプスが気になって、アパートまでの途中で休憩していました。」

 ゆったりめのズボンでギプスの存在は上手に隠されていた。

「サヤカには言ったかい?」
「ええ・・・叱られました。一人でいる時は余計なことはするな、と。」

 ハイネが自分で笑ったので、ケンウッドも笑った。笑いながらケンウッドは彼等が現在いる場所が、ハイネにとって特別な場所であったことに気が付いた。この場所の写真を見たことがある。80数年前に撮影された古い写真だ。それを見たのは、ドームの外の高齢者介護施設の一室だった。ケンウッドはその写真を大切に守って来た男の顔を思い浮かべた。

 ダニエル・オライオン、君の兄貴の側には今彼を大事に思う人々が大勢集まっているんだよ。安心して眠っていておくれ。


2021年3月16日火曜日

星空の下で     8

 局長第1秘書アルジャーノン・キンスキーと数分ばかり話をして、セイヤーズがケンウッド達のテーブルに戻って来た。やはりキンスキーはまだ局長の怪我の話を聞かされていなかった、と彼は報告した。

「でも、局長が直ぐに手当を受けてアパートに戻られたと知ると、彼は安心していました。多分、明日は知らん顔して局長が言い出すまで黙っているんじゃないですか。」

 キンスキーはあまり他人のプライバシーに首を突っ込まない。無関心ではないが、自分が関わっても相手の状況に影響がないと判断すると、相手が言い出すまで黙っているのだ。捉えようによっては、冷たいヤツと映るかも知れないが、それがキンスキーなのだ。しかし、そっと目立たないように援助の手を差し伸べる。ハイネは彼のそんな縁の下の力持ちの性格が気に入っている。
 ケンウッドも頷いて、セイヤーズの予想に同意した。ハイネは多分自分の失敗で負った怪我に関して、周囲に騒いで欲しくないだろうし、気が付いて欲しくない筈だ。それにしても・・・

「来月のサンダーハウス行きに彼を連れて行ってやろうと思っていたのだが、無理かなぁ。」

と彼が呟くと、セイヤーズが「え?」と目を輝かせた。

「局長をサンダーハウスまで遠出させるおつもりだったんですか?」
「彼にはまだ言っていない。私の頭の中の計画の段階だがね。」

 ケンウッドがわざと溜息をつくと、ゴールドスミスが提案した。

「局長よりヤマザキ博士を口説いた方が良いですよ。医者がOKを出したら、局長も出かける気になるでしょう。」
「そうだろうか? ドームの外に出るだけでも一大決心をした男だぞ。」

 ケンウッドは続けて言った。

「彼はまだ自転車にも乗ったことがないんだ。」
「まぁ・・・ドームの中にいれば必要ありませんからね。」
「ヘリコプターに乗った途端に気絶なんて、彼の方ならあり得ません。」
「気絶していてくれた方が、私は安心出来るがね。あの男は計器を見たら触ってみたくなるだろうし。」

 ケンウッドの冗談にセイヤーズとゴールドスミスは笑った。セイヤーズは昔パイロット免許を持っていなかったにも関わらず、初めて搭乗したヘリコプターを乗り逃げしたことがあるのだ。ドームに反感を持つ敵に誘拐された後輩を一刻も早く救出しようと気が逸った結果だ。セイヤーズは進化型1級遺伝子危険値S1と呼ばれる厄介な遺伝子を持って生まれた。先祖の記憶をそのまま生まれながらに持っているのだ。但し、この「記憶」は機械や科学に関することで、人文学的な事象は何も記憶していない。それ故、彼は初めて見る機械を取説なしで構造を理解し、分解も組み立ても出来るし、操作もやってしまえる。たった一人で宇宙の全スーパーコンピューターを乗っ取ることが出来るのだ。だから危険値S1と呼ばれ、ドームの外に子孫をばら撒かないよう、行動を管理されている。閉じ込められるのは気の毒なことだが、もし宇宙軍の知ることとなれば、危険値S1保有者は軍が管理すると言う宇宙連邦法によって、彼はコロニー世界に連行されてしまうのだ。それ故、南北アメリカ大陸ドームの幹部執政官達、地球人類復活委員会執行部幹部達、彼等はセイヤーズの能力に関して口を閉ざし、彼を守っている。
 ローガン・ハイネも進化型1級遺伝子を持っているが、こちらは全くタイプが違う。歳を取るのが遅い遺伝子だ。だから108歳のハイネの外観は50代前半、体調が良ければ30代後半に見える。そして、この男はずば抜けて頭が良い。応用力が半端なく優れていて、学習すれば直ぐに記憶するし、覚えたことを発展させて考えることが出来る。さらに(これがケンウッドの悩みどころなのだが)好奇心が強くて新しいものを見ると直ぐ触りたがるし、覚えてしまう。セイヤーズとは違った意味で危険な男だ。彼の危険値はS5。ドームの外に子孫を残してはいけないランクだが、軍の管理にはならない。だがケンウッドは、セイヤーズよりハイネの方が危険だと思う。セイヤーズは能天気だが、ハイネは相手の裏をかくのが得意なのだ。

2021年3月15日月曜日

星空の下で     7

 ふとセイヤーズが目を向けると、ケンウッド長官と視線がぶつかった。

ヤバ・・・長官を話題にしていることがわかったかな?

 目を逸らすのも失礼なのでニコッとして見せると、長官が端末を出して何か叩いた。するとセイヤーズの端末にメッセが入った。見ると長官からで、同席の許可を求めてきたのだった。セイヤーズはゴールドスミスに画面を見せた。ゴールドスミスは一瞬目を見張ったが、すぐに頷いて受け容れを示した。セイヤーズは長官に向き直り、笑って見せた。
 ケンウッド長官はトレイを持って移動して来て、ゴールドスミスの隣の席に着いた。

「折角の寛ぎ時間に割り込んですまないね。」

と気さくな長官が謝った。セイヤーズとゴールドスミスは銘々に首を振り、セイヤーズが言った。

「来月の長官のサンダーハウス訪問のヘリの手配を頼んでいたんですよ。」

 ゴールドスミスも頷いた。

「10日と13日は空いてますから、時刻が決まり次第教えて下さい。」
「有り難う。天候によるが、急ぐ用事ではないので朝が早いことはないと思うよ。」

 ケンウッドはテーブルの周囲にそっと目を走らせてから、さりげない風を装って囁いた。

「今日はハイネが世話になったね、ピーター。有り難う。」

 え? と言う表情をセイヤーズが見せた。まだゴールドスミスから午後の出来事を聞かされていないのだ。ケンウッドは彼が局長秘書であることを思い出した。彼には教えておいた方が良いだろう。黙っていてもこの男には服の上からでも他人の筋肉の動きがわかる。明日ハイネが職場に出勤したら歩き方で異常を察知する筈だ。

「お昼にハイネが怪我をしてね、ヤマザキ博士とここにいるピーターがアパートに救援に行ってくれたのだよ。」
「怪我?!」

 思わずセイヤーズは声を上げてしまい、慌ててナプキンで口元を抑えて食べ物が喉につかえて咳き込む芝居をやってのけた。周囲のテーブルにいた人々がチラリとこちらを見たが、すぐに関心を失って食事に戻った。
 ゴールドスミスがセイヤーズに囁いた。

「キッチンで足を滑らせて、骨折なさった。幸い綺麗な折れ方だったので、ヤマザキ博士の応急処置で歩けたんだ。今はアパートに戻っておられる。明日も普通に仕事が出来るそうだ。」
「なんでキッチンで・・・?」

 セイヤーズは自分で料理をする数少ないドーマーだ。局長が台所どころか家事一切の経験がない人であることぐらい知っていた。ケンウッド長官がちょっと笑うのを堪えた表情で説明した。

「慣れないクセに料理に挑戦して、油跳ねに驚いたんだそうだ。慌てたもんだから、フライパンをひっくり返すわ、油を溢すわ、で足を滑らせたんだよ。幸い無理に動かずにじっとして救護を待っていたので、応急処置で歩けるようになった。明日からの業務自体に影響はないが、休憩時間は静かにしているよう、秘書の君が見張っていてくれないかね。」
「わかりました。」

 セイヤーズは常に冷静で威風堂々としている局長が滑って転ぶ姿が想像出来なくて、ちょっと困惑した表情で応えた。

「私がここで初めて知ったと言うことは第1秘書のキンスキー・ドーマーも知らないと思って良いですか? 彼は必ず情報共有をしてくれるので、私に連絡がないと言うことは彼にまだ医療区から連絡がないと思って良いですね。」
「そうだね。もしかするとハイネ自身が連絡を忘れているのかも知れない。明日の朝に伝えれば良いと思っているのだろう。」

 ゴールドスミスがクスッと笑った。

「局長本人から言い出すのも気後れなさるかも知れません。今のうちにキンスキー・ドーマーに教えておいた方が良いと僕は思いますよ。秘書が医療区や長官から情報をもらったのであれば局長も文句言えないでしょうし。」

 そうだな、と長官と秘書が同意した時、当のアルジャーノン・キンスキーが食堂に入って来るのが見えた。セイヤーズは同席している二人に断って席をたつと、彼の方へ歩いて行った。


2021年3月14日日曜日

星空の下で     6

  夕方、ピーター・ゴールドスミスはドームの一般食堂で友人のダリル・セイヤーズと夕食を取っていた。セイヤーズは年上で遺伝子管理局の局長第2秘書だ。一般のドーマーから見れば雲の上のお偉いさんになるのだが、セイヤーズは平の局員時代と全く変わらない気さくな人柄のままで、執政官やその他のコロニー人、ドーマー幹部達が主に使う中央研究所の食堂には行かずに一般食堂でしか食事をしない。彼は8年前、FOKの幹部と銃撃戦で負傷した折にゴールドスミスの機転で救われた。以来、この静音ヘリのパイロットに友情を抱いている。それにセイヤーズの一人息子ライサンダーも偶然の出会いでゴールドスミスと親友になった。
 航空班の人間は普段ドームの外にある空港ビルの寮で寝泊まりしているので、2人は滅多に会えない。だからパイロットがドームの中に戻って来たと連絡を受けると、セイヤーズは恋人のゴーン副長官とのデートをキャンセルして(彼女はちょっと怒って見せたが、許してくれた。)男同士のデートとなったのだ。
 ゴールドスミスはドームと支局を往来する物資・資料運搬の仕事が主だ。人間の輸送は緊急の場合か特別な要人の場合のみだ。その日は早朝に首都へ飛んで国防相の役人を迎えに行き、昼前はその人をまた首都へ送った。執政官ピッツバーグが犬に追いかけられたのを助けたのは、その帰りだった。
 セイヤーズはピッツバーグの災難を聞かされて涙が出るほど笑い転げた。周囲のテーブルの人々が振り返ったので、彼はナプキンで涙を抑えて、「面白いジョークだね」と誤魔化した。執政官に恥をかかせては気の毒だ。日頃上から目線でドーマー達、あるいは地球人を見ているコロニー人が些細なことで失敗する話は愉快だ。勿論、笑って良いのはそのコロニー人の身に危害が及ばなかった場合に限る。そして著しく名誉を傷つけられないことだ。小犬に追いかけられた程度なら笑える。噛まれていないのだ。

「でもピッツバーグ博士は良い人だからね。犬だって吠えただけだろ?」
「犬にそんなことはわからないだろうけど、噛みつかなかったから、博士が悪い人だとは思わなかった筈だ。」

