2019年2月28日木曜日

囮捜査 2 2 - 7

 その夜、ハイネは妻のアイダ・サヤカの部屋に行った。多忙な医療区長のアイダだが、必ず休日は取ることにしている。彼女は部下にきちんと休むことを実践させるために、彼女自身が行動で示してやるのだ。
 ハイネは彼女の手作りの夜食を楽しみ、2人で一緒にテレビで映画を見た。彼女の好きなラブコメだったが、彼も楽しめた。映画が終わって、彼女が眠前の軽いカクテルを作りながら言った。

「私たち以外のドーマーとコロニー人のカップルがいるって言う噂を聞いたことがありますか?」
「カップル? 複数ですか?」
「ええ・・・」

 アイダはそんなに深刻な表情ではなく、街の噂話を耳にしたと言う顔で言った。

「男性同士で仲良くしているのは、時々目にします。でも今回私の耳に入ったのは、男女のカップル。」

 ハイネは彼女が早くグラスを持ってソファに戻ってこないかな、と思いつつ、話題に興味を抱いた。

「男はドーマーでしょうな?」
「確率的に、そうなるわね。」
「女性は執政官ですか?」
「執政官もいるし、研究員もいるし・・・」

 アイダがようやくグラスを持ってソファに戻った。ハイネに一つを手渡し、彼等は軽くグラスを合わせて乾杯した。

「遊びで恋愛するなと言うつもりはありませんが、分別ある行動をして欲しいわ。地球人保護法は面倒だし、後で感情的な争いになっても困ります。」

 コロニー人は地球に永住する訳でなく、いつか宇宙に帰ってしまう。別れの時に辛い思いをするのは、勿論当事者達だが、周囲も心配するし、穏やかに見まもるのは難しいだろう。アイダの様に特例で永住を認められたコロニー人は極稀なのだ。
 ハイネがあまり反応しないので、アイダは一つの確信を持った。

「貴方はご存知ないのね?」
「何をです?」

 ハイネは他人の恋愛に無関心だ。誰と誰がカップルで、と言うことは気がつくが、それだけだ。どこまで深い仲なのか、とか、上手く交際が進んでいるのか、などは当事者の問題だから割り切って干渉しないし、興味も持たない。
 アイダは2人きりの部屋であるにも関わらず、声を潜めた。

「副長官とドーマーの仲が良いと言う噂・・・」

 ハイネが初めて反応した。妻の目を見つめた。

「副長官? ラナ・ゴーンがドーマーと交際しているのですか?」
「交際しているのかどうか、詳しいことはわかりませんけど、、噂です。夜になると彼女とドーマーが庭園でデートをしていると言う・・・」
「ゴーンは夫がいるのでは?」
「それが・・・」

 アイダは友人の個人的情報を口外することに後ろめたさを感じつつも、夫に告げた。

「彼女は最近離婚したのです。彼女が地球に入れ込み過ぎて、夫と考えが合わなくなり、別れたそうです。」
「ほう・・・」

 ハイネは興味を失った。独身になった副長官が新しい男友達を作っても誰も咎めない。男性がドーマーであると言うだけだ。ゴーンなら分別があるだろう。

「ちなみに、その相手のドーマーが誰なのか、わかっているのですか?」

 すると、アイダが珍しく躊躇った。

「聞いて驚かないで下さい。」
「驚くかどうか、わかりませんよ。」
「彼を罰しないと約束して下さいます?」
「罰する?」

 ハイネは初めて胸騒ぎを覚えた。

「遺伝子管理局の職員ですか?」
「ええ・・・」
「誰です?」

 まさかゴーンの養子のクロエルではあるまいな、と彼はあってはならぬことを想像した。アイダが覚悟を決めて告白した。

「ダリル坊やなのよ。」

 ハイネは肩の力を抜いた。

「セイヤーズ?」
「ええ。」
「あの、能天気な男ですか?」
「彼は紳士よ。」
「わかっています。」

 ハイネはちょっとぼーっとしたところがあるセイヤーズとキビキビしたゴーンを思い浮かべた。そして呟いた。

「面白いカップルですね・・・」


2019年2月24日日曜日

囮捜査 2 2 - 6

 昼食を終えてケンウッドと別れると、ハイネ局長は昼寝のために庭園に行った。ベンチに座って端末を出すと、北米南部班チーフ、ポール・レイン・ドーマーに電話をかけた。レインはすぐに出た。

「レインです。」
「ハイネだ。囮捜査官の件をケンウッド長官に漏らしたのは誰だ?」

 勿論、ハイネはレインが口を滑らせたとは思っていない。レインは無口だし、上司に自分から業務内容をペラペラ喋る男ではない。特にコロニー人には用心深い。若い頃の苦い経験から、彼はコロニー人科学者達に警戒心を抱いている。例えケンウッド長官を信頼していても、仲間内の秘密を明かしたりしないのだ。ハイネは別の人物に疑いを抱いていた。
 レインが驚いたような声で、「お待ち下さい」と言って、暫し音声が途切れた。彼は部下達と一緒にいた様子だったので、仲間に質問したのだろう。やがて不意に微かな雑音が聞こえ、セイヤーズの声が聞こえて来た。

「それは私です、局長。」

 申し訳なさそうな声だ。ハイネは溜め息をついた。

「君か、セイヤーズ! 言い訳出来るのか? コロニー人には内緒の作戦だったはずだぞ。」
「ええ・・・それは・・・その・・・ギル博士がヒギンズ捜査官に興味を抱いたので、近づかないよう予防線を張ったつもりでした。連邦捜査局から研修に来ている人なので、手出し無用と言っておいたのですが・・・。」

 セイヤーズの言い訳はこうだ。昼休みにクロエルがヒギンズ捜査官にアイスクリームの大食い競争を挑んだ。(これを聞いたハイネは熱が出そうな気がした。)ハイネとケンウッドが食事に来る前の話だ。食堂内にちょっとした騒ぎが起きて、そこにアナトリー・ギル博士が現れた。レインの大ファンだからレインに会いに来たのだろうが、生憎その場にレインはいなかった。ギルはクロエルと騒いでいるセイヤーズに似た男の存在に気付き、これまた偶然近くに居合わせたセイヤーズに、あれは誰かと尋ねたのだ。

「セイヤーズ、クロエルと遊んでいる男は誰だ? 君によく似ているが・・・」
「彼は外からのゲストだ。ドームの外でクローンの子供が襲われる事件が連続して起きたので、彼が遺伝子管理局の局員を装って犯行グループと接触を図ることになった。それで管理局の業務研修に来ている。一時的な滞在だから、あまり多くの人と接触させたくない。」
「当然だ。ドームの業務を全部知られる訳にはいかないからな。」

 セイヤーズはギルが素直に納得してくれたと思ったのだが、ギルはケンウッド長官にご注進に及んだらしい。
 ハイネはまた溜め息をついた。

「ギルは口が軽い。あの男にはもっと注意し給え。ケンウッド長官は殺人事件を知らなかったので、非常に驚いておられる。コロニー人には関係ない事件だがな。」
「あの人は命を粗末にする人間は許せないんですよ。」

 セイヤーズはケンウッドの人柄をちゃんと理解している。ギルの人柄も理解して欲しいものだ。ハイネは若い部下に注意を与えた。

「今、執政官達はマザーコンピュータの再構築で忙しい。余計なことで時間を取って欲しくない。地球人の問題は地球人で解決する。」

 彼は「話す相手に気をつけろよ」と釘を刺して電話を切った。それからクロエルにも電話をかけて、囮捜査官に目立つ行動を取らせるなと注意しておいた。それでなくても、クロエル自身が目立つのだから。


