2018年6月30日土曜日

待機者 5 - 4

 アレクサンドル・キエフ・ドーマーは声を掛けてくれた局長に熱い眼差しを向けたが、局長は既に彼に興味を失い、クリスチャン・ドーソン・ドーマーに注意を向けていた。キエフと目を合わそうともしないので、キエフはがっかりして、また直属の上司レインに目を向けた。

「ドーソン・ドーマー 」

と局長は、南部班に協力をやんわり断られた北部班チーフに声を掛けた。

「君の担当地域は暴風雨の影響が少ない様に思われるが、船舶関係の従事者は少なくないだろう? 大西洋に漁に出ている漁業関係者が多い筈だ。」
「その通りです。」

 ドーソンは失念していたものを局長に指摘されて、目が覚めた様な表情になった。

「私のチームは大西洋岸の海洋関係者に注意を払いましょう。」
「宜しく頼む。」

 局長はまたキエフに視線を向けた。キエフはレインの後頭部を熱心に見ている。

「キエフ・ドーマー・・・」
「はいっ!」

 またキエフが裏返った声で返答した。局長が不意打ちを食らわすので、戸惑っていた。

「衛星データは北米南部だけのものではない。君は全てのチームと密に連絡を取り合いなさい。一極に集中していては役立たずと思われるぞ。」
「は・・・はい・・・」

 真っ赤な顔になってキエフは俯いた。レインに注意を向けてばかりいることを局長からやんわり指摘されたと悟ったのだ。
 ハイネ局長はそれ以上部下に指示することはないと判断した。部下達は細かな指図を出さなくても自分達で十分考えて活動する。彼は常に部下達を全面的に信頼し信用していた。

「では、これで解散する。食堂の混雑も少し緩和される頃だから、お昼ご飯に行って来なさい。」

 ハイネの解散宣言で、遺伝子管理局のドーマー達は再びざわざわと私語をかわしながら会議室から退出し始めた。
 局長はネピア・ドーマーとキンスキー・ドーマーに端末で書類を見せ、彼等の端末に転送していた。何かの打ち合わせだ。それが終わるタイミングを見計らって、クロエル・ドーマーが駆け寄った。

「局長、局長、お昼をご一緒して良ござんすか?」

 レインはその時、キエフがすり寄って来るのをどう追い払おうかと考えていたのだが、その声を聞くと、いきなり走り出し、クロエルの横に立った。

「局長、俺もご相伴させて下さい。」

 背後でキエフがためらっているのを感じたが無視した。キエフは局長も好きなのだが、大物なので自分からは近ずけないのだ。
 ハイネは秘書達を見た。ネピア・ドーマーが何か言う前に、早食いのキンスキー・ドーマーが言った。

「私は1人で食べるのが好きですから、お先に失礼します。」

 第2秘書が局長との昼食を遠慮したので、ネピア・ドーマーも慎ましく辞退することにした。

「私はまだ書類整理がありますから、どうぞお先にお昼になさって下さい。」

 ハイネは秘書をまだ誘っていなかったので、彼の顔を潰したことにならない。それにネピアは騒がしいクロエルが苦手だった。
 賑やかなクロエル・ドーマーとどっちかと言えば無口なレインの取り合わせが奇妙だったが、ハイネは笑顔で、

「では、3人で行こうか。」

と言って、レインを内心ホッとさせた。

待機者 5 - 3

 ローガン・ハイネ遺伝子管理局長は食堂へ直接行かなかった。彼は本部に戻ると大会議室に入った。そこには暴風雨のお陰で滅多に顔を合わせることがない局員達が集まって、ざわざわお喋りしていた。局長第1秘書のネピア・ドーマーが静かにと声を張り上げても聞こえないのか、静かにならない。ネピアはチーフ達を呼び集め、局員達を黙らせろと言いつけた。丁度そこへハイネが入って来た。
 途端に局員達は口を閉じて静かになった。チーフ達は互いの顔を見合わせ、内心笑いたいのを我慢し合った。ネピア・ドーマーも経験豊かな年長の先輩だが、局長は放つオーラが違い過ぎる。
 ハイネは大会議室が最初から静まり返っていたかの様に、何も言わずに壇上に向かった。集まっているのは外勤務の局員だけなく、内勤者も全員集合していた。いないのは内務捜査班だけだ。遺伝子管理局の人間ではないが任務は密接に関わっている航空班も数人代表が来ていた。
 ハイネは壇上に立つと、「ヤァ」と声をかけた。

「どうやら全員無事に風に吹き飛ばされもせずに戻って来た様だな。」

 彼は南米班のホアン・ドルスコ・ドーマーに視線を向けた。

「カリブ海の南は嵐の影響が出ていたか?」
「ベネズエラの海岸で高潮の被害が出ました。幸い死傷者の情報はありません。」

 ハイネは軽く首を振った。そして議場内を見回した。

「暴風雨の後はいつものことだが、死傷者や行方不明者が出る。遺伝子照合の問い合わせも増える。今回の暴風雨は過去20年間で最大の勢力だそうだ。被害は甚大な物になるだろう。現役局員だけでは手が足りなくなると予想される。内勤者で業務内容を調整できる者は経験地域のチームに協力をしてやって欲しい。」