 その時、ゴールドスミスは食堂にケンウッド長官が入って来るのを見た。長官は中央研究所の食堂より一般食堂の方が好きなので、時間が許す限りこちらで食事をする。大概はハイネ局長かヤマザキ医療区長が同伴している。今日はヤマザキは午後も当直で夕食は遅くなる。ハイネ局長は怪我をしたが、恐らく食事はアパートに近い中央研究所の方だろう。アイダ博士が当直なので落ち合って食事をする時は向こうの食堂だ。
 だからその夜ケンウッド長官は一人だった。ドーマー達はこの優しい長官が大好きなのだが、流石にドームのトップに手招きして同席させるのは気が引ける。目が合うと好意的な微笑みを浮かべて軽く挨拶する程度だ。長官も慣れているので空いたテーブルを見つけると一人で食事を始めた。

「仕事の話になるけど・・・」

とセイヤーズが言った。

「長官の次のサンダーハウス行きが来月の10日に決まった。チャーリー・チャンから静音ヘリの手配を頼まれた。君の都合はどうだろう?」

 チャーリー・チャンは長官の第1秘書だ。コロニー人で遺伝子学者ではなく火星の金融会社で働いていた男で、ただ面白いことに眼科医の資格を持っているので地球人類復活委員会に採用されたのだ。秘書として働き始めてからは医療活動は一切しておらず、勿論、そんな暇はないので、ドーム行政の一端を担って活躍している。ドームでは「秘書会議」と呼ばれる会合が月に数回開かれる。以前は遺伝子管理局の秘書達だけの会議だったが、ケンウッド長官が自分の二人の秘書を参加させたところ、地球の社会情勢がわかりやすいと好評だった。それを聞いた他の執政官達の秘書達も希望して参加が増えて、今では大きな会合となっている。セイヤーズは局長秘書なので会議の運営委員をしているのだ。そんな訳で、長官のスケジュールもしっかり把握していた。
 ゴールドスミスは端末のスケジュール表を眺めた。

「10日は空いている。でも11日は予約が入っているから、もしお泊まりなら迎えを別のパイロットに頼んでくれないか。」
「13日はどうだい? 多分、長官は3泊される。いつものパターンだ。1日目と2日目は研究、3日目はシュリー・セッパー博士とデートだ。」

 最後の部分をセイヤーズは小声で言った。長官のプライバシーだ。あまり大声で話せなかった。ゴールドスミスはニヤリとした。ケンウッド長官と54歳も年下のセッパー博士の交際は、地球人同士ならスキャンダルになるだろうが、宇宙では珍しくないそうだ。その証拠にサンダーハウスでは誰も問題にしていない。ドームで秘密にされているのは、ドーマーに知られたくないのではなく、執政官に知られたくないからだが、それはセッパー博士の両親が地球人類復活委員会の本部に務める委員であって、ケンウッド長官とヤマザキ博士の大親友だからだ。彼等を知るドーム勤務者の中には、友人の娘と交際する長官に意見したがる者もいるので、出来るだけ話題にしないように心がけなければならなかった。
 ゴールドスミスは何度かサンダーハウスへ執政官や長官の送り迎えに飛んだことがある。あちらでは待ち時間に実験農場の中を散歩したり、宿舎の娯楽施設でゲームをして過ごす。セッパー博士は時々ドーマーのパイロット達の相手をしてくれる。まだ24歳になったばかりで少女の様に瑞々しい美しい女性だ。ゴールドスミスは彼女の母親のキーラ・セドウィック博士をあまりよく記憶していないが、彼をドーマーに選んでくれた人だと知っている。つまり、彼が誕生した時に取り上げてくれた人だ。ドーマーにとっては「母」になる。だからゴールドスミスはセッパー博士を妹の様に感じていた。彼女が父親と同年齢の男性、パーシバル博士は晩婚だったから、地球人の尺度で見れば祖父と変わらない年上の男性を愛しているのがちょっと不思議なのだが、ケンウッド博士の人柄を知っているので、それも無理からぬことだと納得もしている。

「長官もそろそろ覚悟を決めて、彼女を妻に迎えれば良いのにな・・・」


星空の下で     5

 「ハイネが脚を折った?!」

 ケンウッド長官は危うく手にしていたペンを落とすところだった。自署が必要な書類の山を片付けている最中に長官室に現れたヤマザキ医療区長が「内密の話がある」と言って秘書達を退がらせた直後だ。

「大した骨折じゃない。」

とヤマザキがのんびりした口調で言った。

「綺麗に折れていたから、固定して大人しくしていれば2、3ヶ月で完治する。幸い開放骨折じゃなかったから、切創もない。本人も折れた瞬間にヤバイと感じて動かずに僕を待っていた。」
「一体どんな状況でそんな怪我をしたのだ? 今日は彼の休日で一日アパートにいると言っていたが・・・」

 遺伝子管理局も週休2日制を採用した。ドームの外の生活に合わせていく為だ。だから幹部達も交代で休日を取る。その日はハイネ局長と第2秘書ダリル・セイヤーズが休みを取っていた。ヤマザキは診察室でハイネから聞き出した事故の経緯を説明した。

「今日はサヤカが仕事で留守だったので、ハイネは自分で夕ご飯を作ろうと思い立ったそうだ。あのナイフも持てなかった爺さんが、愛妻の為に飯の支度をして彼女を喜ばせようと考えたんだよ。」
「健気じゃないか。」
「まぁね・・・それで練習をしようと、昼になってから端末からレシピを引っ張り出して、野菜を刻んで炒めようとした。フライパンに油を入れて熱して、恐らく水滴でも入ったんだろう、油が跳ねたんだ。」
「火傷をしたのか?」

 もうケンウッドは腰を浮かせている。ハイネのことになると他のことが二の次になってしまうのだ、ヤマザキは苦笑した。

「火傷をしたが、それは大したことじゃない。水で冷やせばすぐ治る程度だ。だけど、爺さんは初めての油跳ねに火傷だからな、びっくりしてしまったんだよ。その拍子にフライパンをひっくり返して、床に落っことしてしまった。らしくないことをしてしまったハイネは、さらに彼らしくないことに慌ててしまって、床に溢れた油を拭き取ろうとモップか何かを探そうとして、うっかり油を踏んづけてしまったんだ。」
「滑ったのか・・・」

いつも冷静なハイネが慌てて滑って転んだ様を想像出来ない。ケンウッドは頭を抱えたくなった。ヤマザキが頷いた。

「滑って転倒して、弾みで骨を折った。幸い頭を打たずに済んだけどね。僕は昼飯から戻って午後の診療前に昼寝でもしようかと思っていた所に、彼から救援要請が入って驚いたよ。『ドクター、来てください、脚を折ってしまいました』だからね。」

 ケンウッドは自身が冷や汗をかいていることに気が付いた。ローガン・ハイネは若く見えるが実際は既に108歳だ。生まれてから100歳を超えるまでドームから出たことがなく、執政官の手で大事に育てられた秘蔵っ子のドーマーだ。火傷も怪我も経験したのは80歳を超えてからと言う、箱入り息子なのだ。

「サヤカが勤務明けにこの話を聞いたら、びっくり仰天するだろうな。」
「ハイネは彼女に叱られるかも知れないぞ。慣れない料理なんかに挑戦した結果の怪我だからな。せめて厨房班に簡単な料理を教えてもらってからにすれば良かったんだ。」
「それはハイネには出来ない相談だよ。」

 ケンウッドはやっと笑う余裕が出来た。ローガン・ハイネは厨房班司厨長のピート・オブライアンと毎日喧嘩するのが趣味なのだ。チーズの溶け方が気に入らないとか、野菜の茹で方が悪いとか、彩が良くないとか、大した問題でないことにいちゃもんをつける。オブライアンも無視すれば良いものを真剣になって相手する。しかし、実際は互いに楽しんでいるのだ。

「それで、医療区へはどうやって彼を運んだのだね?」
「運ばなかった。僕は彼の部屋へ行く途中に偶然航空班のヘリコプターパイロット、ピーター・ゴールドスミスと出会ったんだ。彼が世間話のついでに僕にくっついて来て、怪我をしたハイネを見てしまった。ご存知の通り、爺さんは若い連中に自分が弱っている所を見られたくない人だからね、インスタントギプスで脚の骨を固定してから、ゴールドスミスに付き添われて自力歩行で医療区まで行った。ゴールドスミスは局長の手助けが出来ただけで大喜びだったよ。帰りもハイネ一人で歩いて帰った。僕はアパートの入り口まで見送ってから、ここへ来たんだ。」

 やれやれ、とケンウッドは脱力した。近頃のローガン・ハイネは外に出ることを覚えて、少し以前より変わったことをしたがる傾向にある。それはそれで素晴らしいのだが、腕白坊主がそのまま大きくなった様な感じで、時々ケンウッドの意表を突く行動を取るのだ。

「サヤカと同居を始めたからと油断していたな。108歳になっても、男の子は男の子だ。」


星空の下で     4

  エレベーターを降りると、狭いホールがあって、ヤマザキはまっすぐたった一つのドアの前に立った。チャイムを鳴らすとドアがすぐに開いた。ヤマザキはゴールドスミスに小さく手を振って、中に入れと合図した。ゴールドスミスはアシスタントロボットと共に室内に足を踏み入れた。ちょっと緊張した。今迄この部屋に入った人間は、ケンウッド長官、ヤマザキ医療区長、パーシバル博士、故人となったペルラ・ドーマーだけだ。

 いや、最近アイダ博士がここに引っ越されたんだっけ・・・彼女はどこに?

 室内のインテリアは古いデザインの調度品が綺麗な瓶が並ぶ棚に囲まれていて、彼がテレビで見た昔の映画やドラマの中の風景に似ていた。噂によれば1世紀近くこのままだと言うことだ。レザー張りのソファに可愛い色合いのクッションが並び、動物の縫ぐるみがいくつか座っているが、これはアイダ博士の趣味なのだろう。
 ヤマザキ博士が声を出した。

「ハイネ?」
「ここです。」

 リビングの向こうのカウンターの後ろから声が聞こえた。カウンターの後ろはキッチンだ。全てのドームの居住区は同じ間取りだ。広いか狭いかの違いがあるだけで。
 ヤマザキとゴールドスミスはカウンターの後ろへ回った。床の上にローガン・ハイネ遺伝子管理局長が座り込んでいた。背中をカウンターにもたれ掛け、左脚を手で抑えている。ゴールドスミスは床の上に液体が広がり、強いニンニク臭を嗅ぎ取った。液体は油だ。彼の判断では、オリーブオイルに違いない。さらに床の向こうには平鍋が転がっているのだ。油の広がる形状を見て、彼は思わず呟いた。

「油で足を滑らせたんですか?」

 ヤマザキが彼を振り返った。ちょっと肩をすくめて見せて、ハイネに近づいた。ハイネ局長はドーマー達にとって見慣れない服装をしていた。恐らくヤマザキにとっても同じだろう。