囮捜査 2 2 - 5

 アメリカ連邦捜査局が囮捜査官となる人間をドームに派遣することになった。ダリル・セイヤーズのふりをするので、セイヤーズ自身に彼を遺伝子管理局の職員らしく振る舞う教育をさせることになった。囮捜査官がセイヤーズとして外で活動する時の相棒は、クロエル・ドーマーが任命された。中米班のチーフだが、セイヤーズがセント・アイブス・メディカル・カレッジ・タウンで活動した時の相棒でもあったし、敵もクロエルがセイヤーズの相方だと思っているだろう。北米南部班は彼等を普通のルーティンに入れて、不定期にローズタウンに支局巡りをさせ、セント・アイブス・メディカル・カレッジ・タウン出張所にも足を延ばさせる。南米班は局員の若い者数名を留学生として大学に入れ、彼等の護衛をする。街全体が大学の様な場所だから偽の学生が歩き回っても誰も怪しまない。敵は北米南部班の面子を調べ上げているであろうから、護衛には南米班を使うのだ。中米班はローズタウンの支局近辺を警戒する。
 外の捜査機関との打ち合わせは、コロニー人には知らされなかった。地球上で起きる事件にコロニー人の介入は許されないし、地球人は自分達で解決したかった。遺伝子管理局の面々は本部の外ではこの囮捜査の話題をしてはならないと誓い合った。
 数日後、ロイ・ヒギンズと言う男が外からドームへ派遣されて来た。セイヤーズに似た風貌で、少しがっしりとした体格だ。早速セイヤーズが彼の世話を始めた。施設の案内を簡単に済ませ、遺伝子管理局の仕事を説明する。日常の任務は許可証の発行や申請書の受理、面接だから、事務仕事の勉強だ。そこに遺伝子の学習も入る。但し、ヒギンズの耳に「取り替え子」やクローン製造部の話は入れてはならない。ドーマーの養育棟も絶対に見せない。中央研究所にも近づかせない。ヒギンズはコロニー人の科学者達は地球の大気の浄化に取り組んでいると言う世間で通っている噂をそのまま聞かされた。
 ケンウッド長官は他のコロニー人学者達同様、クローンの誘拐事件も人体実験の殺人事件も知らなかった。当然、囮捜査官の教育も知らない。ハイネ局長が何も言わないので、ヒギンズを遠くから見かけた時、セイヤーズは少し太ったかな、と思っただけだった。
 遺伝子管理局の職員達は自由気儘にドームの中を歩き回るコロニー人科学者達がヒギンズの存在に気がつかない様、努力した。維持班のドーマー達には、「外の捜査機関が遺伝子管理局の業務を学習する必要が生じたので研修に来ている」と伝えられていた。勿論それは嘘ではないし、本当の話なので、仲間に対して後ろめたいことはなかった。科学者達に訊かれたら、やはり同じ返答をすれば良いのだ。知られてはならないのは、その研修に来ている人間が、セイヤーズの振りをする囮捜査官だと言うことだ。
 全員で十分用心深く作戦を進行させたつもりだったが、蟻の穴から堤も崩れることがある。
 3日目のお昼にハイネ局長は打ち合わせ会を終えてケンウッド長官と食堂へ出かけた。すると歩きながらケンウッドが質問した。

「外の捜査機関の人間が遺伝子管理局の職員を演じて捜査するのはどうかと思うが? 一体どの程度ドームの業務の内容を教えているのだね?」

 ハイネは内心ギクリとしたが、平静を装った。

「研修員とお会いになられたのですか?」
「いや・・・しかし、話は聞いている。」

 ケンウッドはちょっと傷ついた振りをして言った。

「君達が地球の問題に我々コロニー人を巻き込みたくない気持ちはわかる。宇宙の問題に地球人を仲間外れにしているのは我々自身だからね。だが、このドームの中で起きていることを内緒にされるのは、愉快なことじゃないね。」

 ハイネは申し訳なく思った。ニコラス・ケンウッドは常にドーマー達を我が子の様に気遣い愛してくれる。年上のハイネに対しても心から親愛の情を示してくれる親友なのだ。

「貴方のお耳に入れたくない不愉快な事件が外で起きているのです。遺伝子管理局が保護したクローンの子供達が施設から誘拐され、人体実験に使われて殺害されると言う、残酷な事件が連続して起こりました。その首謀者と組織をアメリカ連邦捜査局とカナダ連邦捜査局がほぼ特定しており、確証を掴むために遺伝子管理局職員を装う捜査官を彼等に接近させることになったのです。研修員は、我々の業務を学習するために派遣されて来た捜査官です。」

 ケンウッドが足を止めたので、ハイネも立ち止まった。ケンウッドが額にシワを寄せて呟いた。

「人体実験だって?」
「内臓の交換をした形跡がクローンの遺体にあったそうです。」

 ケンウッドが痛そうな表情を浮かべた。

「殺害されたクローンはまだ子供だろう?」
「そうです。」
「可哀想に・・・」
「外の捜査機関は全力をあげて犯行組織の壊滅を目指しています。我々はその協力をしているのです。」
「ドーマー達に危険はないのだね? ああ・・・我が子だけを安全な所に避難させるみたいに聞こえるだろうが、私は地球から預かっている君達ドーマーの安全を守らねばならないのだよ。私の独りよがりな心配をわかってくれ。」

 ハイネはケンウッドの肩に手を置き、わかっていますとも、と頷いて見せた。


囮捜査 2 2 - 4

「ガブリエル・モアと言う男に、死亡した遺伝子管理局タンブルウィード支局長のIDカードを盗んだ疑いがかかっていますが、彼と兄のジョン・モアがミナ・アン・ダウンの教え子でした。彼等は大学卒業後も教授のセミナーに通っていたことがわかっています。」

 レインが説明した。

「モアが盗んだIDが、クローン収容所襲撃に使用されたことがわかっていますから、兄弟がFOKと関係があることは否定出来ません。」

 アメリカ側の捜査官が言った。

「ダウン教授がリンゼイと名乗っていたメーカーのラムゼイと親しかったことは多くの人間から証言を得ています。リンゼイの遺品を調べたところ、ある人物の遺伝子に彼が非常に興味を抱いていたことがわかりました。」

 遺伝子管理局側に一気に緊張の波が走った。その時、ハイネ局長が初めて口を挟んだ。

「それはダリル・セイヤーズと言う男の遺伝子ですな?」

 局員達は努力して局長を振り返るまいとした。局長が打ち合わせなしに発言する時は、局長の出方に臨機応変に合わさねばならない。先方が頷いた。

「そうです。」
「その男は当局の元局員です。珍しい遺伝子を保有していますので、メーカーをおびき出すのに彼の遺伝子を使用しました。ラムゼイが食いついたのですが、残念なことに逮捕する寸前で死なせてしまいました。ダウンはセイヤーズの遺伝子の情報をラムゼイから得ていたのでしょうか?」
「そのようです。クローンは男性ばかりなのですが、ダウンはそのセイヤーズと言う男の遺伝子から女性クローンを製造出来ると確信しているようで、彼を探していると言う情報があります。」
「セイヤーズは現在事務方に転属しています。捜査協力はしますが、情報分析の面で働くだけです。」
「セイヤーズ氏に出てきてもらう必要はありません。」

と外の捜査官達はそう言って、遺伝子管理局を安心させた。

「セイヤーズ氏と似た人物を使って囮捜査を行うつもりです。それで、遺伝子管理局にお願いしたいのは、囮捜査官に局員の教育を施して、それらしい人間に仕立て上げていただきたいのです。」

 チーフ達は、局長がお気軽な口調で「良いですよ」と請け合うのを聞いた。

「但し、局員達は通常2名1組で支局巡りをしています。囮捜査官は1名ですね?」
「そうです。」
「では、もう1名は局員を使います。教育係りと護衛を兼ねさせましょう。」