 北米北部班は目下のところ暴風雨の影響はないと思われたので、チーフのクリスチャン・ドーソン・ドーマーは提案した。

「うちの班員から希望者がいれば南部班に貸し出します。」

 レインは有り難かったが、北部班が見た目より暇でないことは知っていた。彼も若い頃一時的に北部班にいたことがあるのだ。

「北部班の申し出は有難いですが、先ずは内勤のお力をお借りしたいと思います。」

 外勤務の局員が引退して内勤になっていることが多いので、地理的知識は豊富だ。暴風雨の被害がどの地域に出易いか、彼等はよく知っている。

「被害はメキシコ湾沿岸に多いと思われます。カナダ国境付近で被害があれば北部班のお手伝いをお受けしますが、今回の暴風雨はフロリダやルイジアナの地理を知っている人の協力が必要になるかと・・・」
「僕ちゃんはドルスコ・ドーマーんとこの協力を要請します。」

と言ったのは中米班チーフ、クロエル・ドーマーだった。彼の担当地域は暴風雨の発生源でもあり、最も大きな被害が出ているのだった。それに島が多い。地球に女性が生まれなくなってから人口は激減したが、それでも有人島はかなりの数だ。
 ホアン・ドルスコは頷いてクロエルに了承したと伝えた。
 ハイネはアレクサンドル・キエフ・ドーマーに視線を向けた。

「衛星データ分析官。」

とハイネに呼ばれて、レインの坊主頭を後ろからぼーっと見つめていたキエフは驚いた。

「はい?!」
「君は衛星画像から、嵐の前と後に大きな違いが出ていると判断したら、即刻チーフに伝えなさい。」
「は・・・はい!」

 キエフの声が裏返ったので、日頃彼と喧嘩している局員達はクスッと笑った。

2018年6月29日金曜日

待機者 5 - 2

 ケンウッドはハイネ局長にも持ち場に戻ってよろしいと言い、遺伝子管理局長は持ち場ではなく昼食を取りに去った。長い回廊ではなく近道で出産管理区の裏通路を抜けて行く出口へ去って行った。
 ラナ・ゴーン副長官とケンウッドは窓から滑走路上のシャトルを眺めた。

「地上機はもう運行をキャンセルしているのだろうね?」
「その筈ですわ。気象の変化に関して言えば、地球人の方が用心深いですもの。直接生活と関わっていますからね。」
「アフリカからの航空機は明日の嵐が過ぎた後に来るのだろう・・・」

 ラナ・ゴーンが彼を振り返った。ちょっと微笑んでいた。

「アイダ・サヤカがアフリカから戻って来ると思ってらっしゃるの?」
「違うのかね?」

 ケンウッドが面食らうと、ゴーンは笑った。

「大西洋横断は距離的に早いですけど、地上航路は色々ありますのよ。」
「えっ? それは・・・」
「カイロからヨーロッパを経由して北極圏を飛んでカナダから南下して来る方法もあります。」

 仕事で出張したことは数回あるが、地球上の移動となるとケンウッドは全く素人だ。航空機と車以外の交通手段を使ったこともない。一方ラナ・ゴーンは執行部役員時代に地球上のドームや分室を隈無く巡って来たので、船舶や鉄道にも詳しかった。地球生活が長いアイダ・サヤカも若い頃は親友で同僚だったキーラ・セドウィックと何度か旅行していたと言うから、今回もケンウッドが知らない行程で戻って来る可能性があった。

「すると鉄道で帰って来ることも考えられるのかね?」
「暴風雨の時は鉄道も止まりますわ。」

 ゴーンは肩をすくめた。

「どの方法で帰って来るにしても、どこかで嵐をやり過ごさなければならないでしょう。」
 
 窓の外のシャトルが動き始めた。外の人間にはドームの内部が見えない。しかし、ケンウッドはいつもそれを忘れて去って行く人々に手を振ってしまう。それをラナ・ゴーンは微笑ましく眺めた。

 この人の純粋なところにドーマー達は惹かれるのね・・・



2018年6月28日木曜日

待機者 5 - 1

 視察団は慌ただしく昼食を終えるとゲストハウスに戻り、帰り支度をした。そしてドーマー達がいつもの時間に食堂へ繰り出す頃に送迎フロアに集合していた。全員が遅れずに集まったのは、暴風雨の接近のお陰だった。まだ雨は降り出していなかったが、風が出て来ており、南の空に真っ黒な雲の前線が見えた。それを見ただけで宇宙から来た大富豪達は怖気付いた。
 ケンウッドも不安になり、引率の地球人類復活委員会の執行部役員にそっと囁きかけた。