「エプロン姿と言うことは、君は料理をしようとしていたんだな。」

 ハイネは脚を掴んでいない方の手に端末を持っていた。それを使ってヤマザキに救助要請を出したのだ。

「自分で走査して、脚の状態を確認しました。骨が折れています。」

と彼は報告した。ヤマザキは彼の手を脚からどかせて自分の端末で走査した。

「左脛骨を骨折しているな。 料理をしていて、なんで脚を折ったんだ?」

 彼がさらに端末を操作すると、ゴールドスミスの背後でアシスタントロボットが体内から救急キットを出した。ゴールドスミスがそれをヤマザキに手渡すと、ハイネが尋ねた。

「何故君がここにいるのだ、ピーター?」
「偶然だよ。」

 ヤマザキが短く答えて、素早くチューブ状の容器を取り出し、ハイネの脚に服の上から泡状のものを搾り出した。ゴールドスミスはそれが何か知っていた。航空班でも救急キットの使用を訓練するのだ。チューブの中身はインスタントギプスだった。本格的な診療を受けるまでの応急処置だ。
 ゴールドスミスはちょっと感激していた。彼は遺伝子管理局の局員達と一緒に仕事をする機会が多いが、局長や秘書と言った幹部クラスの人間とは接点がない。10年近く前にたまたま現在の局長第2秘書ダリル・セイヤーズを乗せて出かけた先で偽テロリストグループ、実際は子供を攫って人体実験をしていた殺人グループFOKのリーダーを逮捕する大手柄を立てたことがあり、その時に局長から感謝とお褒めの言葉をもらっただけだ。だから局長が彼の顔を見てすぐに彼の名前を思い出してくれたことが嬉しかった。
 そのハイネ局長は骨折から来る苦痛で額に脂汗を浮かべているが、表情や口調はいつもと変わらぬ冷静な「ドーマーの神様」のままだった。
 ヤマザキはさらに走査を行い、ハイネの手に小さい火傷を二つばかり見つけた。それから衣服の汚れから、彼はこの狭いキッチンで起きた事故を推測した。しかしその推理をここで披露することは止めた。若いゴールドスミスの前で誇り高い老ドーマーの失敗を語ってどうする?
 彼はハイネに尋ねた。

「骨を固定した。多分医療区まで自力で歩けるとは思うが、スレーを呼ぼうか?」

 ハイネは戸惑う表情を見せた。スレーを呼べば事故の噂がアッと言うまにドーム内に拡散する。しかし一人で医療区まで歩いて行く自信がなかった。(誰だってそうだが)彼は初めての骨折を経験して、少し弱気になっていた。
 ゴールドスミスは大先輩の躊躇を理解した。彼は寝室のドアを手で指して提案した。

「着替えをして下さい。僕が付き添って歩きます。世間話をしながら散歩するふりをして行きましょう。」


2021年3月13日土曜日

星空の下で     3

  ピーター・ゴールドスミスが医療区の端を抜ける近道を歩いていると、後ろから早足でやって来る足音が近づいて来た。彼が道を空ける為に脇へ寄ると、後ろから来た人が声をかけて来た。

「有難う、ピーター。今日は休みなんだね。」

 ゴールドスミスが心から尊敬する数少ないコロニー人、医療区長のヤマザキ・ケンタロウだった。決して小柄ではないのだが、東洋系なのでヨーロッパ系のゴールドスミスと並ぶと小さく見える。しかし人間がデカイので、相手に馬鹿にされるような気配は全くない。
 ゴールドスミスは医者がアシスタントロボットを引き連れているのを見た。

「往診ですか、ドクター?」
「うん。」

 急いでいるのか、ヤマザキは自分より大股で歩くゴールドスミスを追い越そうとしていた。

「こんな場合、どうしてドームには乗り物がないのか、恨めしく感じるね。」

と言いつつ、彼はせっせと足を運んだ。ゴールドスミスは突然興味が湧いた。ドームの中で感染性の病人が発生するのは滅多にないことだ。それは入り口で入って来る全ての物、人間が念入りに消毒されるからだ。したがってドームの中の患者は、持病を抱えたコロニー人か、仕事中に怪我をしたドーマーだ。しかしコロニー人の執政官はほぼ全員が医師免許を持っている。それぞれ専門はあるだろうが、心臓発作や血管性の発作の応急処置などは出来る人々だ。医療区から医師を呼ばなくてはいけない急病人とは? ゴールドスミスは自分に手伝えることはありませんか、尋ねてみた。ヤマザキは横に並んで離れないパイロットを横目で見た。

「君がこの中でヘリを飛ばせたら良いのにな。」

 だが付いて来るなとは言わなかったので、ゴールドスミスはそのまま彼と一緒に食堂を通過して、中央研究所を通り過ぎ、居住区のアパートが並ぶ区域に入った。

「輸送班の反重力スレーを使えないんですか?」
「そんなのを使ったら、ドーム内が大騒ぎになる。患者が嫌がるだろう。」

 ヤマザキが妻帯者用アパートの入り口に入ったので、ゴールドスミスも付いて入った。エレベーターに乗ると、ヤマザキが呟いた。

「最上階。」

 それを聞いてゴールドスミスは驚いた。妻帯者用アパートの最上階には一家族用の部屋しかない。そこに誰が住んでいるのか知らない者がいたら、ドームではモグリだ。

「局長に何かあったんですか?」
「あったから今向かっているんだ。」

 ヤマザキは初めて彼にまともに顔を向けた。

「噂にして欲しくなかったから、君が付いて来るのを許した。ここまで付いて来た以上、これから手伝ってもらうぞ。そして僕が良いと言うまでは口外しないでくれないか。」

 ゴールドスミスはヤマザキに信頼してもらえるのだと思うと嬉しくなった。

「わかりました。手伝わせてください。」



星空の下で     2

 サンダーハウスは実験農場だ。広大な敷地に畑や放牧場があって麦や野菜、牛や羊を育てている。その敷地の周囲に等間隔に打ち込まれた細いポールの先端から空中に放電された電気が空中のウイルスやバクテリアを殺し、あるいは汚染物質を分解して大気を綺麗にする実験だ。この試みの難しさは、地球上の生態系に影響を与える電力を放出しないよう気をつけなければならないことだ。その為科学者達は常時空気中の天然の電力状態を測定し、気温、湿度、その他の多くの数値の変化を捕捉していなければならないのだ。
 研究者達は地球人とコロニー人。リーダーは地球人のロバート・ジェンキンス博士で、しかし資金の8割はコロニーから出ている。宇宙開拓にもサンダーハウスの実験で得られる数値は重要かつ価値あるものだから、企業が投資しているのだ。だからコロニー人の研究者が半数を閉めても不思議ではない。彼等は地球人側の研究者達からの勧めで積極的に実験農場がある地域の住人と交流を行なっている。地球人保護法と言う面倒臭い法律の改正は彼等にとって大きな励みとなり、また救いでもあった。何しろ街中で自由に買い物したり遊べるからだ。研究生活のストレス解消に、彼等は地元民のスポーツチームに参加したり、文化交流会に加えてもらって楽しんでいた。
 ドームのコロニー人研究者達にとってもサンダーハウスは魅力的な場所だった。街中で見かけるコロニー人の多くは観光客か貿易商だ。しかしサンダーハウスへ行けば、アカデミックな会話が出来る。出身コロニーが同じ者同士でクラブも創れた。
 地球人の女性を生み出す研究が一つの終止符を打った後のドームは、それまで研究用に育てていた地球人、ドーマーと呼ばれる人々を地球社会に返す研究に転向した。清浄な空気や水で育てた地球人達を、まだ汚染物資が多く残るドームの外に戻す為に、いかに健康的で社会に適合出来る復帰をさせるか、それを探っている。同時に外の地球人達の健康を守ることに貢献もする。執政官と呼ばれる博士達はドームの外の医療機関にコロニーの医療技術を教えたり、治療困難な遺伝性疾患の患者の受け入れを行なっている。ドームは今や巨大な医療施設となろうとしていた。

 ゲイリー・ピッツバーグは地球人類復活委員会が採用した最後の学者グループの一人だった。まだ若くてコロニーも生まれ育った火星第3コロニーを含めて3箇所しか行ったことがない。多種多様な自然形態を持つ地球が珍しくて仕方がないのだ。だからサンダーハウスへ研究補助の役目で出かけるのが嬉しくて、ついつい羽目を外してしまう。今回も見知らぬ動物に迂闊に手を出すなと言う基本的な注意を忘れてしまったのだ。
 ゴールドスミスはピッツバーグより10歳は若くて、執政官にそれなりに敬意を払っていたし、執政官はドーマーの親である、と言うお約束も守っていたが、内心はちょっと見下していた。航空班の彼は成人するとすぐにドームの外での勤務に就いて、ドームの内側で働く同胞より世間に通じていた。それに自然の猛威も経験していたし、人間以外の生物にだっていっぱい遭遇していた。だから、機械と人工の世界で育ったコロニー人が「親」であることに疑問を抱いていたし、地球世界に無知なことを承知していた。そしてそれ以上に、相手が尊敬出来る人柄であるか否か、彼自身の視点で判別していたのだ。若いピッツバーグは、ゴールドスミスの目から見れば、「まだ子供」なのだった。
 ピッツバーグの体調が正常に戻ったと判断したキャロル・ダンストが、もう行くわよ、と言ったので、ゴールドスミスは蒸留水の礼を言った。多忙なドーム空港長は手を振って医務室から出て行った。
 ゴールドスミスも自身の荷物を手に取って、ピッツバーグを見た。

「帰りますか?」
「うん・・・」

 ピッツバーグも立ち上がった。空港職員が拾ってくれた鞄を手にして、歩き始めた。診療室にいた医師と看護師にも挨拶して、2人は外に出た。

「人生で最速のスピードで走ったなぁ。」

とピッツバーグが呟いて、2人は笑った。彼等はドームゲイトに向かっていた。

「今回の細菌の数はどうでした? 多かったですか?」
「季節的に空気が乾燥していて、バクテリアよりウィルスの数が多かった。インフルエンザの小規模な流行があの地方で見られるから、サンダーハウスではウィルス対応の電力計算をしているところだ。しかし空気中の埃も多いので、かなり困難だな。」

 ゴールドスミスには科学的な話はよくわからないが、ピッツバーグの説明は理解しやすかった。

「あちらでインフルエンザが流行っているんですね。」
「うん。重症者はいないらしいが、新型ウィルスでね、旧型のワクチンは効かないことはないが、効力が薄いそうだよ。下火になるまで『通過』未経験のドーマーはあっちへ行かない方が良いな。」

 多分、よほどの用がない限り、ドーマーが行くことはないだろう、とゴールドスミスは思った。サンダーハウスがある地方はドームから航空機で1時間かかるし、保養所や研修施設がある訳でもない。執政官の護衛に付く保安課員は研究施設から出歩かない。
 やがてゲイトに到着した2人は入り口のチェックカウンターで最初のID確認と持ち物検査を受け、消毒の為の空間に入って行った。


 

星空の下で     1

  ドーム空港ビル支配人キャロル・ダンストは水が入った蓋付カップを持って空港医務室へ急いだ。医務室にも水はあるが、今回は蒸留水でなければならない。ドアを開き、中にいた医師と看護師に頷きかけ、奥の休憩室に入った。
 ベッドに2人の男が腰掛けており、一人はもう一人に寄りかかって大きく喘いでいた。口には携帯酸素吸入器が押し当てられている。寄りかかられている男は、喘いでいる男の背中を優しくさすっていた。
 ダンストが入って来るのを見て、彼は喘いでいる男に優しく声をかけた。

「水が来ましたよ。」
「有難う・・・。」

 喘いでいた男は酸素吸入器を口から外して、体を起こし、ダンストからカップを受け取った。

「ゆっくり飲んで下さい。」

とダンストも柔らかな声音で話しかけた。男は頷いて、カップの中の冷たい水を口の中に流し込んだ。見守る室内の2人に、彼は水を飲み込んでから、フッと息を吐いて微笑みかけた。