 ハイネ局長はチーフに声をかけた。

「ドーソン君、詳細な打ち合わせを頼むよ。敵は残酷な手口を使って人の命を奪うことをなんとも思っていない連中だ。囮捜査官と局員の安全第一で活動するよう、熟慮してくれ。」

 クリスチャン・ドーソン・ドーマーが「承知しました」と応えた。

2019年2月23日土曜日

囮捜査 2 2 - 3

  カナダ連邦捜査局側も会議室からの中継だった。捜査責任者より上位にいる局長がハイネに挨拶し、ハイネもカメラの遠くから挨拶を返した。あちらの会議室にはアメリカ連邦捜査局の捜査主任と捜査官数名も参加しており、会議は北米北部班のチーフ・ドーソンからの訴えで、FOK対策を練ることが目的だった。クローンの少年達を何らかの人体実験に使って殺害する卑劣な連中が存在する。連中はクローンの解放を謳っているが、実際に彼等に収容施設から誘拐された少年達が生きて解放された話はどこにもない。FOKは大義名分を掲げたテロリストを装っているが、その実体は恐らく研究目的で人間を調達する組織なのだろう。クローンを狙っているのは、クローンならば大きな社会問題にならないと勘違いしているからだ。だがクローンも人権がある人間だ。クローン殺害は殺人事件に他ならない。
 殺人は警察の担当だが、狙われるのが遺伝子管理局が保護したクローンであるなら、これは遺伝子管理局の担当でもある。だから、話し合いの結果、遺伝子管理局は警察、カナダとアメリカの連邦捜査局に協力することになった。
 会議は4名のチーフと外の捜査機関との話し合いがメインで、ハイネ局長は黙って聞いていた。クロエルがそっと表情を伺った時、局長は居眠りをしていた。彼はそっと局長と呼びかけてみた。ハイネが薄眼を開けて彼を見た。クロエルはそっと目で先方を映しているスクリーンを指して、注意を促した。一瞬ハイネはバツの悪そうな顔をしたが、すぐ真面目な表情に戻った。
 外の捜査機関は囮捜査を提案した。FOKの幹部が恐らく医療研究機関の人間だと言う調べはついているのだった。そしてメンバーも数人目星がついているのだが、確証が掴めないでいる。だから囮を使って主要メンバーを炙り出そうと言うのだ。

「しかし、クローンの子供達を囮に使う訳に行きませんよ。」

 ホアン・ドルスコが相手の案に意見を述べていた。先方の代表が言った。

「子供を使うつもりはありません。我が方では、連中がある人物に興味を抱いているという情報を得ています。遺伝子管理局は、メーカーのラムゼイをご存知ですね?」
「ええ、知っています。彼は既に死亡していますが。」
「彼が殺害されたと我々は考えていますが、管理局は事故死扱いされていますね?」
「殺害の確証がないからです。新たな証拠が出て裁判所が認めれば死亡原因の訂正を行います。」

 クロエルが一瞬何か言いたそうにドルスコを振り返ったが、結局口を挟まなかった。
 先方のアメリカ側捜査官が言った。

「アメリカの捜査局はセント・アイブス・メディカル・カレッジのミナ・アン・ダウン教授と言う人物が一連の事件の要にいるのではないかと考えています。彼女をご存知ですね?」

 これにはポール・レイン・ドーマーが頷いた。

2019年2月17日日曜日

囮捜査 2 2 - 2

 翌日の打ち合わせ会は早々に終わった。前夜の会議で大方の話が終わっていたし、ケンウッドは流石に疲れが出たのか、昼食も早く済ませて昼寝してくるとアパートに帰ってしまった。それでハイネも彼にしては早い昼食を済ませてしまい、図書館で少し居眠りをしてから執務室に戻った。
 秘書達はチーフ会議の準備をしていた。外部通信回路を開き、保安課に傍受必要なしと告げる。保安課は記録を録るが内容確認はしないのだ。
 早々に顔を出したのは一番遠くから戻ってきた南米班のホアン・ドルスコ・ドーマーだった。ハイネは思わず申し訳なさそうに言った。

「北米で起きている事件の対策を話し合う。君には無駄足を運ばせたかも知れない。」

 ドルスコはちょっと傷ついたふりをして見せた。

「嫌ですよ、局長。僕を仲間外れにしないで下さい。」

 2人は思わずクスッと笑い合った。そこへバタバタといつも通り賑やかにクロエル・ドーマーが現れた。ドルスコが座っているのを見て、がっかりした。

「僕ちゃんが一番じゃなかったすね!」
「残念だったな、クロエル。」

 ドルスコは自身の向かいの席に座った中米班チーフに笑いかけた。

「こう言うことは、一番遠い場所にいる人間が一番早く来るのさ。」

 第2秘書のアルジャーノン・キンスキー・ドーマーがカメラの調整をしていた。局長を一番奥の位置になるようにして、焦点は手前の若いチーフ達に置く。そうやって若さを保つ局長の姿を出来るだけぼかして撮影するのだ。先方はハイネ局長が100歳だと知っているが、今日の局長は疲れて老いて見える、と言っても、どう見ても50歳そこそこだ。もし会議中に議事内容に大いに興味を抱いて生気が湧いて出たら、30代に若返ってしまう。そんな特殊な体質を保つ地球人を、外の世界の地球人が同胞と受け入れるだろうか。
だから、キンスキーはカメラの焦点を調整するのだ。第1秘書のネピア・ドーマーはありのままの局長を見せたがるので、部下の気遣いが不満なのだが、執政官達もキンスキーの考え方を支持しているので何も言えない。
 ハイネはそんな部下達の葛藤を何処吹く風で、ドーソンから先に送られてきた資料に目を通していた。
 ポール・レイン・ドーマーとクリスチャン・ドーソン・ドーマーが前後して入室してきた。入り口で出会ったらしい。全員が揃ったので、ドーソンが同僚達に手短に会議の目的を説明した。そして局長が頷くのを見て、カナダの連邦捜査局へ通信を繋いだ。

2019年2月15日金曜日

囮捜査 2 2 - 1

 遺伝子管理局北米北部班チーフ、クリスチャン・ドーソン・ドーマーがハイネに面会を求めて来たのは、ハイネがアパートの自室で眠る準備をしている時だった。ドーソンは翌日局長の日課が終わってからで良いです、と言うので、ハイネは素早く端末で現時点での仕事量を確認して、昼食後は時間が空くことを確かめた。

「午後1時半から、局長室で良いか?」
「はい。その時間で結構です。それで・・・」

 ドーソンは電話で少し緊張した顔を見せた。

「外部とテレビ会談したいのですが、よろしいでしょうか?」
「外部?」
「カナダの連邦捜査局です。FOKの事件に関する捜査協力を遺伝子管理局に要請してきました。」

 ああ、とハイネは頷いた。北部ではクローン収容所が襲撃されて子供が誘拐される事件が連続して3件起きていた。遺伝子管理局は警備を強化させるしか対抗方法がないのだが。外の警察機構が何を求めているのか、聞く必要はある。

「わかった、外部通信回路を開いておく。」
「有り難うございます。」

 ドーソンが通話を切った後、ハイネはちょっと考えてから、残る3名のチーフ達に招集をかけた。集合時間は翌日の午後1時半、場所は局長執務室、つまり、ドーソンが要請したカナダ連邦捜査局とのテレビ会談に、チーフ全員を立ち合わせるつもりだった。
 ハイネは外の世界を知らない。だから外の政府組織が協力を求めてくれば、彼は外の世界を知っている人間をオブザーバーに呼ぶ。かつては秘書達にそれを要請していた。しかし今回は現在進行形の凶悪犯罪の対策だ。外の世界で何が起きているのか知っている現役のチーフ達が適任と思えた。遠い南米にいる南米班チーフには気の毒だが大至急帰還を求めた。中米班は足止めをくらい、北米南部班は抗原注射の効力切れ休暇中だ。そして最後に北米北部班のチーフにメールを送った。