「出発を遅らせた方が安全じゃないかね?」
「否、これぐらいで良いんですよ。」

と役員が片目を瞑って見せた。

「遅れたら遅れたで、また厄介な仕事をお宅に押し付けることになるしね。」

 もし暴風雨のせいで事故でも起きたら、それはアンタ等の責任だからな、とケンウッドは心の中で呟いた。何が起きようが、ドームの外で起きることは関係ない。
 挨拶に顔を出したローガン・ハイネ局長は女性達に囲まれていた。同じく挨拶に出て来た維持班総代のジョアン・ターナー・ドーマーが気の毒な程人気を独占していたが、ターナーは寧ろ安心しきった顔で出産管理区代表で並んでいる副区長のシンディ・ランバート博士と談笑していた。
 副長官のラナ・ゴーン博士は視察団の男性達と別れを惜しんでいた。恐らく演技なのだろうが、なかなか真に迫った寂しがりようだ。
 執行部役員が声を張り上げた。

「それでは皆さん、ドームからお暇いたしましょう。皆さんの秘書や警護の方もシティから到着しましたので、搭乗ゲートに向かいます。」

 ケンウッドは長官として挨拶しなければならない。彼は短い方が喜ばれるとわかっていたし、実際問題、あまり時間的余裕が客の方になかった。

「それでは視察団の皆様、お帰りの旅の安全をお祈りしております。ご無事にお家に着きますように!」

 そして視察団はさようならと口々に挨拶を言ってゲートの向こうに消えて行った。クロワゼット大尉も、レインとハイネにサインをせがんだ女性2人組も、宇宙へ旅立って行った。
 笑顔で手を振り続けていたケンウッド達は、ゲートが閉まると、ホッと肩の力を抜いた。本当はシャトルが飛び立つ迄気を抜けないのだが、人間がいなくなると安心してしまう。
 ケンウッドはランバート博士とターナー・ドーマーに持ち場に戻るようにと指図した。2人共喜んで解散して行った。

「今夜のビールは美味しいでしょうね。」

とラナ・ゴーン博士が呟いた。ハイネが振り返った。

「ご相伴しましょうか?」
「お心遣い有難うございます。」

 彼女が笑いながら言った。

「でもクロエルがいますから。」


2018年6月27日水曜日

待機者 4 - 6

「俺はクロワゼット大尉の心中なんて考えもしませんでしたが・・・」

とレインは言った。

「もし、昨晩の試合で俺が勝っていたら、何か彼を変えた可能性はあったでしょうか?」
「どうだろうな・・・」

 ゴメスは首を傾げた。

「寧ろ地球人に負けたと勝手に恥じて、更に荒れたかも知れん。」

 保安課長はポール・レイン・ドーマーの接触テレパスの能力を知らない。レインは新入りのコロニー人に能力を教えるつもりはなかった。彼の能力は改造型遺伝子ではなく、地球人が太古から持っていた能力の一つなので、遺伝子管理リストでは普通の個性として記載されているだけだ。要注意事項になっていないので、殆どの執政官は読み飛ばし、知らないままで彼と付き合う。ファンクラブの連中さえ知らないのだ。

 あの男が俺にキスをしたのは、只の気晴らしだったのか・・・

 酷くつまらない気分になった。クヨクヨ悩んでいても仕方がない。
 レインは話の方向を楽しい方へ変えてみた。

「俺が彼の経歴を知っていて対戦したら、勝てたでしょうか?」

 ゴメス少佐はレインをジロリと見た。

「そうさなぁ・・・君は技術は高い物を持っているし、動きも無駄がなくて速い。だが・・・」
「だが?」
「君は人を殺したことがないだろう?」
「・・・」

 ゴメスが遠くを見る目付きになった。

「クロワゼットも俺も宇宙の海賊相手に戦闘を繰り返して来た。大概はロボット戦なのだが、白兵戦もやったことがある。一度人間をこの手にかけてしまうと、歯止めが難しくなるんだ。君が知っている正々堂々とした戦いなんて、特殊部隊では通用しない。俺が言いたいのは・・・」

 少佐はレインを振り返って苦笑した。

「クロワゼットはどんな汚い手を使っても君を負かそうとするってことだ。」

 それならこっちは接触テレパスを使うまでだ、とレインは思ったが口に出さなかった。そしてもっと楽しいことを思いついた。

「少佐、俺を保安課の訓練所で教授していただけませんか?」
「君を?」

 ゴメスが驚いた。遺伝子管理局の職員は十分訓練を受けている筈だ。ドームの外で実戦を経験する確率も高い。

「君には素晴らしい先生がいるだろう?」

 誰のことを言っているのか、レインは理解した。彼は首を振った。

「局長は駄目です。あの方は忙し過ぎます。先日の少佐との試合は、偶々局長が普段より早い時間にジムに来られたので実現したのです。俺が局長に教わろうと思ったら、真夜中迄待たなきゃいけません。」
「そうなのか・・・」