「楽になったよ、有難う。」

 付き添いの男が少し非難めいた口調で言った。

「全力疾走なんかするからですよ。」
「だって・・・向こうも全力疾走で追いかけて来たんだよ。」

 ダンストが笑った。

「でも、チワワでしょ?」

 付き添いの男が頷いた。そして手で空中に追跡者の大きさを示すポーズを作った。

「うん、こんな小さいの・・・」
「走ると追いかけて来るものなんです、犬は・・・。」

 ダンストは可笑しくて堪らないようだ。

「コロニーにもいるんでしょ、犬?」
「いるけど・・・僕のコロニーで犬を放し飼いにするのは犯罪だよ。」

 ダンストとピーター・ゴールドスミスは顔を見合わせて、肩を竦め合った。地球でも公共施設内で犬の放し飼いは禁止だ。しかし、「犯罪」ではない。法律違反ではあるが、罰金を課せられる程度で、犯罪扱いされるのは実際に犬が人に害を与えた場合だけだ。
 コロニー人の細菌学者ゲイリー・ピッツバーグは、航空機から降りてドームのゲイトに向かって歩いている途中、小犬に出会したのだ。飼い主から離れて走って来たチワワと目が合った彼は、犬を撫でようと体を屈めた。しかし、犬が吠えたので、威嚇されたと思い込み、逃げたのだ。すると犬が追いかけて来たのだ。ピッツバーグは必死で走って、追い詰められて、偶然通りかかったピーター・ゴールドスミスに助けられた。ゴールドスミスは立ちすくんでしまったピッツバーグの前で吠えていたチワワを抱き上げただけだったが。
 重力がある地球で全速力疾走した為に、ピッツバーグは激しい酸欠状態に陥ってしまい、チワワを同じく追いかけて来た飼い主に返したゴールドスミスは、コロニー人を空港事務所の医務室に案内したのだ。
 ピッツバーグとゴールドスミスは初対面ではない。同じドームに住んでいる執政官とドーマーだ。それにゴールドスミスは輸送班・航空班所属の静音ヘリコプターのパイロットだ。執政官が近距離の外出の場合に送迎するのが仕事だ。親しくなくてもピッツバーグとは数回出かけて顔なじみだった。

「それで、今日はどこにお出かけだったんですか?」

 ピッツバーグはもう一口水を飲んでから答えた。

「サンダーハウスだよ。空気中の細菌の数を数えに行ってた。」


2021年3月11日木曜日

ブラコフの報告     12

 取り敢えず、僕の報告はここまで。

え? ケンウッド先生やパーシバル一家の現状はって? 


はっはっ! それは後のお楽しみ・・・じゃね!

ブラコフの報告     11

  ドーマーの社会復帰計画の第1歩として保養所設置が行われたのは、地球人保護法改正のすぐ後だった。ローガン・ハイネとジョアン・ターナーの2人のドーマーのリーダーが考えに考えて、選考した維持班のドーマーと、外に出て暮らしている元ドーマー達が昔の学校跡を改築して宿泊施設とリハビリ施設を備えたアスレチック会場を造った。このプロジェクトにはコロニー人も加わったし、一般の地球人も参加させた。ドーマーだけでは、周囲の住人とトラブルが生じた時に対処するのが面倒だからね。それにアスレチック会場を入場料を取って一般に解放して維持費の足しにすることも必要だった。
 保養所とは名ばかりで、外へ労働に出されるだけじゃないか、と愚痴るドーマーもいたことは確かだ。だから、このプロジェクト参加は強制ではなく、選択制だった。やはり30代から下の若い連中の参加が多かった。歳をとると、みんな大気が怖かったんだ。ハイネが外に出る訓練を始めたのは、そんな尻込みする連中を励ます目的もあった。
 ハイネが抱えている問題は、単に抗体がないだけではない。彼の肺はγ黴によるダメージを受けたことで空気中の異物を普通の人ほど上手く防げないことだ。例えばちょっとした焚き火、枯れ草とか燃やして生じる煙を吸い込んだら、僕らは咳き込むけど、煙のない位置に移動して暫くすれば咳は治って後は全く問題ない。だけどハイネはその煙の粒子が肺の細胞に与えるダメージを修復出来ない。生命に別状がないと言っても、本人は普通の人の数倍の時間咳に苦しめられる。ドームの中の清浄な空気の中でジョギング出来ても、ドームの外の自然の空気の中で散歩することは苦行になるんだ。
 そんな呼吸器に問題を抱えるハイネがマスクを着けて外に出る。それだけで外の世界に尻込みしていた若いドーマー達は勇気付けられて、冒険に出ようという気分になるんだ。

 ドーマーの社会復帰訓練は保養所だけじゃない。様々な施設に「派遣」とか「研修」と言う形でケンウッド先生はドーマーを外に勉強に出した。執政官の中には、ドーマーがそのまま外の世界に住み着いて帰って来なくなったら、ドーム内の労働力が弱体化するのではないかと心配する人もいた。新しいドーマーの採用人数を年ごとに減らして行っているからね。だから、維持班では、減ったドーマーの数だけ、外から民間人を雇用している。全く驚くだろ!
 遺伝子管理局や出産管理区の新生児室、クローン製造部はまだ民間人を受け容れられない。でも輸送や妊産婦の世話をする係は外の人も働かせることが可能だ。ジョアン・ターナー維持班総代は毎日新規採用の基準や配置を考えるのにエネルギーを費やしているそうだ。
多分、大好きな木工をやる時間を取れていないんじゃないかな。ケンウッド先生が彼に「行ってみたい場所はあるかね?」と聞いた時、彼は「木造の船を作っている現場を見学したい」と言ったそうだ。先生が「休暇を取って行っておいで」と言ったんだけど、彼はまだ当分長期休暇を取れそうにないね。

「黄昏の家」の住人には外の世界はもう異界だろうね。エイブ・ワッツは若い頃からドームの外で作業していたから平気だけど、他の老人達は外に出たことがないし、もう抗原注射も出来ない。彼等は社会復帰プロジェクトも無関心だけど、たまにワッツがハイネの誘いで散歩(勿論、ヤマザキ先生かケンウッド先生が付き添うんだけどね)に出かけると、帰ってきたときに質問攻めにするそうだよ。ハイネもワッツも空港ビル内かドーム周辺の花畑しか歩かないんだけど、老人達は植物や人の動きを知りたがるんだって。ただ、民間人が散歩している彼等を見て、ワッツがハイネやケンウッド先生の「父親」だと勘違いした、と言う話は大受けで、ドーム中にあっという間に拡散しちゃった。ワッツはハイネより10歳年下だよ。(笑

 保安課はドームの守備が仕事で、保養所の警備システムのメンテなどは担当するけど、基本的に外のドーマーの警護はしない。地球社会に慣れていない執政官が外出する時の護衛をするだけだ。それでもやっぱり外の法律や習慣は知っていないといけないから、ゴメス少佐は勉強会を開いて、若い連中と一緒に法律家先生の下で学んでいる。あの人も大した人間だ。彼ほどの優秀な軍人は、プライドも高いから新しいことを受け入れるのに抵抗を感じることもあるだろうに、ロアルド・ゴメスは寧ろ積極的に最新の思想や習慣を学ぶんだ。それを自分のものにすると言う訳じゃなく、それにどう対処するかを学ぶんだよ。染まってしまうのは駄目だし、反発もいけない。外の世界は「敵」ではないからね。でも従属することはもっといけない。
 外の世界へ警護に出かける保安課員は楽しそうだ。油断するなよ、と一番の先輩のアキ・サルバトーレが指導役で彼等が外に出る前に必ずレクチャーする。サルバトーレはジェリー・パーカーの監視役としての役目が終了して(だって、パーカーにはメイ・カーティスって言う監視役が新たに付いたからね。妻ほど強力な監視役はいないだろう? 笑)今は主にケンウッド先生とヤマザキ先生の護衛をしている。ケンウッド先生はすぐ一人で出かけてしまうので、心配したゴメス少佐とハイネ局長が相談してサルバトーレを付けたんだけど、サルバトーレはかなり先生に振り回されているようだ。その点、ヤマザキ先生はお行儀が良くて、護衛もやりやすいようだ。但し、目的地が医療関係の場所に限られちゃうけどね。別にヤマザキ先生は堅物じゃない。この先生は火星に帰省すると遊びまくっているから(笑

 第2世代アメリカ合衆国の大統領は代替わりした。ハロルド・フラネリーは8年大統領職を務め上げて、今は元大統領として女性の社会活動を支援する団体を運営している。この団体には他の元大統領達も何かしらの形で関わっている。取り替え子の秘密を共有する人々が運営する団体って訳だ。女性がクローンだって事実が少しずつ社会に周知されていくと、やはり男性による横暴な振る舞いが出てくるんだ。それを防止する教育や対策を練る団体だ。クローンはお金を出してメーカーから買うものと思っている連中を、教育しないとね。
 それから取り替え子の男の子達を可能な限り幸福な人生に送り出す為に孤児院の整備も重要だ。ただの赤ちゃん斡旋所になってはいけない。
 たまに、女の子を得た家族が、本当の息子を探しに来ることもあるそうだ。だけど遺伝子管理局は安易に情報を渡せない。女の子の養育が将来どうなるのか、はっきりさせないといけない。もっとも実の子を探しに来ると言うことは女の子を望んでいないかも知れないと危惧する担当局員もいる。局員達は、外勤も内勤も合同で何度も話し合い、本当に親に情報を渡して良いか検討する。難しい問題だね。
 今の所、女の子を要らないと言った家族はいないそうだけど。




2021年3月7日日曜日

ブラコフの報告     10

  ケンウッド先生には長官時代もう一人秘書がいたことを覚えているかい? 

 そう、ヴァンサン・ヴェルティエンだ。彼は異色の執政官だった。遺伝子学者じゃなくて、文化人類学者だからね。彼はハナオカ氏が書記長時代に地球人類復活委員会に採用された。遺伝子研究以外にも委員会は人材を必要としていたから。でも殆どは機械関係の技術者とか薬学とか医療とか建築関係の技術者だ。文化人類学は理系が多い委員会のメンバーから外れているようにも思えるだろ? だがしかし、ハナオカ氏は地球の多様な文化が人口激減で消えていくのを惜しいと思った一人なんだ。彼自身は遺伝子学者だったから、文化の研究をする時間がない。だから、専門家を雇ったんだ。人件費を渋る理事会を説得して、5名採用したそうだ。その一人がヴァンサンで、彼はアメリカへ来た。そして副長官に就任したばかりのケンウッド先生の秘書として勤務を始めた。
 秘書の仕事は多忙だ。どの分野を専門としても、まず自分の研究をする時間は殆どない。でもケンウッド先生はハナオカ書記長の考えを支持して、ヴァンサンに重力休暇を与える時に、ちょこっと水増しで日数を増やしてやった。地球を旅していろんな文化を見て来いって訳さ。ヴァンサンは2人の上司の心遣いに深く感謝して、可能な限り地上を旅した。
 彼とは今でも親友で交信を週に何回か行なっている。彼は委員会を退職した後、専門分野に帰って、地球を巡っているんだけど、身分的には火星文化大学の人類学主任教授だ。彼の研究は決して地球だけに限ったものじゃない。宇宙にだって地球時代の文化が伝えられているし、そこから起きる異文化間の諍いなどを解決する緒を探ったり、相互理解の為のセミナーを開いたりしている。
 ヴァンサンは結婚したんだよ。お相手は同じ人類学者の木星出身の女性博士だ。彼女はアフリカの草原の民族を研究していて、アフリカ・ドーム遺伝子管理局長クワク・カササとは親しい友人だ。カササ局長はドームにはドーム特有の文化が生まれていると唱えている。伝統的文化を守ろうとドーマーに純血維持を強いてきた委員会のやり方を批判した人だ。
 消えゆく文化を記録しようとするヴァンサンと、新しく生まれる文化を見守ろうとする妻と友人、面白い組み合わせだろう?