ーー明日のテレビ会議にはチーフ全員を参加させる。

2019年2月13日水曜日

囮捜査 2 1 - 6

 軽く夕食を摂った後、ケンウッドは会議場へ向かった。執政官達は殆ど全員出席を要求されたので、ゆっくり夜を過ごすつもりだった者達は不満顔だった。ケンウッドの補佐はJJ・ベーリングの能力をテストしたクローン製造部の執政官達や古顔の学者達だ。
 ケンウッドが壇上に上がると、末席に地球人が2人いた。一人は会議への出席を常時義務付けられている遺伝子管理局長だ。もう一人は珍しく出席を請われたドーム維持班総代表だ。ちょっと緊張していたが、執政官達が彼に気がついていないと知ると、逆に安堵した様子だ。隣のハイネにコソコソと話しかけ、ハイネも同様にコソコソと答えていた。
 ケンウッドは副長官の開会の宣言の後、直ぐに月で講義した内容を語り始めた。JJの能力の噂を聞いて知っていた執政官達は、なるほどと言う顔をした。初耳の者は衝撃を受けた。月での講義と違っていたのは、共同研究した学者達が途中でケンウッドと交代してより詳細な説明をしてくれたことだ。おかげでケンウッドは会場からの質問攻めに遭うことを回避出来た。

「今後の職場に変化があるかと問われれば、あると答えます。しかし、あなた方にはまだやらねばならない研究がいっぱいあります。今までの研究とは方向が変わりますが、仕事がなくなることはありません。却って増える方もいるでしょう。これだけは言えます。
失職はありません。」

 ケンウッドの言葉に、会場内から笑いが起きた。安堵の笑いだろう。ドーマー達もこれまで通り働くのだ。ただ・・・

「ドーマー達の生活にも少し変化が出ます。今迄外に出る必要がなかったドーマー達にも外出の機会を作り、少しずつ外の生活に慣れてもらうことになるでしょう。まだ1世代は取り替え子を行わなければなりません。消毒も必要です。だから、最初は希望者から順番に社会勉強の形で外に慣れさせます。具体的な計画はこれから維持班のチーフ達と話し合いを重ねて行きます。」

 ケンウッドは壇上から総代ターナー・ドーマーを見た。

「ターナー、これから君には余計な仕事が増えるが、どうか協力してもらいたい。」
「承知しました。」

 ジョアン・ターナーは、恐らくこの議事場内で一番年少だった筈だが、若い執政官達に気後れを感じさせる威厳を漂わせて頷いた。後に彼がヘンリー・パーシバルに語ったところによると、彼は事前にローガン・ハイネから「堂々と振る舞え。若いコロニー人達は君が強気に出れば及び腰になる。」とアドバイスを受けていたのだと言う。
 会議は混乱することなく、無事終了し、ケンウッドはハイネの居眠りを見ずに済んだ。

2019年2月10日日曜日

囮捜査 2 1 - 5

 ケンウッドは長官執務室に入ると、すぐに遺伝子管理局長と保安課長に招集をかけた。彼等が顔を出す前に素早く出張記録をコンピューターに登録して、ゴーンと共に待っていると、夕食に出かける直前だったハイネと、まだ仕事中だったゴメスが急いでやって来た。
 ケンウッドは彼等が席に着くか着かないかの段階で喋り始めた。

「月でJJ・ベーリングが発見した女性誕生の鍵を発表して来た。これから各ドームと月の研究機関でその発見の検証とプログラムの修正に取り掛かる。
 詳細は今夜緊急執政官会議を開いて説明と今後の計画を話し合う。
 君達は遺伝学者ではないが、出席をお願いする。プログラム改正の場合、書き換えに君達に認証してもらわねばならない。恐らく1日仕事となるだろう。何時になるかわからないが、必ずある仕事だ。どうか覚悟してもらいたい。
 以上。」

 一気に喋ったので、口を閉じると息が弾んだ。ハイネが微笑した。いよいよですね、と
その目が言っていた。
 ゴメスは警備が仕事だ。会場で騒動が起きないよう、警戒しなければと思った。
 ケンウッドが彼等の表情を伺うと、ゴメスが言った。

「長官、我々はまだ失職する心配をしなくても良いのですね?」

 ケンウッドは微笑んだ。

「大丈夫だ、少佐。まだ2世代はこのまま続けないといけないんだ。私は引退を強いられるかも知れないがね。」
「2世代ですか・・・私も爺さんになりますな。」

 するとハイネが不満そうに呟いた。

「ここに本物の爺ィがいますけど、死ぬまで働けと言われていますよ。」

 ケンウッドとゴメスは顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
 ゴーンが咳払いした。男たちの注意を自身に向けると、彼女は言った。

「緊急会議の連絡をしておきます。開始時刻は午後9時でよろしいですか?」

2019年2月6日水曜日

囮捜査 2 1 - 4

 夕食前にケンウッド長官は帰って来た。シャトルから降りると、地球の重力がのし掛かってくる。苦痛ではないが、一瞬体が重くなった衝撃を感じる。初めて地球を訪問したコロニー人達が驚愕の表情を浮かべ、小さな騒ぎを起こすのはいつものことだ。ケンウッドはいかにも地球通の顔をして入管を通り、ドームに向かって歩き出した。男が数名ドームの入り口で待ち構えていた。ケンウッドが宇宙と地球を往復する度に現れるマスコミの連中だ。宇宙では地球に対してどんなことを考えているのか、取材しているのだ。ケンウッドは鞄から2冊の雑誌を出した。コロニーでは大変珍しい紙製の雑誌だ。電子マガジンではない。これらは、地球へ行くコロニー人が宇宙土産として地球人に見せたり与えたりするものだった。法律で許される範囲での地球人に伝えることが出来る宇宙の情報だった。決して嘘は書いていないが、あまり詳細ではない。宇宙で流行っている芸能や服装などの文化、開拓事業や政治の概要などを簡単に書いているだけだ。記者達もケンウッドが遺伝学者で政治家ではないことを知っているので、あまり掘り下げて取材しない。何か目新しい動きが宇宙で起きていないか、ちょっと聞いてみたいだけなのだ。
 ケンウッドは疲れていたが、お愛想の微笑みを浮かべ、記者の中の2名、それぞれ別の通信社の人に雑誌を分け与えた。文化系と政治系だ。後は記者達が回し読みでもしてどの情報を拾うか決めるのだ。
 マスコミから逃れてゲートに入り、消毒を受けた。係のドーマーが、「お疲れの様ですね」と声をかけてくれた。ケンウッドは、微笑みで彼の気遣いに礼を示した。
 送迎フロアに入ると、ラナ・ゴーン副長官が出迎えた。

「お帰りなさい、長官。」
「有難う。」

 2人は並んで居住区へ向かう回廊を歩き始めた。

「月の反応は如何でした?」
「予想通り、大反響だったよ。」

 ケンウッドは溜め息をついた。

「これから、マザーのプログラムを修正しなきゃならん。たった一文字の過ちで、一つの惑星の人類が絶滅しかけたのだ、大急ぎでやらなければ。」
「地球人にはまだ公表しない方が良いですね?」