 ゴメスが笑顔で頷いた。

「それなら、遠慮なく訓練所に来てくれ。君の部下も連れて来て良いぞ。」




2018年6月26日火曜日

待機者 4 - 5

 中央研究所の食堂の特設ステージで中米班のバンドが軽快なラテン音楽を演奏していた。視察団は早めの昼食を摂って予定より早く宇宙に帰ることになった。暴風雨の北上が少し遅くなったので、風雨が酷くなる前にシャトルを飛ばしてしまおうと言う運行会社の判断だ。富豪様達はユカタン半島旅行の旅装を解かずにそのまま出発するつもりで、特に準備もせずにのんびりと音楽を聞いている。踊っている人もいた。ドーマー達は仕事をしていたし、この日が休日に当たっている者は視察団と出会さないよう、図書館やアパートに籠っていた。だから視察団の相手をしているのは手が空いた執政官等のドーム在住コロニー人達だった。
 ポール・レイン・ドーマーは森の端にいた。効力切れ休暇なのでアパートで寝ていても良かったのだが、むしゃくしゃした気分で眠れなかった。遊歩道から見えない植え込みの陰に設置されているベンチに座ってぼんやりしていると、「隣に座って良いか?」と声を掛けた人物がいた。顔を向けると、保安課長ロアルド・ゴメス少佐だった。コロニー人に嫌だと言えないドーマー、レインは口の中で小さく「どうぞ」と答えた。
 ゴメスは少し間隔を開けて腰を下ろした。

「昨晩は俺の元部下が君の部下達に嫌がらせをしたそうだな。」

とゴメスが言った。

「すまなかった。」

 レインはぶっきらぼうに言った。

「元部下の行動に貴方が責任を感じる必要はありませんよ。」
「だが、彼がここに来ている間は俺があいつの相手をするべきだった。あいつの心の闇の深さを推し量ってみるべきだったな。」

 心の闇? とレインは胸の内で呟いた。そんなモノは昨晩のキスの瞬間、砂粒ほども感じなかった。あの男はただレインを見て、女だったら良いのに、と卑猥な想像をしていただけなのだ。
 レインはまた吐き気を覚えたが、なんとか少佐に気づかれずに抑制出来た。

「あの男は俺と同じ事故で負傷したんだ。」

とゴメスが説明を始めた。

「俺の膝が完治したと言っても事故前と同じでないのと同様に、あの男の精神も衰弱してしまったのだ。自信を喪失したと言うのかな。体は治っても特殊部隊の訓練にすらついて行けなくなった。俺は病院で見た地球の映画でこの惑星に魅せられて、人生を初めからやり直す決心をしたのだが、クロワゼットは特殊部隊を諦め切れなかった。宇宙連邦軍の花形だからな。栄光の道を進む筈だった故に挫折を認めたくなかったのだろう。
 俺は除隊する時に彼を誘ったんだが、彼は軍隊に残った。未練があったのだ。リハビリを続ければ部隊に戻れると言う儚い希望を持っていたんだな・・・。
 だが軍隊は甘くない。故障した兵隊を抱えていたら、部隊が全滅する可能性は十二分にあるのだ。だから、クロワゼットは後方支援に回された。後方支援の任務がくだらないなんて、俺は思っていないぞ。補給部隊や衛生兵がいるから、安心して前線で戦えるのだ。
だがクロワゼットは物資運搬の護衛や見張りと言った仕事に我慢出来なかった。もっと華やかな仕事を望んだ訳だ。」
「広報は華やかですよね・・・」

 レインはなんとなくゴメスの話に引き込まれた。

「だが、特殊部隊の華と広報のそれは違うでしょう? 俺にもなんとなくわかりますよ。
遺伝子管理局の外勤務の局員が、まだ働ける年齢で体調を崩して内勤に就くことを余儀なくされたら、悔しい筈です。内勤も重要な仕事ですが、地味なので、若いうちに内勤に振り分けられる者は大概士気が下がるんです。」