 ヴァンサンは秘書生活が長かった。ケンウッド先生が長官に就任するとロッシーニと一緒に働くことになった訳だ。彼は僕にこっそり愚痴ったよ、ロッシーニが怖いってね(笑
秘書としてのロッシーニは真面目一徹だったし、真の顔は内務捜査班チーフだからね、ヴァンサンは机を接していて何か感じるものがあったんだろう。だけど、彼が困った時のロッシーニの援護ほど頼りになるものがなかったことも事実だ。ドーム行政でわからないことがあればロッシーニに聞け、ってな具合さ。そしてロッシーニはコロニー人のヴァンサンを立てることを忘れなかったから、難しい問題を解決したのはヴァンサン・ヴェルティエンだってみんなに信じ込ませることも出来た。
 ロッシーニ逝去の知らせを僕が送った時、ヴァンサンは僕に依頼した。

「ケンウッド長官に頼んでくれないか? ドームのどこかに歴代の長官秘書の名前を刻んだ銘板を設置して欲しいんだ。そこにドーマーの秘書の名前を忘れずに入れて欲しい。」

 彼はロッシーニの正体をリプリー同様に今も知らない。多分、彼は知りたくないだろうし、ロッシーニも望んでいないだろう。 

  ヴァンサンは僕が大怪我をして治療で火星にいた時、地球で副長官を勤めてくれた。彼は副長官と秘書の両方で名前を残せる稀有な人なんだ。

2021年3月6日土曜日

ブラコフの報告     9

  べサニーはこの報告で初めて名前が出てきた子だね。彼女は女性ドーマーだ。取り替え子になるはずだった男の子が誕生前に亡くなってしまったので、ドームに残された。代替の家族も見つからなかったので、そのままドームの養育棟で育てられたんだ。養育係の執政官が誰だったか僕は覚えていないんだけど、担当したドーマーの養育係はよく知ってる。先に報告したジャン=カルロス・ロッシーニだ。
 ロッシーニは子供達に英語を教えながら、彼女個人の担当を受け持っていた。執政官と2人で彼女の養育をしていた。そして執政官が慣例に習って静かに退官した後は独りで彼女の面倒を見ていた。だから、べサニーは彼と2人きりの時は、ロッシーニを「父さん」って呼んでいたそうだ。多分、ロッシーニがそんなことを教える筈はないから、執政官がそう呼ばせていたんだろうってケンウッド先生は推測している。
 女性ドーマーは成長したら殆どが出産管理区か医療区かクローン製造部で働く。職種は様々だ。男性ドーマーとそんなに変わらない。ただ、出産管理区の男性ドーマーが、特定の妊産婦と親しくならないように担当する職種を3つばかり持っていて、時間も複雑にローテンションを組んで働くのと違って、女性ドーマーは好きな仕事に集中出来る。選択職種が一つだけでも構わない。べサニーは、保安課を選んだ。これにはロッシーニが面食らったそうだ。彼は遺伝子学者の研究室で助手として働き、執政官の秘書になって、最後は長官秘書を勤め上げた。だからべサニーも同じような道を歩ませるつもりだった。こう言うところは、コロニー人も地球人も同じだね。親は子供が自分の後ろをついてくると思いがちだ。
 元気一杯、体力が有り余る少女を毎日ロッシーニは追いかけ回して机の前に座らせようとしたけれど、無駄だった。同じ養育棟で働く元局長秘書のジェレミー・セルシウスに、べサニーが望む道を歩かせろと忠告されて、やっと彼は折れた。
 べサニーはロッシーニが口を利いてくれたお陰で保安課の訓練コースを受講出来た。保安課にはレティシアと言う優秀な女性保安課員がいて、彼女がべサニーをみっちり仕込んでくれた。べサニーは長官の警護が出来るようになろうと頑張った。ロッシーニが長官秘書だったから、自分も長官の下で働きたかったんだ。その勇姿を育て親に見せたかったんだよ。
 でも彼女が一人前になる前に、ロッシーニは体調を崩してしまい、「黄昏の家」の住人になってしまった。べサニーはヤマザキ先生に頼み込んで、ゴメス少佐の許可をもらって、「黄昏の家」に通った。ロッシーニのそばについていてやりたかったんだ。ロッシーニの副官だったビル・フォーリーは養育係になってから若者達に囲まれて楽しく暮らしている。だけどロッシーニにはべサニーしかいなかったそうだ。ロッシーニ自身が、あまり大勢と一緒にいることを良しとしなかったのだろう。だからべサニーはロッシーニの晩年を殆ど独り占めした。大好きな「父さん」の看護をしたんだ。そしてロッシーニが、研究助手から秘書に取り立ててくれたユリアン・リプリー元長官に会いたがっていることを知ると、ケンウッド先生にリプリーを呼んでくれと懇願した。
 普通一度退官した執政官はドームに戻らない。仕事以外で戻ろうと思えば面倒な手続きが必要だ。だけどロッシーニには時間がない。ケンウッド先生は地球人類復活委員会のロバータ・ベルトリッチ委員長にリプリーが再びドームに入る許可の省略を要請した。そして話がわかる委員長ベルトリッチはリプリーに連絡をつけると、ロッシーニに会ってやってくれと頼んでくれた。
 人付き合いの悪いユリアン・リプリーがすぐに地球にやって来た。ケンウッド先生やヤマザキ先生と簡単な挨拶を交わすと直ちに「黄昏の家」に向かい、ロッシーニの部屋に入った。べサニーは気を遣って娯楽室でエイブ・ワッツや他の老人達と待機していた。でも最後の日に、リプリーが彼女を呼んだ。

「一緒にお父さんを送ってあげよう。」

 リプリーはべサニーをロッシーニの娘として認識したんだ。彼女は元長官と2人でジャン=カルロス・ロッシーニの旅立ちを見送った。
 リプリーが地球を再び去って、ロッシーニの葬儀が終わると、べサニーは保安課に正式に採用された。まだ新人だから外には出させてもらえない。だけど出産管理区で妊産婦の間で女性同士の暴力沙汰(あるんだよ、これが!)が起きればべサニーはすっ飛んで行って仲介に入るんだ。男性の保安課員じゃ相手の体に手を触れるのが厄介だからね。
 彼女の直属の上司で教育担当でもあるレティシアは、見込みのある弟子だとゴメス少佐に報告しているそうだ。少佐がそのことをバーでヤマザキ先生と飲んだ時に話すと、ヤマザキ先生が笑ってこう言ったそうだよ。

「間違ってもローガン・ハイネの護衛には入れるなよ。ハイネの爺さん、あれで結構女好きだからな、サヤカがいても油断しちゃダメだ。」



ブラコフの報告     8

  カップルと言えば、ポール・レインとJJ・ベーリングは結婚したんだよ。ちゃんと局長から婚姻許可をもらってね。そして2人は今中央アジアドームにいる。え? 驚いた?

 JJは女の子が生まれる羊水がちゃんと機能しているか検査する仕事をしているんだ。まだクローンを作り続けないといけないからね。それで地球上の各ドームを順番に廻っているんだよ。レインは彼女が普通の子供と違う育てられ方をしているから心配でさ、何かトラブルがあっちゃいけないってんで、彼女が地球人類復活委員会の執行部から直々に勅命を受けた時に、護衛も兼ねて一緒に行きたいとケンウッド先生に直訴したんだ。ドーマーを遠方に行かせるのは気が進まないケンウッド先生は困って、ハイネ局長に相談した。局長はあっさり「行かせておやりなさい」って答えたんだ。まぁ・・・ハイネらしいけどね(笑
 それでレインとJJは慌ただしく式を挙げて(ファンクラブの連中がどんなに嘆き悲しんだことか・・・爆笑)、セイヤーズとも固い抱擁を交わして、旅立って行った。あまりに早急だったんで、息子のライサンダーは結婚式に間に合わなくて、2人が帰ってきたら叱りつけてやる!って息巻いているらしい。
 レインの遺伝子管理局での席はまだあるけど、流石に班チーフは辞めざるを得なかった。彼の現在の身分は、南北アメリカ大陸ドーム遺伝子管理局特別捜査員だそうだ。

 レインの後を襲ったのはクラウス・フォン・ワグナーだ。パトリック・タンを副官に据えて、新チーフは張り切っている。タンの親友のジョン・ケリーはジェラルド・ハイデッカーが抜けた後のチーム・リーダーの一人として、こっちも頑張っているよ。ハイデッカーは外の女性と恋愛した訳じゃない。彼はタンブルウィード支局、通称中西部支局の支局長代理ブリトニー・ピアーズが3人目の子供を妊娠して、これ以上支局長代理を続けるのは無理だと聞いた時、自分から支局長候補に名乗り出たんだ。ここだけの話、ハイデッカーはサボテンが好きでね、サボテン専門の植物園を作るのが夢なんだ。だから、砂漠地方のタンブルウィードに魅力を感じたんだよ。夢が実現するといいね。

 みんなが人生上手く行っているとは限らない。
 

 ダリル・セイヤーズはどうも波乱に富んだ人生を歩む人らしい。彼とラナ・ゴーン副長官の結婚計画は暗礁に乗り上げている。ゴーンの2人の娘が反対しているんだ。彼女達は、母親が地球人と交際することは受け容れた。だけど、結婚となると話は別だ。
 彼女達は、クロエルを養子に迎えたいと30年以上前に母親が切り出した時は、大賛成した。クロエルは可愛らしかったし、彼女達の弟として年齢も丁度良かった。だけど、その弟と4、5歳しか離れていない男を父親に迎えられるか? 彼女達の本当の父親はまだ健在だ。再婚しているが、父親であることに変わりはない。だから、セイヤーズが母親の新しい夫となるのに、彼女達は難色を示したのだ。地球人はコロニー人と比較すると寿命が短い。だけど母親と親子ほども歳の差がある男が母親より先に死ぬとは考えにくい。母親に何かあった時、遺産分与はどうなるのか? 義弟クロエルに不利になりはしないか? それにクロエルちゃんが仕事仲間を「父」と呼べる?
 僕に言わせると、娘達が地球に降りてきて、セイヤーズに直接会って話し合えば良いのだ。そうすれば、彼がどんな素晴らしい男かわかるだろう。(僕は彼に会ったことがないけどね・・・)兎に角、母親が選んだ人をその目で見てみると良いんだ。それから反対か賛成か決めても遅くないだろう? 
 ヤマザキ先生はゴーン副長官が重力休暇を取りたがらないことを心配している。娘がいる火星に帰らなくても構わないだろう? 月とか、ちょっと足を伸ばして別のコロニーの友達のところとか・・・。
 友人のアイダ博士も気を揉んでいる。アイダ博士の子供達は母親がローガン・ハイネと再婚したことを気持ちよく受け容れた。まぁ、ハイネはコロニーでも凄い有名人だし、大勢の人々から尊敬されている。セイヤーズとは立場が違う。でも年齢はアイダ博士の父親と言ってもおかしくないし、歳をとるのが極端に遅い変な遺伝子を持っているし、ドームの外から出られない。普通の「父親」にはなれない人間だし、ドーマーだから親子関係をあまり理解していない。アイダ博士の娘は連邦政府の官僚で、スキャンダルは避けるべき立場だが、それでも母親が愛しているなら、とハイネを受け容れた。一般企業の社員として働いている息子は、ただ自慢出来る義父だと喜んだ。だから、アイダ博士は、ゴーンの娘達にセイヤーズと会うように勧めているところだ。
 アイダ博士の親友でゴーンとも仲が良いキーラ・セドウィック博士は、「ほっとけば良いわよ」と言うんだ。彼女と父親のローガン・ハイネも本当の親子として心が通い合うまで30年近くかかった。だから彼女は、ゴーン副長官も気長にセイヤーズとの愛を育めば、いつか娘達が折れると考えている。
 セイヤーズはゴーンがスキャンダルの主人公にならないように、今も控えめに交際しているんだ。ちょっと気の毒だけど、彼は能天気だから、キーラと同じ考えなんだ。
 セイヤーズと言えば、レインは彼の最愛の恋人だったのだけど、レインがJJと結婚して旅に出てしまったので、今は大概一人でいる。人気者だから孤独と言う訳ではないだろうが、仲が良いクロエルやクラウスが外に出かけると格闘技や球技の練習相手がいなくなるからね。彼は運動神経が半端なくよ過ぎるんだ。対等に闘えるのはハイネぐらいだけど、ハイネは若造の相手をしない。彼は目下ゴメス少佐を倒すことだけを目標にしているそうだ(笑
 それに、セイヤーズは現在ハイネの秘書をしているんだよ。意外だろ? ネピアがよく許したもんだ、と思うだろ?