 ゴーンが言う地球人とは、ドーマーのことだ。ケンウッドはドーマー達に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいだった。200年まえのプログラミングの過ちのせいで、ドーマー達は生まれてすぐに母親から引き離され、ドームと言う鳥籠の中で一生を働いて過ごすのだ。

「ドーマー達にはとても言えない。全ては一文字の過ちのせいだったと・・・」
「でも、女性誕生の鍵が発見されたと、みんな噂を聞いて喜んでいますよ。」
「噂か・・・どこから漏れたのだろうね。」

 ケンウッドは苦笑した。研究所で働く大勢のドーマーの助手達の誰かが、興奮して外部に漏らしたのだ。彼等の気持ちを思うと、とても罰することは出来ない。

「噂はその程度で留めておこう。鍵が実は過ちの発見だと知られたくない。」
「でも、ハイネ局長には伝えなければ・・・」

 ゴーンが重要なことをケンウッドに思い出させた。

「遺伝子管理局長は、マザーのプログラムの書き換えに認証を必要とする4名のうちの一人ですから。」

2019年2月5日火曜日

囮捜査 2 1 - 3

 短い昼寝の後、ハイネは報告書が届き始める時間帯迄軽く運動することにした。運動施設に行ってジムで歩行トレーニングマシンを使っていると、ダリル・セイヤーズ・ドーマーがやって来て隣のマシンに乗った。部下がこんな行動を取る時は、何か訴えたいことがある時だ。ハイネはちらりと彼を見た。

「話でもあるのか?」

 セイヤーズが「しめた!」と言う顔をした。

「セレック親子の話をジェリー・パーカーにしてみたのですが、パーカーが囮捜査を提案したのです。」
「駄目だ。」

 ハイネは即座に却下した。セイヤーズが囮になりたいと言いそうな気がした。セイヤーズは不満気な表情を見せた。やはり囮になりたいか、とハイネは思った。

「ドーマーはそんな任務の為に育てられるのではない。」
「ですが、遺伝子管理局が保護したクローンばかり狙われているのですよ!」
「警察の仕事にドームは介入しない。」
「捜査協力はするでしょう? メーカーの摘発は合同の仕事じゃないですか。」
「メーカーの摘発は遺伝子管理局の仕事だ。殺人事件の捜査は警察の縄張りだ。」

 ハイネはトレーニング装置のスイッチを切った。セイヤーズも機械を止めた。

「セレック親子と自分を重ね合わせたか、セイヤーズ?」
「それは・・・」
「息子がFOKに襲われたらと心配なのだろう?」
「正直に言えば、はい。」
「北米北部班に、君の息子を捜索させている。見つけ次第、本人の意志と無関係にドームに収容する。」
「何時からそんなことを?」
「君の息子が逃げて以来だ。南部班では、頼りない。流石のレインも我が子には甘いようだ。」

 ハイネはセイヤーズとケンウッド長官との約束など完全に無視するつもりだ。セイヤーズが挑むような目で言った。

「息子が逃げてから既に3ヶ月経つのに、まだ見つけられないのですね?」
「君は18年間隠れ通したじゃないか。」
「しかし・・・何故北部班なのです? 息子は南部にいるのでは?」
「北部でそれらしい少年が目撃されている。不確定だが。」

 セイヤーズはFOKの活動が北部で目立っていることを思い、気が重くなったようだ。口を閉じてしまった。
 ハイネは心の中で溜め息をついた。セイヤーズの親心はわからいでもない。ハイネも自身で育てた経験はないが、娘のことはいつも気になっていた。彼女に我が子だと認めないと釣れない態度を見せていたが、心の奥底では彼女の存在が嬉しかったし、男ばかりの世界での勤務が心配でもあった。今だって、宇宙空間の向こうにいる彼女を思わない日はない。
 ハイネはセイヤーズに少しだけ理解を示してやることにした。

「囮捜査の件は考えてみよう。しかし、ドーマーは使わない。外の警察機関には囮捜査官がいるはずだし、これはあっちの仕事だ。外にこの案を提案しておくから、君はこれ以上口出しするな。これは命令だ。」

 セイヤーズは渋々ながらも、局長の気持ちを囮捜査に向けた成果を持って本部へ戻って行った。ハイネは彼の背を眺め、それからロッカールームに行くと、自身の端末を取り出した。レインに急いでメールを送った。

ーーセイヤーズから目を離すな。また無茶をする恐れがある。

 部下だって、一人残らず彼の大事な子供だった。



 

2019年2月4日月曜日

囮捜査 2 1 - 2

 ハイネの昼食が終わる頃に、セイヤーズから報告書が届いた。あの男、昼飯はまだなんじゃないのか、と思いつつ、ハイネは食器を返却してまた席に戻った。端末を見ると、セイヤーズがいつものまとまりの良い詳細な文章を書いていた。
 海岸で惨死体で発見されたロバート・セレックの父親ナサニエル・セレックは、渡の設計技師だった。息子がクローンであることを世間に知られないよう、頻繁に住居を替えていたのだ。
 昨年、セント・アイブス・メディカル・カレッジ・タウンでセレックはクローン救済基金と言う団体のオフィスビルの設計に携わった。団体の代表は、大学教授で医学博士のミナ・アン・ダウンだった。セレックはクローン救済基金と言う団体名に気を許し、息子がクローンであることをダウンに打ち明けた。
 その時期にロバート・セレックは風邪をこじらせ、危険な状態に陥った。クローン特有の虚弱体質で、彼は心臓が生まれつき弱かった。ロバートは遺伝子管理リストには記載されていない違法出生児だから、巷の病院に連れて行っても遺伝子履歴がコンピュータに入っていない。薬の処方などに時間がかかる。更に悪くすると病院から警察に通報が行く。
 セレックは息子を助けて下さい、と医学博士のダウン教授に頼んだ。ロバートを最初に見せた町医者は、入院させろと言ったが、それにはIDが必要だった。クローンの子供がIDをもらえるのは、18歳になった時だが、ロバートはまだその年齢に達していなかった。 
 ダウン教授はオフィスの設計をしてくれた礼だと言って、病院に話をつけてくれた。お陰でロバートは一命を取り留めた。

ーーセレックは、メーカーから赤ん坊のロバートを受け取って以来、後にも先にも息子がクローンであることを打ち明けた相手は、ミナ・アン・ダウン唯一人だと証言した。

 ハイネは端末でミナ・アン・ダウンの遺伝子履歴を検索した。結果はすぐに出てきた。彼女は今年で59歳、外の地球人だから、外観は70近く見えるだろう。経歴は輝かしく、セント・アイブス・メディカル・カレッジの医学部長を勤めている。


2019年2月3日日曜日

囮捜査 2 1 - 1

 次の日の昼過ぎに、ダリル・セイヤーズ・ドーマーが戻って来た。ハイネは昼食前だったが、打ち合わせ会を終えると副長官執務室から真っ直ぐ本部に戻り、局長執務室でセイヤーズの報告を受けた。

「ナサニエル・セレックが息子の情報を与えた相手が判明しました。」

 セイヤーズは開口一番、外出の成果を告げた。立ったままだ。すぐに部屋を出て行きたい雰囲気を漂わせていた。彼はレインの秘書で、秘書の仕事が溜まっているのだ。ハイネも空腹だったし、時間をかけたくなかった。

「具体的な名前を挙げたのか?」
「はい。セント・アイブス・メディカル・カレッジのミナ・アン・ダウン教授です。」

 ハイネはその名前に聞き覚えがあるようなないような、曖昧な記憶しかなかった。だから、言った。

「面会の様子を報告書にまとめて提出しなさい。ご苦労だった。」

 セイヤーズはホッとした表情で、失礼します、と部屋から出て行った。
 ハイネの2人の秘書達は既に昼食と昼休みを終えて業務に就いていた。ハイネは彼等に「昼に行ってくる」と告げて部屋から出た。ドアを通る時に、第2秘書のアルジャーノン・キンスキーが言った。