 ゴメスは頷いた。

「宇宙連邦軍の素晴らしさを世間に知らせる仕事を、クロワゼットは軽蔑しているのだろう。軽蔑すべき仕事しか出来ない己に苛立っている。」

待機者 4 - 4

 ビル・フォーリー内務捜査班チーフは局長執務室の控えスペースで大人しく座って待機していた。奥の執務机ではハイネ局長が日課の新生児と死亡者のリストに目を通し、受理の署名を続けていた。機械的に行なっているように見えるが、ちゃんと全部に目を通し、読んでいるのだ。だから時々手を止めて、第1秘書を呼び、内容の再確認を求める。新生児のリストはドームの出産管理区と分室から送られて来るので信頼性が高いが、死亡届けはそうもいかない。実際に死亡した日付と届出があった日がずれていたりすると、その理由が必要となり、理由に納得がいかなければ調査対象になる。死因が何かは遺伝子管理局の関知するところではない。自然死だろうが病死だろうが他殺だろうが、そんな調査に遺伝子管理局は関わらない。遺伝子管理局が関心を抱くのは、死亡日時と死者と遺族の関係だ。死者の遺産が正しく相続されるのか、死者の遺伝子管理はどうなっているのか(つまり、土葬なのか火葬なのか、献体されたのか)と言うことだ。死者の細胞を遺伝子管理局の許可なしに研究やクローン製造に使用してはならない、それを監視する訳だ。
 第1秘書のネピア・ドーマーは自身の机に向かって仕事をしていた。彼は局長の崇拝者で、局長の邪魔をする人間は例え長官であろうと許せない、と言う人だった。それ故にフォーリーは大人しく局長の手が空くのを待っていた。内心では前第1秘書ジェレミー・セルシウス・ドーマーが懐かしかった。セルシウスは彼の部屋兄弟の一番年長で、彼にとっては尊敬し愛する兄だ。まだ元気で養育棟で教官をしているが、秘書時代は面会者を要件の重要度に合わせて局長と会わせていた。内務捜査班の要件など、常に重要案件扱いにしてくれて、局長の日課に割り込ませても平気な人だったのだ。それなのに、ネピアの石頭ときたら・・・
 ハイネ局長がコンピュータから顔を上げて控えスペースを見た。

「フォーリー、何か報告か?」
「些細なことです。どうぞ日課をお済ませ下さい。」
「もう終わった。」

 局長はファイルを閉じて、フォーリーを手招きした。秘書の介入がない内にフォーリーは急いで執務机前の席に移動した。

「昨夜ジムで起きた案件です。当事者の事情聴取は終了し、何もなかったことにして欲しいと要請されましたので、受諾しました。取り敢えずご報告を・・・内容はあまり愉快な話ではありません。」

 ハイネはフォーリーの報告書に目を通した。表情を変えなかったが、不愉快に思った筈だ。前回視察団訪問の時にも問題行動を起こした宇宙連邦軍の広報が、ジムでドーマー達に嫌がらせとも取れる行為をした後、注意した遺伝子管理局幹部と格闘技の試合をして勝利し、その「ご褒美」に幹部からキスを奪ったのだ。愉快と思う上司はいないだろう。
 ハイネが尋ねた。

「レインは地球人保護法違反でクロワゼット大尉を訴える意思はないのだな?」
「挑発に乗った自分が浅はかだったと反省していました。」
「負けるとキスを許すと言う約束で試合をしたのだな?」
「はい。勝てば大尉に謝罪させると言う約束だったそうです。」

 ハイネは黙ってクロワゼット大尉の経歴を検索した。コロニー人の個人情報をドーマーが探ることは許されないが、今回の視察団のメンバー達は自己紹介をドームのネットに載せていたのだ。

「確かに、レインは浅はかだったな。」

と局長は呟いた。

「クロワゼットはゴメス少佐の部下で同じ特殊部隊に在籍していた。耐重力訓練も受けているし、格闘技も普通の軍人より出来る。レインはこの情報を見ずに試合の申し込みを受けた。」
「内務捜査班としては、事件はなかったものとして処理します。」
「そちらに任せる。これ以上騒いでもレインにとっては不快指数が増すばかりだろうから。」



2018年6月25日月曜日

待機者 4 - 3

 ポール・レイン・ドーマーは日課の早朝ジョギングに出かけた。抗原注射の効力切れで体が重たく、昨夜の事件もまだ頭の中に居座って気分が悪かったが、運動をサボるのは気持ちが悪いことだった。ビル・フォーリーの訪問を受けたので出かけるのが遅くなった。それに効力切れの日は速く走れない。いつもの半分の距離を走ってアパートに戻り、シャワーを浴びて着替えてから食堂へ出かけた。打ち合わせを兼ねた朝食会だ。出席は義務ではないと言っても、チーフとリーダーは出るべきだと考えられており、レインはどんなに体調が悪くても部下達と朝食を摂るのが習慣になっていた。
 その朝は普段より食堂が混んでいた。暴風雨が北上しつつあるので、外にいたドーマー達が戻って来ているのだ。維持班も遺伝子管理局も昨夜遅くから今朝にかけて続々とドームの中に帰還していた。いないのは暴風雨の影響を直接受けない南米班だけだ。レインの北米南部班は全員揃っていた。妻と朝食を摂る筈のクラウス・フォン・ワグナー・ドーマーさえテーブルに着いていたので、レインは危うく席がなくなるところだった。おはよう、と声を掛け合って、レインは椅子に座った。