 実は現在ネピアは新設された遺伝子管理局副局長に就任して、めっちゃ忙しいんだ。何しろ、それまで局長がやっていた仕事の半分が副局長の仕事になったからね。生死リストのデータ移行は今や内勤局員の分業仕事になった。ネピアは外勤務局員や内勤職員の報告書を読む仕事をしているんだ。報告書を読んで内容を分析して部下に新しい指図を出す。ハイネが才能で余裕を持ってやっていた仕事を、普通の人であるネピアは必死で毎日こなしているんだ。ネピアには新しい秘書が付いている。秘書が一人で足りているのは、ネピアの才能かな。秘書に手伝わせることはしないそうだよ。
 ネピアが副局長になったので、局長第1秘書はアルジャーノン・キンスキーが務めている。だから、セイヤーズは第2秘書なんだ。ハイネは今までしてきた伝統的な局長業務をほとんど全て部下に与えてしまい、今は全く新しい仕事に取り組んでいるんだ。つまり、ケンウッド先生の長年の夢だった「ドーマーの社会復帰」だ。ドームの外の世界、第2世代アメリカ合衆国の法律を勉強して、ドーマー達が巣立って行く為の手助けと準備をしている。先生と局長が一緒に過ごす時間が以前より断然増えて、僕は正直なところ、ちょっと嫉妬しているんだよ。(笑

 ハイネが外の世界を勉強するには、やはり外に出て実際の社会を見た方が良いだろう。と言う訳で、ヤマザキ先生はハイネを外に出す研究を始めたんだ。抗原注射を受けられない年齢になっているハイネが外の大気を呼吸するには、自然に抗体を作って行かなければならない。ヤマザキ先生は連邦軍が人間の生存不可能な天体で過ごさねばならない時もありうるだろうと考えた。それで特殊部隊出身のゴメス少佐に、そんな場合はどうするのか尋ねてみたんだ。少佐もヤマザキ先生の質問の目的を悟ったので、空気が十分にある地球で活動するなら重装備は必要がない、但し空気中の微生物を排除出来る濾過装置を繋げたマスクで外に慣れさせるところから始めればどうか、と助言した。

「宇宙船の船外活動みたいな装備をハイネに装着させて、人目につかない深夜にゲイトの外に連れ出したんだ。ハイネがものすごく及び腰だったのは言うまでもないがね。」

ってヤマザキ先生が笑っていた。ハイネは天然の風におっかなびっくりで、でも頰や手の肌に触れる風の感触にすぐ慣れたそうだ。それで、ヤマザキ先生は次に濾過機能が高いマスクを宇宙から仕入れて、ハイネに着けさせた。初日は10分間だったそうだ。ハイネはドームの中に戻って激しい咳の発作に襲われたけど、微生物が原因じゃなかった。心理的問題さ。緊張し過ぎたんだ。それにゲイトでの消毒にも慣れていなかったからね。2度目はケンウッド先生が付き添って半時間我慢した。空港ビル内をちょっと散歩したんだ。大勢の一般の地球人が活動する中を歩いたそうだ。

「彼は何も言わなかったが、ちょっぴり嬉しそうだったよ。」

ってケンウッド先生が僕に報告してくれた。だけど本当に嬉しかったのはケンウッド先生の方じゃなかったのかな。
 3回目はさらに大胆なことをしたそうだ。この時の付き添いはヤマザキ先生で、だから許可してもらえたんだと思うけど、ハイネは自販機でアイスクリームを購入した。なんでも、ネピアが空港ロビーの自販機のアイスが美味しいと教えたんだって(笑 アイスクリームだからドームに持ち帰れないだろう? だからハイネはマスクを外して、アイスを食べたんだ。ヤマザキ先生はアイスに微生物が混入していないか、こっそり端末で遠隔走査した。普通の地球人は所持している端末にその機能が入っていても使わないからね。ハイネはお腹を壊すこともなく、無事に数日過ごしたよ。今の所、外出は1時間が限度らしいけど、ローガン・ハイネは仲間のドーマー達と共に外の世界に踏み出そうとしている。僕はいつか彼が空港ロビーで僕を出迎えてくれる日が来ることを信じているんだ。



2021年3月5日金曜日

ブラコフの報告     7

  地球人保護法なる面倒で厄介な法律も少しずつ改正されつつあるんだ。以前は素手で地球人に触れただけで「違反」とされる極端な適用をされていたけど、それはやはりマズかろうと言うことで、ちゃんと刑事告発出来る行為に対してだけ適用されるように地球とコロニー政府で調整がなされている。それに伴って結婚に関する制限も緩和された。まだ地球人は自由に宇宙空間へ出られないけど、コロニー人と結婚した人は制限外の扱いだ。そして地球に配偶者がいるコロニー人は、コロニーに籍を置いたまま、地球と往来出来る。地球人の配偶者にもコロニーでの財産権が与えられるんだ。
 これはドームにも大きな変化をもたらした。ドーマーとコロニー人職員の恋愛が自由になったし、結婚も許可されることになった。だから当然・・・

 南北アメリカ大陸ドームでは早速3組のカップルが誕生した。中央研究所で働いていた執政官と助手のドーマー達だ。男女のカップル2組と男性同士のカップル1組。ケンウッド先生は結婚承認を行う役目をもらって忙しかったそうだよ。でもこんなめでたい忙しさは嬉しいよね。男カップルの執政官はパートナーを木星の親族に紹介したいと思ったんだけど、親族は地球まで来る時間がないと言って式への招待を断った。それで、執政官はドーマーを宇宙へ連れ出す手続きを取った。地球人類復活委員会始まって以来の出来事だったんだ!
 書類の手続きは問題なく進められたけど、別の問題が判明した。

 ドーマーは乗り物に乗った経験がない!

 そうなんだ、外勤務の遺伝子管理局員や輸送班、庶務班のドーマー以外は、三輪車にも乗ったことがないんだよ。だからヤマザキ先生は結婚したドーマーに乗り物のスピードに耐えられるか、ドームの壁の外へ連れ出して様々な乗り物に乗せて訓練を受けさせた。ドーマーが乗るのは宇宙船だから、乗ってしまえばスピードなんて感じないんだけど、その前後の乗り物に慣れてもらわないと心配だったんだな。で、男カップルは木星旅行へ出かけ、一月後に無事に帰ってきた。僕は偶々彼等と月で出会ってノロケ話を聞かせてもらった。乗り物酔いにかかったのは執政官の方で、ドーマーはケロリとしていたよ。(笑

 それから2ヶ月後に、ジェリー・パーカーとメイ・カーティスが結婚した。2人が交際していたことは周知の事実だったから、驚かなかったけど、パーカーはレインやセイヤーズと云った友人達に散々からかわれていたそうだ。2人の結婚式には、パーカーと姉妹同然のシェイも招かれて、彼女がご馳走を作って盛大なパーティーを開いたって・・・。パーカーもカーティスもそんな大袈裟な挙式は望んでいなかった筈だけど、何しろシェイの料理だろ? 周囲の連中の方が楽しみにして、盛り上がっちゃったらしい。式にはレインとセイヤーズの息子のライサンダーも幼い娘を連れて招待されたと言う話だ。

 なんとドームもすっかり解放されたもんだ!!

 結婚したカップルは、ドームの居住区の妻帯者用アパートに入居するか、外に住むか選択出来る。だけど今の所、4組共にアパートにいる。ドーマーは外の生活や大気に慣れていないし、パーカーはメーカー時代の柵をまだ引きずっているからね。
 もっともそろそろ空き部屋が減ってきたから、独身で妻帯者用アパートにいる人間は肩身が狭くなってきたようだ。クロエルは自分から独身者用に引っ越した。ゴーン副長官が母子で同居しないかと提案してみたそうだが、クロエルに笑い飛ばされた。立派に成人した血縁がない息子と、まだ若く見えるコロニー人の養母が同じ部屋に住むなんて、誤解されるだろう? それにクロエルはラナがセイヤーズと交際していることを知っている。(みんな知っているんだけどね。)デートの邪魔をしたくないだろう? 副長官はデートの為にと言う訳じゃないが、独り妻帯者用アパートに残った。幹部クラスの執政官は自室を会議室に使うこともあるから、広い部屋が必要なんだ。これは元副長官だった僕が言うのだから、間違いない。
 ヤマザキ先生も医療スタッフとの会議に部屋を使うから独りで広い部屋を使うことに問題ないけど、ケンウッド先生は気にして引っ越そうとした。でも結局引っ越さずに残っている。引っ越そうとしたら、エイブ・ワッツの指示を受けた輸送班引っ越し係が拒否したんだそうだ(笑 
 そして、ローガン・ハイネは遂に覚悟を決めてアイダ・サヤカ博士を最上階の彼のアパートに迎えた。壁一面にぎっしり並べられた酒のコレクションを見て、アイダ博士は卒倒しそうになったって笑っていた。2人がかなり以前からラブラブだったことは僕も知っていたけど、結婚していたと教えられたのは、このアイダ博士の引っ越しの後だ。多分、ドームの人々みんながそうだった。アメリカ・ドームで彼等が結婚していたことを知っていたのは、ケンウッド先生とヤマザキ先生だけだったからね。
 正直、僕はちょっぴり傷ついたよ。僕がハイネの大ファンだってことは、先生達も当のハイネも知っていた筈だ。どうして僕を除け者にするんだ? それも2人が結婚したのは僕がまだドームに勤務していた時だぜ。テレビ電話での会話が許可されて、僕がそのことで文句を言ったら、ハイネは「それで?」と返した。僕が怒る意味がわからないって。ケンウッド先生は月の執行部からドーマーと執政官の婚姻を口外しないよう固く口止めされていた。先生は忠実に理事会と最高幹部会の言いつけを守っただけなんだ。だから、僕が先生やハイネに怒るのはお門違いだってね。彼の少し緩やかな優雅な口調で諭されたら、怒る気力がなくなってしまったよ。(笑
 ハイネの部屋に引っ越したアイダ博士は、早速邪魔なお酒のコレクションを片付けた。ハイネは渋々だったろうけど、奥さんに逆らわなかった。インテリアになる綺麗な容器に入ったお酒やワインなどの地球産のお酒をいくらか残して、ハイネが80年かけて集めた酒類はドームの厨房班のワイナリーに移された。実は、このお酒の異動はケンウッド先生とヤマザキ先生が仕組んだものだった。ハイネの健康の為に、2人はアイダ博士を焚き付けて強い酒類を彼の部屋から撤去した訳だ。厨房班に寄付された形のハイネのコレクションは、一応ハイネの許可を得てから食事に供されることになった。だから、あの酒類を無料で飲めるのはハイネだけなんだ。
 ハイネの部屋で行われていたケンウッド博士達の酒盛りは、場所を変えてヤマザキ先生の部屋で続いているそうだ。