「ダウン教授なる人物を調べておきます。」
「頼むよ。」

 第1秘書のネピアは肩を竦めただけだった。ネピアはセイヤーズが気に入らない。昔、セイヤーズが脱走した折に捜索に駆り出され、業務が停滞してしまったことを今でも根に持っている。ドームの平和をかき乱されるのが本当に嫌なのだ。セイヤーズが連れ戻され、あろうことか同じ秘書の業務に就くと決まった時、可笑しい程に不機嫌になった。ただ、この男の良いところは、嫌いだからと言って、相手に苦痛を与えたりしないことだ。多少無視することはあっても、相手が正しい意見を言えば聞く耳を持っているし、挨拶も返す。相手に直接皮肉を浴びせることはあっても、他所で悪口を言いふらしたりしない。
 今回セイヤーズは、本来外出禁止の身分にも関わらず、局長の単独判断で外出許可をもらい、ちゃんと成果を挙げて戻ってきた。局員経験があるネピアは、刑務所の受刑者から情報を聞き出す難しさを知っている。特に遺伝子管理局に逮捕された者が、遺伝子管理局の面会に応じて情報を明かすことは稀だ。多くは反発して口を閉ざす。

 能天気な男だから、相手も気を許したか?

 ネピアはセイヤーズが同じクローンの子供を持つ親同士の気持ちを受刑者セレックにぶつけたことまでは想像出来なかった。子供を持ったことがないドーマーなので、それは仕方がない。だが、セイヤーズの捜査官としての力量は認めるべきだと思った。
 ハイネが閉じたドアを見て、ネピア・ドーマーはさらに思った。

 イラつく男だが、まだ若い。彼には私より長い時間がある。局長をお守りする人間の一人に、あの男は必要だな・・・



暗雲 2 1 - 16

 夕方になって、外に居るポール・レイン・ドーマーから報告が入った。ローズタウン空港の手荷物検査官ガブリエル・モアは逃亡した。前日トーマス・クーパー支局長がドームに召喚されたと聞いた後、急にセント・アイブス・メディカル・カレッジ・タウンに住んでいる兄が急病だと言って早退したのだ。翌朝に出勤して来ないので同僚が連絡を取ろうとしたが電話に出ない。メールもメッセージも梨の礫だった。レインとクーパーはモアのアパートに行ってみたが、既にもぬけの殻だった。
 モアの兄は実在しており、民間の薬品会社に勤務しているのだが、こちらも前日午後から行方不明になっていた。

ーー兄弟揃ってFOKのメンバーである可能性が出て来た。

とレインは報告書を締めくくっていた。
 ハイネはモア兄弟の遺伝子登録を検索した。彼等は本物の兄弟で、裕福な家庭の子供たちだった。大学も大学院も優秀な成績で出ている。だが彼等の思想傾向まではデータベースに載っていなかった。彼等は学校では特に政治活動も思想的集会も参加していなかった。
 所謂「良家の子息」達がどんな理由でクローンを殺害し、医療実験に使用するのか、ハイネは理解出来なかった。毎日食べている肉や野菜も生きていたのだ。その命をもらって自分が生きていることを感謝しているのに、他人を平気で殺害して捨ててしまう、その考え方、感性がどうしても理解出来ない。

 お前は外の世界の汚れを一生知らなくて良いんだよ

 昔、ハイネを育てたコロニー人達は皆異口同音に彼にそう言った。ハイネはその「汚れ」を大気汚染や細菌やウィルスを意味するのだと思って成長した。しかし、大人になって様々な人々と接すると、養育者達が言っていた「汚れ」が実は人間の心の中にある闇のことなのではないかと疑い始めた。想像するだけで恐ろしく思える、人間が持つ残酷性。
多くの人々はそれが自身に跳ね返ることを知っている。そして他人が傷つくのを見れば自身も苦しいのだと悟る。しかし、それが出来ない人々もいるのだ。

 ドームが用済みになった時、可愛い子供達はこの汚れが満ちた世界に出て行かねばならないのか・・・

 ハイネは溜め息をついた。人が何時迄も安全な場所に閉じこもっていられないことはわかっているつもりだ。局員達は仕事とは言え、外に出かけることを厭わない。庶務班も出かけることを苦に思っていない。外に出ないドーマー達も外の情報には飢えている。

 汚れに染まらない心を鍛えてやるのが、我々の新しい役目なのかも知れないな・・・

 ハイネはジョアン・ターナー維持班総代表と近々話し合うべきだなと思った。

 

2019年2月2日土曜日

暗雲 2 1 - 15

 翌日もまだケンウッドは宇宙から戻って来なかった。副長官のラナ・ゴーンが説明するには、彼は委員会の科学者達から引っ張りだこでJJ・ベーリングの能力のことや人工羊水の分析や、その他諸々の質問攻めにあっているのだと言う。
 ケンウッドの留守を預かる3名のドーム最高責任者、ゴーン副長官、ゴメス保安課長、それにハイネ遺伝子管理局長は打ち合わせ会を副長官室で行い、平素と変わらぬ生活を続けていくことで合意した。ゴメスは遺伝子管理局がこの数日外の連邦捜査局と接触したり情報を収集したり支局長を召喚したりと活発に動いていることが気になったが、ハイネがそのことに一切言及しないので、黙っていた。このドーマーの機嫌を損なうとドーム生活が辛くなると言うコロニー人の間での注意を守ったのだ。地球人がすることに口出しは無用だ。
 遅い昼食の後でハイネが昼寝をしようと食堂から出た時、ダリル・セイヤーズ・ドーマーから電話がかかってきた。出ると、いきなり彼は局長に用件を告げた。

「FOKに殺害されたと思われるロバート・セレックの父親、ナサニエル・セレックに面会したいのですが?」
「何の為に?」
「どこで息子がクローンだとばれてしまったのか、心当たりがないか、聞きたいのです。遺伝子管理局は密告を受けたが、密告者が何故ロバートがクローンであると知ったのか調べていないでしょう? セレック親子は旅をして暮らしていました。周囲の人間にすぐには子供の出生の秘密を知られるとは思えません。」
「密告者とFOKの接点を探ろうと言うのか?」
「警察の仕事だなんて仰らないで下さい。警察は密告者の身元を調べもしていないのです。」

 セイヤーズはクローンの息子の父親だ。外の世界に残してきた息子が心配でならない。ハイネは少し黙ってから、質問した。

「日帰りで行ける距離か?」
「早朝に出かければ充分です。心配でしたら、チーフ・ドーソンの班に同行します。」
「では、明日行ってこい。刑務所には私から連絡を入れておいてやろう。道草は食うなよ。」

 ケンウッドや執政官が聞けば反対するだろう。しかしハイネはセイヤーズをドームに閉じ込めるのは無理だと思っていた。この男はその気になればマザーコンピュータも乗っ取れる。だが節度があるし、私欲もない。その心にあるのは彼が愛する人々の安全だけだ。
ハイネはダリル・セイヤーズと言う男を信じることに決めた。

暗雲 2 1 - 14

  昼食を済ませて遺伝子管理局本部に向かう3人は、途中でハイネ局長と出会った。ハイネは珍しく部下より先に昼食を済ませ、散歩で時間潰しをしていた。クーパーの心拍数が一気に跳ね上がった。局長と会うなんて、ドーム退所の挨拶以来だ。まともに顔を見られなかった。彼等は儀礼的な挨拶を交わした後、全員で局長執務室に入った。
 各自席に着くと、ハイネが単刀直入に本題に入った。