「チーム全員が揃うのは珍しいんじゃないか?」
「そうですね! 暴風雨のお陰ですよ。」

 外へ出る予定だったチームも今日は外の嵐が過ぎ去る迄待機だ。北米北部班は任務地が北なので仕事に関係ないと思われたが航空機が飛ばせないので、やはり待機だ。中米班が慌ただしく食事を摂っていたので、レインの部下の誰かが声を掛けてみた。

「君達は出動するのか?」
「ご冗談を。」

 中米班の局員が笑った。

「今日はこれからバンド演奏するんすよ。」
「演奏?」

 会話を聞いた人々が振り返った。

「演奏って?」
「視察団のお耳を慰めにね。」
「旅行が中断されちゃったんで、退屈させないようにアイデアを出せって長官からクロエル・ドーマーに協力依頼があったんす。そんじゃ、ちょいと楽器でも鳴らそうかってことになって。練習する暇もないのに・・・」
「練習って、君等は毎週末にバーで演奏してるじゃんか。」
「バーでやる曲と広場で鳴らす曲は違うっす。」

 口では文句を言っているが、中米班の連中は楽しそうだ。さっさと食べ物を胃に入れて食堂を出て行った。
 北米南部班は半数が朝からぐったりしていた。効力切れもあるが、昨夜の事件が彼等の気分を下げていた。チーフがコロニー人にキスをされた。それも衆人環視の中で。当人は言うまでもなく、チーム全員にとっても屈辱だった。
 ワグナーがそっとレインに尋ねた。

「局長に報告しますか?」
「否。」

とレインはぶっきらぼうに答えた。

「今朝、内務捜査班が事情聴取に来た。」
「フォーリー・ドーマーが?」
「ああ・・・俺は訴えるつもりはないと言った。俺が浅はかだった、それだけだ。」
「しかし・・・」

 パトリック・タン・ドーマーが顔を怒りで赤くした。

「向こうは明らかに嫌がらせを楽しんでいましたよ!」
「わかっている。」

 レインは自分が怒れば事態がもっと悪化するとわかっていたので、努めて平静を装った。

「挑発に乗った俺が悪い、そうフォーリー・ドーマーに言った。それで内務捜査班は事件性なしと結論を出した。だから、君達はこれ以上昨夜の件を蒸し返すな。コロニー人は地球人が怪我をしない限り、動いてくれない。相手は出資者様だからな。」
「たかが軍人じゃないですか。」
「たかが軍人、されど軍人だ。地球の軍備は連中が管理している。機嫌を損ねると大陸間の移動を制限されるぞ。そうなると執政官の研究にも支障が出る。」

 そしてレインはテーブルを囲む者達だけに聞こえる声で呟いた。

「あの男はまた来る。その時に何が起きるか、誰にもわからん。」

2018年6月24日日曜日

待機者 4 - 2

 ビル・フォーリー・ドーマーはポール・レイン・ドーマーが口にしたケンウッド長官への批判を無視した。彼は長官が視察団とドーマーとの軋轢に心を砕いていることを知っていた。クロワゼット大尉の行動は長官も気に入らない筈だ。だが、残念なことに、法律に違反していると言えないのだ。大尉はつきまとうだけで、ドーマーに触った訳ではない。怪我をさせたこともないし、仕事の邪魔をしたのでもない。仕事の後の自由時間につきまとう、それだけだ。だから内務捜査班も監視しているだけだった。そして・・・
 遂にクロワゼット大尉はやってしまったのだ。

「君はクロワゼットと試合をしたな?」
「俺が申し込んだのです。勝負して、俺が勝てば大尉が部下達に謝罪すると。」
「そして君が負ければ・・・」
「彼が俺にキスをする・・・」

 レインは思い出して吐き気を覚えた。なんとか我慢したが、フォーリーと目を合わせたくなかった。フォーリーが情け容赦なく質問した。

「君には特殊能力がある。あの男の感情を感じただろう?」
「思い出したくありません。」

 フォーリーがまた端末を見た。

「あの男は同性愛者ではない。寧ろ同性愛者を見下す言動を取ったと言う証言をコロニー人から得ている。彼が君にキスをしたのは、君を侮辱するのが目的だ。」

 そんなことはわかっている。

「だから何なんですか?」

 レインは立ち上がった。

「あいつの誘いに乗ってしまった俺の失態ですよ! たかがキスで軍人を怒らせてドームの運営に支障をきたすことになれば、俺は・・・」

 怒りでそれ以上は言えなかった。彼は感情をぶつける対象がなく、思わず宙に向かって唸った。
 フォーリーは動じなかった。レインが感情の波を鎮めるのを待って、尋ねた。

「君はアンリ・クロワゼット大尉を訴えないのだな?」
「訴えません。」

 フォーリーが初めて溜め息を付いた。

「あの男はまた来るぞ。」
「次は負けません。」
「レイン・・・」

 レインはフォーリーを振り返った。

「俺が負けたのは、あいつがコロニー人だとナメてかかったせいです。次は上手くやれます。あいつをぶちのめして、床に這わせて、謝罪させます。」

 それは局長の役目だ、と言おうとしてフォーリーは止めた。局長の最近の元気のなさは彼の耳にも入っていた。局長が負けるとは思わないが、やはり高齢が気になった。
 彼は端末にレインからの聞き取り調査の結果を記録して立ち上がった。