2021年3月4日木曜日

ブラコフの報告     6

  アーノルド・ベックマン氏。僕がテロ事件に巻き込まれた時の保安課長だった人だ。元傭兵の隊長だったから、この人も引退後の所在は委員会によって秘されている。でも彼は結婚して奥さんと幸せに暮らしているとケンウッド先生から聞いている。ハイネ局長は今でも彼と格闘技の対戦を行わなかったことを惜しんでいるらしいよ。


 そうだ! 重大なことを言い忘れていたね。地球と宇宙の間の私信が自由に出来るようになったんだ。ドームの外でも内側でも自由なんだよ。勿論、「取り替え子」の秘密も明かされちゃったけど・・・いずれは知られることだったしね。そしてコロニー社会や地球のリーダー達が危惧したような大混乱は起きなかった。ショックが大きすぎたのかも知れないけど、パーシバル博士が仰るには、コロニー人はあまり取り替え子のことを重視していないから、わざわざ地球人に教えたりしないって。だから自由に情報がやり取りされるようになっても、地球人は取り替え子の事実をそんなに知っていないんだ。
 それに、貿易商などは疾っくの昔に取り替え子の事実を取引相手から聞かされていたしね。

 そう言う訳で、ベックマン氏は、一緒にテロ事件を捜査した内務捜査班のビル・フォーリーとなんと「文通」しているんだよ。「文通」って紙の手紙だよ、すごく古風だろう。しかも彼らはわざわざ手書きで書簡を作成するんだ。互いの文字を褒めあったり、批評し合っているそうだから、所謂「書道」を楽しんでいるんだろう。一度ヤマザキ先生がフォーリーからベックマンの手紙を見せてもらったことがあるそうだ。だけど、ヤマザキ先生には読めなかったって・・・。

「ものすごい癖字でさ、何を書いているのか、さっぱりわからん。」

 先生はケンウッド先生にそうこぼしたそうだ。筆記体ってきっと読むのも書くのも難しいのだろう。
 だけど、ハイネには読めたんだ。ベックマンが何を書いていたのか、兎に角、ハイネはフォーリーが見せた手紙を読んで大笑いしたって。

「あの人がこんなノロケ話を書くなんて。」

とケンウッド先生とヤマザキ先生に言ったけど、結局何が書かれていたのか、ハイネもフォーリーも教えてくれなかったそうだ。それでケンウッド先生は、ベックマンが書いていたのはアルファベットの筆記体ではなくて、内務捜査班が使用している記号文字じゃないかって推測しているんだ。フォーリーは同じ事件を捜査したベックマンに友情を感じて、本来ならコロニー人に教えてはいけない記号文字を退官した後のベックマンに教授したに違いないって。
 ドームの外に去った人に秘密の文字を教えて、あまり公言出来ない話を2人で楽しんでいるんだ、きっと。

 孤独を愛しているように見えたビル・フォーリーがそんな風に友達を作ったことに、僕はちょっと驚いた。僕がドームにいた頃の彼は、内務捜査班の事務室で一人黙々と仲間や部下から送られてくる報告書を読んだり内容を分析していた。直属のボスだったロッシーニは孤独だったろうけど、フォーリーも孤独だったろう。周囲から孤高の人の様に見られていたが、引退後は養育棟の訓練所で若いドーマー達に内務捜査班の心得を教授している先生なんだ。つまり、毎日賑やかな子供達の相手をしている訳で・・・これって晩年のロッシーニと同じだね。ケンウッド先生が仰るには、食堂で見かける彼はいつも若いドーマー達に囲まれているそうだよ。

 

ブラコフの報告     5

 他の人々の近況を・・・先ずは、あまり情報のない人たちを先に片付けておこうか。

 ハレンバーグ元地球人類復活委員会委員長。この人はまだ元気なんだ。かなりのお年なんだけど、地球勤務中の回顧録を出版したところベストセラーになっちゃって、今じゃ作家生活だよ。委員会の裏話も書きまくっているんだけど、流石に都合の悪いことは見事に省いているね。(笑
 読者は白いドーマーのことが書かれていると期待して購読している。でも実際のところハレンバーグ氏はあまり個人的にハイネと日常を過ごした訳じゃなかったから、詳しい話は書いていない。仕事で接した薬剤師ハイネのことしか書いていないのさ。この回顧録が出版された時、ケンウッド先生は慌てて購入して読んでいた。何か書かれて困ることがあったに違いないんだけど、それが何かは教えてくれなかった。読み終わって、ホッとした表情で、「これならドーマー達にも読ませて良いかな」と呟いていた。
 読者を興奮させたのは、終章のサンテシマ・ルイス・リンの弾劾の件だ。進化型1級遺伝子保有者を逃してしまったリンの失態をケンウッド先生からの通報で知ったハレンバーグ氏が当時の副委員長シュウ氏と書記長ハナオカ氏と共に地球へ降りる話。ちょっと活劇風に書かれていた。そして会議の途中でハイネがかっこよく登場するシーン。当時僕はまだ執政官じゃなかったから、残念ながらあのシーンを生で見られなかったんだ。噂ではドラマ化の話も出ているそうで、(でも主人公はハレンバーグ氏だからね・・・)この先もこの老人から目が離せないよ。

 シュウ元地球人類復活委員会副委員長。この人は高齢者施設に入って暮らしていると聞いた。でも詳しい近況はわからない。存命だと言うことだけだね。訃報があれば、僕のような退会者にも会報が送られてくるからわかる筈だ。

 ハナオカ元地球人類復活委員会委員長。ハレンバーグ氏の次の委員長を務めた人だ。サンテシマの弾劾当時は書記長だった。これと言って大きなことを成し遂げた訳じゃないけど、この人の時代に委員会は大きな危機を迎えた。僕が大怪我をしたテロ事件だ。ハナオカ氏はテロリストに対して、宇宙連邦軍を動かした。決してタカ派じゃないが、暴力を使う敵に対して容赦しない人だった。今は配偶者と一緒に木星第5コロニーで静かに余生を送っていると言うことだ。

 サンテシマ・ルイス・リン元南北アメリカ大陸ドーム長官。23代目だったかな。ケンウッド先生が25代目で、ユリアン・リプリー博士が24代目だったから。今じゃ南北アメリカ大陸ドームで「忌まわしい人物」の代名詞になっているサンテシマと言う名前は、もちろんこの人物からきている。
 彼は地球を追放された後、連邦裁判所で進化型1級遺伝子保有者を逃亡させてしまった罪に問われ、遠い僻地の惑星で医師として無期限の労役に就くことを科せられた。判決が下された10日後に彼は宇宙船に乗り込み、太陽系を去って行った。それ以来、僕は彼の消息を聞いていない。会報に名前が載ったことはないし、第一会報が流刑囚の近況を載せるとも思えない。どこでどうしているのか・・・。

 ダニエル・ジョンソン。ハイネを激怒させた介護士だ。覚えてる?
この人は火星では有名な伝説の介護士だった。いや、だ、だね。現在形。今もそうだよ。介護士を養成する学校まで建てた。実を言うと僕もその学校で研修を受けた。校長としての彼に直接教わることはなかったけどね。彼は大勢の生徒を抱えて多忙だから、僕の経歴にまったく気がつかなかった。気がついたら、僕を研修生として受け入れてくれただろうか。
 きっと地球人は暴力的な怖い人間だと思っているだろう。僕は本当の地球、本当のハイネを彼に知ってもらいたかったけれど、結局知り合うほどの機会もないまま、僕は研修を終えて彼の学校を去ったんだ。彼は今も優秀な介護士達を育てて世に送り出している。それなりに立派な人なんだ。

 ヴァシリー・ノバック。 サンテシマの私設秘書でハイネが入院中に遺伝子管理局局長代理をやったコロニー人だ。ハイネが意識を取り戻してすぐに代理を解任され、宇宙へ戻ってサンテシマの会社で働いていたんだが、サンテシマが連邦法違反で逮捕された時に、会社から解雇された。その後、企業弁護士として複数の会社と契約して働いてたそうだ。でも不幸なことに、クライアントの一社が厄介な犯罪に巻き込まれ、ノバックはその幹部と一緒にシャトルでコロニー間を移動中に正体不明の宇宙船に攻撃されて、シャトルもろとも宇宙の藻屑と消え去った。地球を去って12年後のことだから、かなり以前に亡くなっていたんだね。委員会の会員ではなかったので会報に訃報が載ることはなく、僕が彼の死を知ったのは最近のことだよ。テロ事件の歴史を調べていた時のこと。ちょっとショックだった。ノバックとは同じ時間をドームで過ごしたし、言葉を交わした記憶はないが顔を見かけたことはあったから。冥福を祈る。

 サミュエル・コートニー博士。僕がドームに着任した時に医療区長だったお医者さん。ハイネの治療に全力を尽くしてくれた人だ。彼は地球勤務を終えた後も委員会に残って月の病院で働いていた。僕の転職の時も推薦状を書いてくれたりして親切にしてくれた。現在は故郷の火星第5コロニーで家族とのんびり暮らしていらっしゃる。かなりのお年だが、ハレンバーグ氏よりは若い筈だよ。

 ダニエル・クーリッジ氏。同じくサンテシマの時代からリプリー長官、ケンウッド長官の時代に保安課長を務めた猛者。引退後はどこかの警備会社の教育顧問になったと聞いている。どの会社なのかは、彼の安全上委員会は明かしていないんだ。保安課は警察と同じようにコロニー人の違反者を摘発したりして、逆恨みされることもあるからね。だけど、たまに当時の執政官達が集まって「同窓会」を開く時は、彼も顔を出すことがあるそうだから、元気でやってると僕は信じているよ。

 続きは次へ・・・

 



2021年3月3日水曜日

ブラコフの報告     4

  次も訃報で、悲しい報告はこれで終わり。

マーサ・セドウィック    107歳。

 遺伝子学者として南北アメリカ大陸ドームに着任したのは20代前半。そして、当時の女性執政官たちに下された指示・・・ローガン・ハイネ・ドーマーを部屋兄弟を失った悲しみから立ち直らせよ・・・に従った一人だ。
 今思えば・・・いや。当時だって、それは馬鹿げた指示だった。愛情を向ける対象が急に転換される筈がないだろう。だけど女性執政官達は、美しい若いドーマーの関心を惹こうとあの手のこの手で彼を誘惑したんだ。地球人保護法に平気で違反してね。

 そして、マーサはハイネを夢中にさせることに成功した。ローガン・ハイネはドームを出て行った部屋兄弟ダニエル・オライオンを忘れた訳ではなかったけれど、女性に恋することを止めることは出来なかった。普通の男だから。
 彼は本気になってしまった。相手が数年で宇宙に帰ってしまうコロニー人だと承知しながらも、真剣に彼女に恋をしてしまったんだ。そしてマズイことに、マーサ自身も彼を好きになってしまった。愛してしまった。当然、逢瀬の回数が増えて、他の女性達に知られることになってしまったのさ。