「ローズタウン空港で遺伝子管理局の手荷物検査をしている職員は何名いるのだ?」
「3名です。仕事量が少ないので、来年は2名に減らすつもりですが?」

 ハイネがある日付を言った。

「覚えていると思うが、そこに居るレインがメーカーから救出された日だ。あの日、手荷物検査をしたのは、誰だ?」
「ええっと・・・」

 クーパーは端末を出して過去の支局の勤務シフト表を検索した。

「あの日は・・・夕刻でしたね? ・・・ ガブリエル・モアと言う男です。セント・アイブス・メディカル・カレッジで神経細胞の研究をする傍ら、支局で働いています。」
「ほう・・・神経細胞の研究ね・・・」

 ハイネ局長はワグナーを見た。ワグナーの出番だ。彼は少し体を前に傾けて、クーパーに近づけた。

「僕が押収した証拠物件が紛失したのですが、どう考えても手荷物検査の時に失せたとしか思えないのです。」
「何だって?」

 クーパーはワグナーをグッと睨み、それから、レインを見て、局長に視線を戻した。ハイネがじっと青みがかった薄い灰色の目で彼を見つめているのを、彼は勇気を振り絞って見返した。

「モアが盗んだと考えておられるのですか?」
「ワグナーのアタッシュケースを開いて中の物に手を触れた人間が、モアと言う男1人だけなら、そう考えざるを得ない。」
「何を紛失したのか知りませんが、うちの職員に限って、そんな犯罪を犯すとは思えません・・・モアの実家は裕福な医師の家庭ですよ。」

 支局の職員を疑われて、クーパーは怒りを感じた。局長が局員を大事に思うのと同様に支局長も支局職員が大事なのだ。
 しかし彼の怒りを感じないのか、それとも感じても平気なのか、ハイネは淡々と言った。

「食う為に金目の物を盗んだのではないのだ。」

 局長はコンピュータを操作して、中央テーブルに画像を立ち上げた。若い男性の顔だ。
クーパーはそれを見て、ガブリエル・モアだと認めた。マザーコンピュータが、ローズタウン支局のデータから引っ張って来た個人データだ。
 レインがワグナーに視線を向けた。ワグナーは手荷物検査官の顔など覚えていなかったので、素直に「記憶にありません」と言った。

「この男だった様な気がするし、違うような気もするし・・・」

 クーパーは断言した。

「この男です。当日に空港勤務していたのは、モア1人だけでしたから。」
「局長・・・」

 レインが提案した。

「明日、第4チームが外に出るので、俺も一緒に出ます。クーパー支局長と共にローズタウンへ行って、このモアと言う男と握手してきますよ。」
「良かろう。だが、無理はするなよ。」

 ハイネはポール・レイン・ドーマーの平和裏に情報収集活動をする能力を買っていた。
レインはクーパーを送っていく序でにセント・アイブスの様子も見てきたいのだ。トーラス・野生動物保護団体が現在何をしているか覗いてこようと言う魂胆だ。
勿論、単独行動だ。ハイネはあまり深入り捜査はするなと釘を刺して置いた。
 それから、部下に泥棒がいると告げられて不安な表情のクーパーには優しく笑いかけた。

「トム、今日はドームに泊まっていけ。部屋は用意させてある。君の昔の仲間達にも連絡を入れておいたら、今夜は君と一緒に食事をしたいと彼等が言ってきた。」

 クーパーの顔がパッと明るくなった。部屋兄弟達や昔の同僚に会えるのか?!

「本当ですか? 有り難うございます!」

 レインも表情を和らげて彼に話し掛けた。

「俺たちは邪魔をしないから、ゆっくり昔話にでも花を咲かせてくれ。残念ながらアルコール類はないがね。」

暗雲 2 1 - 13

 ローズタウン支局長トーマス・クーパー元ドーマーは現役時代は目立たない局員で、彼自身は町の住人である現在の妻と恋愛に落ちて外の住人になると決意する迄、局長と直接口を利いたことがなかった。だから夜中に局長の名前で直接召喚命令が届いた時はびっくり仰天した。何か重大なミスを犯したのだろうか? 彼は朝食もろくに取らずに一番上等のスーツを着て、ローズタウン支局横の空港から特別機に乗ってドームに飛んだ。
 スーツはゲートの消毒班に脱がされ、預けられることになった。クーパーはその段階になって、自身がもうドームの規則や習慣を忘れかけていることに気が付き、呆然とした。
 外の住人になってから生まれ故郷のドームに帰るのは初めてだ。もっともこの2世紀、全ての地球人の生まれ故郷はドームで、彼等男性は全員母親に連れられて外へ出ると2度と戻らないのだった。クーパーは自身が「一般の地球人」になっていたことに気が付いたのだ。
 消毒を終えると、送迎フロアに入った。そこに北米南部班チーフ・ポール・レイン・ドーマーと第一チーム・リーダー・クラウス・フォン・ワグナー・ドーマーが待っていた。支局長はチーフより格上の筈だが、幹部経験がないクーパーは緊張した。

「遠路はるばるご足労願って申し訳ありませんでした。」

とワグナーが挨拶した。この男は気が良くて、クーパーも親しみを感じる相手だ。だがこの時、ワグナーがクーパー以上に緊張していることに、クーパーは気が付いた。その理由がわからないので、またもやクーパーは不安を感じた。
 レインの方は、いつものことながら格上の支局長に対しても上から目線だ。但し、他のドーマーや一般人の前では顔を立ててくれる。彼はクーパーにこんにちはとだけ言った。
 レインが昼食は済んだかと尋ね、クーパーが未だだと答えたので、3人は食堂へ向かった。

「あまり難しく考えないでもらいたい。支局の職員の行動について、ちょっと調査したいだけなんだ。」

 と言われても、クーパーは不安を拭えない。外に出た元ドーマーがドームに召還されるのは、大概何かの問題が発生した時だ。それに彼は、ワグナーが緊張していることが気になって仕方がない。

「用件を先に済ませた方が良くないですか? 何だか気になって・・・」

するとレインが彼を遮った。

「用件を聞いたら、ますます食欲がなくなるかも知れないぞ。」

そう言われて、ますますますます食欲が減退したクーパー支局長は、食堂でも軽く食べただけだった。

「呼ばれたのは、私だけですね? 出張所のリュック・ニュカネンは来ていないのですね?」
「ニュカネンは関係ない。君も落ち度があって呼ばれた訳ではない。君の所の職員の素行調査だ。」

 気のせいか、ワグナーが小さくなった。

暗雲 2 1 - 12

 夜中に部下から呼び出しをくらうのは、ドームでは珍しくない。ローガン・ハイネ局長にとっても珍しくないことだ。但し、普段夜中に連絡を入れて来るのは外で活動している職員だ。しかし、その夜彼を呼び出した部下が、ダリル・セイヤーズ・ドーマーだったので、要件は見当がついた。セイヤーズはレインと共に夕方保安課の情報管理室を訪れていたのだ。
 2人は殆ど同時に局長室の前に到着した。ハイネは私服で、セイヤーズはまだスーツのままだった。

「まだ仕事をしていたのか?」
「なんとなく、流れで・・・」

 彼等は部屋に入った。真っ直ぐ局長執務机に向かい、机をはさんで座った。

「FOKの情報源が判明したか?」
「はい、死亡したレイ・ハリス元中西部支局長のIDが使用されていました。」

 ハイネは心の奥で、ちぇっと呟いた。あの酔っ払いコロニー人は死んでもなおドームを引っ掻き回すのか?