「では、今回はコロニー人に違反はなかったと結論着けるが、それで良いか?」

 レインはボソッと答えた。

「それで結構です。」


待機者 4 - 1

 ポール・レイン・ドーマーの独身者用アパートに客が来ることは滅多にない。ごく稀に部屋兄弟が訪ねて来るだけだ。だがその日の訪問者は異例で、好ましくない事態にしか現れない人物だった。
 レインは部屋に水しかないことを詫びた。だが独身者の部屋とは大概がそんなものだ。欲しいものがあれば食堂に行けば何でも手に入るし、コンビニも近い。

「こちらこそ、早朝に押しかけて申し訳ない。」

とビル・フォーリー・ドーマーが言った。早朝だし、彼も独身者用の部屋に住んでいるのだが、きちんとスーツを着用していた。仕事で来ているのだ。そしてレインは彼が来た理由を承知していた。

「眠れなかったので、時間なんて気にしていません。」

 レインは吐き捨てるように呟いた。効力切れの時はしっかり睡眠を取れとか、体を十分休ませろ、なんて常識的な忠告をフォーリーは言わなかった。内務捜査班は外に出ないし、彼は抗原注射の経験がない。しかし怒れるドーマーの相手は何度も経験して来た。

「経緯の確認をしたいのだが?」
「目撃者が大勢いたでしょう?」

とレインは仏頂面で言った。

「俺が自分で招いたことです。俺の失態だ。貴方のお手を煩わせることではありません。」

 彼の1人にしておいてくれ信号をフォーリーは無視した。端末のメモを出して確認した。

「アンリ・クロワゼット大尉は昨日午後9時過ぎにジムに現れ、若いドーマー達の周囲をうろつき始めた。これは20人近くから証言を取った。」
「徘徊は罪ではありません。」
「彼はパトリック・タンにつきまとった。」
「タンは全く大尉を相手にせず、大尉も半時間も経たない内に飽きました。」
「タンもそう言っていた。」

 レインはちょっと驚いた。

「タンから証言を取られたのですか? ここへ来られる前に?」

 まだ午前6時になっていない。レインは部下を休ませたい。例え上司と雖も可愛い部下の休息を妨害して欲しくなかった。フォーリーはレインが何を思おうと彼自身の任務を遂行する。そう先輩のジャン=カルロス・ロッシーニから仕込まれた。そしてロッシーニの師匠は・・・。
 
「タン・ドーマーは彼の方から私に連絡してきた。クロワゼットが君にした仕打ちに責任を感じたのだ。」
「彼の責任ではありません。」
「私もそう言ったぞ。」

 フォーリーは滅多に笑わないし、冗談も言わない。彼は次の証人に触れた。

「クロワゼットは次にカルロス・ドミンゴ・ドーマーを追いかけた。」
「カルロスは神経質な男なのです。」
「クロワゼットの嫌がらせに我慢出来ずに君に訴えたのだな?」
「耳元で卑猥な言葉を呟かれ、行くところ行くところで手の触れる距離に立っていられたら、誰でも嫌になります。」
「ドミンゴ・ドーマーは何故自分で抗議しなかった?」
「コロニー人に若いドーマーが反抗すると思いますか?」

 レインは内務捜査班が何もしなかったことに腹が立った。

「相手は、出資者様ですよ。長官でさえ遠慮なさっている・・・」


2018年6月23日土曜日

待機者 3 - 10

 レインと別れたハイネは図書館に行った。そこではケンウッド長官とヤマザキ医療区長がロビーでソフトドリンクを飲みながら彼を待っていた。局長がそばに来て挨拶すると、彼等は場所取りをしておいた4人用ブースに入った。図書館は書物を閲覧するだけでなく、映像を見たり音楽を聴いたりする。だから防音設備の整ったブースがたくさんあったし、利用する人数によって広さも様々だった。
 密談するにもってこいの場所だが、一応ヴィデオの借り出しをしておいたと言って、ヤマザキがスクリーンのスイッチを入れた。あろうことか、それはドームの外、巷では普通にレンタルされているポルノヴィデオだった。しかも出演者は全員男性と言う安っぽいものだ。女優はギャラが高いし、身元もバレるので、この手の安い仕事は絶対にやらない。親族がさせない。女優が出てくるのは、もっと高価な映像だった。
 ケンウッドもハイネも異性愛者なので、ブーイングだったが、ヤマザキは見るために借りたのではないので、と平気な顔をしていた。音声を消して、彼は友人達に向き直った。