 マーサ・セドウィックはある日突然地球人類復活委員会の本部に呼ばれて、月へ行った。そこで待っていたのは執行部による諮問会だった。彼女は「必要以上」に特定のドーマーと親しくなった事実を追求された。同僚からの密告情報が次々と曝され、彼女は否定出来ず、その日のうちに委員会を罷免された。

 妊娠が判明したのはいつのことだったのだろう。僕は聞いていないけど、多分諮問会の前後だった筈だ。彼女は子供の父親が誰かわかっていた。だからこそ、父親が経営する病院で出産して、父親不明の子供として届け出た。子供の遺伝子検査を拒否して、出産したことを委員会にも報告しなかった。罷免されたのだから、その義務もなかったしね。
 遺伝子学者としての名に傷は付いたが、彼女は婦人科の医師として父親の病院で働き、娘キーラを育てた。二回結婚して、二回離婚した。二人目の夫との間にロナルドをもうけ、二人の子供達は仲良く育ったんだ。
 マーサは子供達に「地球の囚われの身の王子様」の話を語って聞かせた。どうしても白い髪のドーマーを忘れられなかったんだ。娘のキーラは地球人に固執する母親にうんざりして、反発で警察官になったけど、ある時捜査で地球に行って、戻って来た時に「産科医になる」と言い出した。白い髪のドーマーに出会ってしまったんだ。多分、マーサは運命と言うものを感じただろうな。息子のロナルドは僕の大学の先輩で、と言っても歳が離れていたから実際に付き合うようになったのは僕がドームの副長官になってからなんだけど。お姉さんのキーラは医師免許を取るとすぐに地球人類復活委員会に採用されて南北アメリカ大陸ドームに勤務することになったし、兎に角、マーサ・セドウィックの周囲の人間は皆吸い寄せられるように白い髪のドーマーのいる場所へ集まって行った。
 ロナルドとキーラが言うには、マーサは次々と男友達を取り替えて、ハイネと比較して彼氏に逃げられると云う男性遍歴を繰り返していたそうだ。白い髪のドーマーの呪縛から逃れられない気の毒な人と言うか、それとも彼女なりに波乱の人生を楽しんだのか。

 晩年のマーサは引退した弁護士と結婚して、やっと落ち着いた生活を手に入れた。ドームを退官して火星に戻って来たキーラとヘンリー・パーシバル博士夫妻の子育てを助けて(だって、キーラは三つ子を産んだからね!)、ロナルドの家族とも仲良く余生を楽しんだ。キーラが退官する時に、ハイネが「マーサによろしく」と言ったことが彼女の心の中の痼りを融かしたんだ。

 マーサ・セドウィックは息子が経営する病院で静かにこの世を去った。最期は、最後の夫の手をしっかり握っていたそうだ。本当の愛を人生の一番最後に見つけたんだね。

 マーサが亡くなったことをローガン・ハイネはキーラ・セドウィックから知らされた。キーラは自分で地球に降りて、ドームに訪問者として入って、面会室で父親に母親の訃報を伝えたんだ。ハイネは彼女をそっと抱きしめて、「彼女はここにいる」と囁いたのだった。だから、キーラは両親が愛し合って生まれた子供なのだと信じることが出来たんだ。


2021年3月2日火曜日

ブラコフの報告     3

  次も訃報だ。

 ジャン=カルロス・ロッシーニ。享年94歳。

 南北アメリカ大陸・ドーム第24代長官ユリアン・リプリーがまだ一遺伝子学者だった時代から彼の秘書として働き、やがてリプリーが副長官、長官と出世していく間も影のように寄り添い、支え続けた。そしてケンウッド先生が長官に就任した時、リプリー博士の強い推薦で長官秘書を続けることになった稀有なドーマー・・・その正体は遺伝子管理局内務捜査班チーフだった人。

 若い頃はきっと孤独だったに違いない。無口で人付き合いの下手なリプリー博士の研究室で、助手として黙々と働いていたそうだ。同年代の遺伝子管理局の男たちが外勤務局員として外の世界に出て行ったり、内勤職員として大部屋で大勢の仲間と教えあったり話し合ったりして仕事をしていた時に、彼は中央研究所の研究室でコロニー人の研究員たちに使われていたんだ。
 だけど、きめ細やかな注意力と室内の人々をハッとさせる提案を適宜に出せる才能にリプリー博士は早くから気が付いていた。ドーマーはどんなに優秀でも執政官と同等の立場に立てない。それならいっそのこと秘書としてコロニー人の研究員たちに指図出来る立場に慣れば良い。リプリー博士は目立つことの嫌いな事なかれ主義の人として知られていたが、人を見る目は優れていたんだ。ロッシーニは博士直属の秘書に採用され、そのまま副長官秘書に、そして長官秘書にまで昇った。流石に月の地球人類復活委員会と直接交信する権利は持たされなかったけれど、ほとんどのドームの中の采配は任された。もしかすると遺伝子管理局長より強い立場だったかも知れない。
 でもロッシーニは、誰が本当のボスなのか、ちゃんと弁えていた。ハイネ局長から内務捜査班だけに理解出来る暗号の指図が送られてくれば、それに従って執政官の動向を調査したし、部下に指図して情報収集させた。
 リプリー博士は結局最後まで最も信頼する秘書の正体を知らぬまま退官して宇宙へ去ったんだ。

 ケンウッド先生は副長官になる直前にひょんなことからロッシーニの正体を知ってしまっていた。先生は僕がドーム在勤中は僕に打ち明けてくれなかったけど、秘書が内務捜査班だと承知の上で使っていたんだ。そしてロッシーニの偉いところは、正体を知られているとわかっていても、ケンウッド先生の前では長官付き秘書以外の何者でもない態度で働いていたことさ。実際、ケンウッド先生はロッシーニがいなければ長官職を務めることは出来なかったと仰っていた。

 歳をとって、ロッシーニは遺伝子管理局を退職して、長官秘書も退職した。但し、「黄昏の家」に入ることは拒んで、養育棟で子供のドーマーに英語を教える教師になった。晩年は一人の女性ドーマーを一人前の保安課員に育て上げることに情熱を注いでいたそうだ。

 内臓の機能が低下して老衰で彼は旅立った。亡くなる2ヶ月ほど前から、彼はしきりにリプリー博士にもう一度会いたいと呟くようになった。彼の看護をしていたドーマー・・・彼が最後に育てた女性ドーマーのべサニーが、ケンウッド先生にリプリー博士を探してくれと頼み込んだ。探す必要はなかったんだ。ドーム長官を務めた人は、地球人類復活委員会がしっかり引退後の消息を把握していたからね。リプリー博士は退官後は一度も地球に戻らなかったんだが、ロッシーニがもう永くないと聞いて、取るものも取り敢えずに駆けつけてくれたそうだ。そしてロッシーニが亡くなる迄の5日間、「黄昏の家」に泊まり込んでくれたとケンウッド先生が感激していた。

 多分、ユリアン・リプリーとジャン=カルロス・ロッシーニは静かに心の深いところで繋がっていたんだろうな。リプリー博士はやっぱり最後までロッシーニがドーマー側のスパイだと知らずに、ロッシーニも博士を騙していたと打ち明けずに、ただ互いの手を握り合ってこの世とあの世に別れて行った。浮世の身分なんて、二人には関係なかったのかも知れない。地球人とコロニー人、ドーマーと執政官、そんなことは二人にはどうでも良かったのかも知れない。

 リプリー博士は葬儀には出席せずにドームから去った。送迎フロアにローガン・ハイネがいて、黙って博士を見送ったとゲイト係が言っていたそうだ。ハイネは思ったんじゃないかな。

 ジャン=カルロス・ロッシーニの本当のボスはユリアン・リプリーだ・・・って。


2021年3月1日月曜日

ブラコフの報告     2

  まず、何から話そう? 楽しいこと? 悲しいこと? 

やっぱり悲しい話を聞いてから楽しい話で気分転換する方が良いかな。
悲しいって言っても、人としての生を全うした人々の話だから、勘弁してくれよな。

 僕等の友人で、ローガン・ハイネ遺伝子管理局長から最も信頼を置かれた部下であり、同時に親友でもあったグレゴリー・ペルラがとうとう旅立ってしまったんだ。享年93歳。

 グレゴリーは「黄昏の家」の管理人を20年勤め上げた。だけど寄る年波で体の動きが思うように行かなくなってきたので、年下のドーマーにその役割を譲った。多分、それが良くなかったんだろうな。役割を交代した数日後に彼は体調を崩し、5日間寝ていたそうだ。ヤマザキ先生が直々に往診に通って栄養剤を与えたりして、励ました。エイブ・ワッツも頻繁に病室に顔を出して、喧嘩をふっかけたりして力付けようとした。

 6日目にグレゴリーは起き上がって、朝食もしっかり摂って、みんなを安心させたそうだ。彼は「局長と長官に会いに行く」と言って、「黄昏の家」を出て、地下通路を通り、居住区へ行った。ケンウッド先生とハイネ局長はその日執政官会議があって、グレゴリーが中央研究所に現れた時はまだ会議室の中だった。それでグレゴリーは地下4階にある「野外シミュレーションフロア」へ行った。彼はそこで一人で散歩するのが好きだったんだ。30分間の「公園散歩」って言うプログラムがあって、執政官も休憩時間や気分転換に良く利用するものさ。地面が平坦で芝生と低木の植え込みや花壇の間を歩くって言うプログラムなのさ。

 係官はグレゴリーが40分経っても戻ってこなかったので、心配になって呼び出し放送をかけてみた。でも彼は戻って来なかった。このシミュレーションでは端末は持ち込めない。気分転換と野外訓練用だからね、端末はロッカーに置いて行くんだ。

 それで心配が嵩じた係官は独断でプログラムを終了させた。何もないフロアが出現した時、彼はグレゴリーが柱にもたれかかって座り込んでいるのを見つけた。すぐに嫌な予感がしたそうだ。彼は同僚に医療区へ連絡するよう頼んで、フロアへ駆け込んだ。

 グレゴリーはもう息をしていなかった。手には20年前に先に旅立った恋人ゴードン・ヘイワードの写真を握りしめ、口元に微笑みを浮かべて安らかな表情だったそうだ。

 ヤマザキ先生は蘇生処置を行わなかった。グレゴリーが望んでいないとわかっていたから。彼の体を静かに運び出し、ドーマー達の目につかないようにそっと「黄昏の家」に運んだ。

 葬儀は伝統に則って執政官だけでしめやかに行われた。ケンウッド長官もゴーン副長官も泣いたそうだ。グレゴリーはみんなの友達だったから。そしてみんな悩んだ。ローガン・ハイネにどうやって伝えようかと。

 グレゴリーの訃報は結局エイブ・ワッツによってハイネ局長に伝えられた。エイブは夕方、ハイネが業務を終えて部屋を出る頃合いを見計らって遺伝子管理局を訪問した。そして、秘書達が出て行った後の局長室でグレゴリー・ペルラの逝去を局長に伝えた。いや、言葉は必要なかったんだろうな。エイブが遺伝子管理局に行くなんて、滅多になかったことだから。

 ハイネがどんな反応をしたか、エイブは結局誰にも言わなかった。ただ、その夜、彼はハイネのアパートに泊まって、2人で故人を偲んだそうだ。

 翌日、ハイネはいつもと同じで、ネピア・ドーマーがグレゴリーの訃報を伝えた時、一言「そうか」と呟いただけだった。でも、それでネピアは上司の深い悲しみを悟ったと後に後輩のキンスキーに語ったそうだ。

 グレゴリーは今、ゴードン・ヘイワードと一緒にドームの墓所で眠っている。