「無効処理はしていなかったのか?」
「いえ、IDを回収したワグナーが情報管理室に無効通知を出していたのですが、コンピュータのソフトに穴がありました。」
「穴?」
「セキュリティソフトが不完全で、死者のIDを通したのです。」

 ハイネは苦虫を潰した様な顔をした。ソフトの開発はコロニー側に責任がある。しかし、IDをFOKが手に入れたいきさつの方は・・・?

「何故、FOKがハリスのIDを持っていたのだ?」
「ワグナーが、ローズタウンの空港で盗まれたらしいのです。紛失に気づいたのが、ドームに帰投した後だったので、具体的なことは不明ですが、手荷物検査の時に一瞬検査カウンターから目を離したそうです。その機会以外に盗難に遭う可能性は考えられません。」
「すると、盗んだのは支局の職員と言うことになるのか?」
「他に考えられません。」

 ハイネはローズタウン支局の支局長が誰だったかと考えた。元ドーマーだ。その男が雇った現地採用の一般人が職員になる訳だが、身元がしっかりしている人間しか雇わない。
しかし、FOKは、「身元がしっかりしている」良家の子弟がメンバーになっている組織だ。

「敵は手強いな。」

と彼は呟いた。

「ローズタウン支局長のクーパー元ドーマーを明日召還する。彼にスパイの洗い出しをさせる。」
「ワグナーの処分はどうされます? 彼は紛失を報告するのを忘れていました。盗難に遭ったとは思わなかったらしいのですが・・・」

 可愛い弟分に厳しい処分が出なければ良いが、とセイヤーズは案じた。
 局長は彼をジロリと見た。

「ワグナーは紛失に気づいた時点で無効通知を出したのだな?」
「そう言っています。」
「情報管理室で調べれば、何時出したかはわかる。少なくとも、彼は必要な処理はした訳だ。」
「はい。」
「この件は、当然、レインも知っているのだな?」
「彼がワグナーを問い詰めました。」
「ならば、ワグナーの処分はレインに任せる。厳重注意で十分だと思うが、レイン次第だ。」
「わかりました、チーフ・レインにそう伝えておきます。」

 ハイネ局長は、素早く明日の朝一番にすることをメモした。

「もう帰って良いぞ、君もレインもくたびれているだろうから、早く休め。」
「はい・・・お休みなさい。」

 セイヤーズは局長室を退出した。
 ハイネはこの問題を執政官に報告すべきか否か考えた。ケンウッドも博士達も皆、今は女性誕生の鍵を発見したことで浮き足立っている。地球上の殺人事件やテロ事件に巻き込むことは出来ないし、彼等には関係ないことだ。これは地球人の問題だ。
 ハイネは結局執政官に報告することを止めることに決めた。少なくとも、今は言うべきではない、と。

2019年2月1日金曜日

暗雲 2 1 - 11

 ハイネはポール・レイン・ドーマーに北米南部班が管轄するクローン収容施設の警備強化を命じた。FOKの捜査は警察や連邦検察局の仕事なので、ドームは手を出さないと言う官憲同士の暗黙の了解がある。だからレインがする仕事は、収容所の警備員を増員したり、警備システムを整えることだ。局員が警備にあたるのではない。
 レインは、最近の局長は局長らしく命令を出すようになったなぁと内心思った。以前は空の上から地上を眺めている神様みたいな雰囲気で、部下の業務の方向性だけを指示していたのだが、近頃は具体的な指図が多くなった。

 何か局長に心理的変化を起こさせる出来事でもあったのだろうか?

 レインはそれが地球人の女性誕生に結びついているとは想像出来なかった。
 ハイネは少し焦りを感じていた。女性が生まれてくるにふさわしい平和な社会を準備しておかなければ、と心の奥で考えていた。ケンウッド長官が今正に月の地球人類復活委員会本部で、女性誕生の鍵を発見したと発表しているのだ。肝心の地球が暴力で支配されてはならない。
 取り敢えず用件が済んだので、ハイネが帰ってよろしいと言うと、レインは素直に立ち上がり、パーカーは少し拍子抜けした表情でゆっくりと席を立った。クローン殺害の件でもっと情報を持っていないか追求されるのかと警戒していたのだ。しかしハイネは彼からラムゼイの支援者を聞き出そうとはしなかった。パーカーが支援者について何も知識がないことを知っているのだ。
 レインがパーカーを振り返り、目で外へ出ろと合図した。パーカーは局長に「さよなら」と言ってみた。ハイネは頷いただけだった。
 ハイネは最後に出て行こうとしたセイヤーズを呼び止めた。

「例の『お勤め』の時の事件の後日談だ。」

とハイネは言った。セイヤーズは、無礼者を蹴飛ばして気が晴れたので、もう終わったつもりでいた。だから「後日談」と言われて、何か自分にミスがあったかと、少し不安を覚えた。 しかしハイネが彼に言ったのは、2人の執政官に対するドームの裁定だった。
 
「ナカイは昨日、辞表を提出した。本来なら刑事罰になるのだが、罰金を払ったらしい。」
「そうですか・・・」

 セイヤーズは、ナカイとまた何処かで遭い見えるのではないか、とちょっぴり心配に思った。

「それにしても、結果が出るのが遅かったんじゃないですか?」

 彼が言うと、ハイネはフッと鼻で笑った。

「ギル博士とナカイ博士の主張が食い違ったので、執政官同士で揉めていたのだ。ギルは君を害しようとしたのではないと強調し、ナカイを呼んだのは代理で作業をしてもらう目的だけだったと言い、ナカイはギルが君に殴られた仕返しとして君を辱めようともちかけたと言ったそうだ。倫理委員会はナカイが同様の行為を他のドーマーに対しても行っていたと言う証言を数人から得ており、ギルの主張を認めた訳だ。
 それに、周知のことだが、ギルが触りたかったのは君ではなく、レインだからな。」
「私は不思議に思うのですが、どうしてコロニー人はドーマーを触りたがるのです?」

 すると、ハイネは袖をまくり上げ、腕を曲げて力こぶを作って見せた。

「筋肉さ。コロニー人は地球人が重力に耐えられる筋肉を持っていることを羨ましがっている。彼等は地球がルーツなのに、この惑星の重力が辛いのだ。だから、地球人の筋肉に憧れている。ドーマーは健康維持の為に、どの部署でも必ず体力作りを義務づけて鍛えている。コロニー人の目から見ると、我々の肉体は美しいのだそうだ。触れて、その弾力性や強靱さを確かめたいのだ。」
「確かに、レインは顔を見ただけでは想像出来ないほど見事な筋肉を持っていますが、まず他人に触らせないでしょう。コロニー人だけでなくドーマーにも触らせませんよ。」
「接触テレパスだからな。しかし、若い執政官の多くはそれを知らない。レインが触らせてくれないのは、孤高を保つ為だと思い込んでいる。」

 ハイネはセイヤーズを見て、片眼を瞑って見せた。

「君だって、脱げば凄いじゃないか。」
「はぁ? 貴方に言われたくありませんよ・・・」

 ハイネ局長は年齢を感じさせない見事な筋肉美を持っているのだ。セイヤーズはこの大先輩である上司をちょっとからかってみた。

「噂によれば、局長は『お誕生日ドーマー』を毎年20回は務められているとか?」
「ああ・・・その話には触れてくれるな。」

 少し頬を赤らめてハイネは顔を横向けた。まさかの若造からの反撃だ。20回は大袈裟だが、まだ「お勤め」の指名をしてくる女性執政官は数名いるのだ。彼女達は彼がアイダ・サヤカと結婚していることを知らないし、彼とアイダの仲の良さにやっかんでいる者もいる。しかし、「お誕生日ドーマー」の話題は、ドーマーと女性だけの秘密だ。公の場で語り合う事案ではない。
 ハイネはわざとらしく時計に視線を向けて、「長話をしたな」と呟いた。