「カリブ海の暴風雨のお陰で視察団が急遽帰って来た。本当なら、明日の夕刻に戻って来て、さよならの挨拶だけで済む筈だったが、そうは行かなくなった。さて、どうする?
宇宙へ帰る迄、連中を好きにさせるか、それとも何かイベントに参加させるか?」
「好きにさせたら、何処で何をするかわかったもんじゃない。」

とケンウッドはぼやいた。ドーム事業の進行に邪魔が入って欲しくないし、ドーマー達にちょっかいを出して欲しくない。それはハイネも同じだった。一日でも早く女性の誕生を研究成果として遂げてもらいたいのに、おもてなしやコロニー人と地球人の諍いで時間を取って欲しくなかった。

「それじゃ、長官がイベントを考えなきゃね。おもてなしはゴーン副長官が苦労して計画を立ててくれたのに、低気圧のヤツがおじゃんにしてくれたのだから。」
「私がイベントを企画するのか?」
「長官だから、当たり前だろう?」

 ケンウッドが振り返ったので、ハイネはブンブンと首を振った。

「私に振らないで下さい。」
「君が毎日忙しいことはわかっている。だが、せめてアイデアだけでも・・・」
「私はそんなおもてなしの経験などありません。」

 ヤマザキがポンっと手を打った。

「そうだ! クロエルちゃんに任せてみようか? 確か中米班は暴風雨を警戒して視察団のすぐ後で帰って来た・・・そうだったよな、ハイネ?」

 ハイネが悩ましげな表情になった。

「クロエルがおもてなしを担当したらドーム内がお祭りになります。」
「時間を制限するんだ、大丈夫だよ。」

 ケンウッドも熱い視線を送って来るので、仕方なくハイネは端末を出した。彼がクロエル・ドーマーの番号に掛けていると、ケンウッドが大事な用件をもう一つ思い出した。

「そうだ、ハイネ、サヤカが地球に帰って来た。ただ暴風雨で大西洋を越えるのは危険だとシャトル運行会社の判断で、全員カイロの宇宙港で降ろされたそうだ。」

 ハイネは一瞬注意が疎かになった。彼の腕がスクリーンの机上リモコンに当たり、音声が復活した。それと同時にクロエル・ドーマーが電話口に出た。

「クロエルです。」

 若い中米班チーフは局長から掛かってきた筈の電話で、男性の悶える声を聞かされる羽目になった。





2018年6月22日金曜日

待機者 3 - 9

 料理の量が少なかった分、局長はレインより先に食べ終わってしまったが、部下が食事を終える迄付き合ってくれた。ファンクラブが局長を苦手として近づかないので、レインには有り難かった。局長もそのことをわかっていて、座ってくれていたのだ。

 きっと俺が連中を追い払わないことを歯痒く思っているのだろうな・・・

 レイン自身、ファンクラブを追い払いたいのだ。しかし、ドーマーは執政官に逆らうなと幼児期から叩き込まれて育ってきた。逆らうと「お勤め」の時に仕返しされるのが怖い。執政官は研究の名の下にドーマーを好きなように扱えるのだから。レインは麻酔をかけられて意識を失っている間に「お勤め」の処置を施されてしまうのが嫌だった。実際は何をされたのかわからない、と言う事態になって欲しくない。だから彼は執政官に絶対に逆らわない。彼だけでなく、ほぼ全員のドーマーが逆らわない。
 ローガン・ハイネは現在こそ「お勤めのない清いドーマー」で通っているが、若い頃は仲間と同じだった筈だ。いや、美し過ぎる為に多くの執政官の関心を集めたに違いない。ハイネも執政官に逆らわない。だが、絶対服従するかと言えば、そうでもない。年の功なのか、性格なのか、彼は上手に執政官の指示をかい潜り、反抗と悟られぬ巧妙な反抗をやってのける。レインはその柔軟性が羨ましい。
 食べ終わると、彼等は揃って席を立った。食器を返却して外に出ると、ハイネの端末に電話の着信があった。局長は歩きながら画面を見て、掛けてきた相手が誰か知ると立ち止まった。

「こんばんは、長官。」

 長官、と聞いてレインも立ち止まった。黙ってこの場を去るのは失礼だと思ったからだ。
 ケンウッド長官からの連絡は短かった。局長は「わかりました」と一言返して、通話を終えた。そしてレインに言った。

「私は図書館に行く。君はジムだな?」
「はい。今夜はここでお別れですね。夕食、美味しかったです。ご馳走様でした。」

 ハイネは部下の分の支払いをしてくれたのだ。

待機者 3 - 8

 夕食は普段の時刻より遅くなったが、明日は食欲が落ちる事がわかっていたので、レインはしっかり食べた。局長は夕食と朝食の間隔が短いので夜は余りヘビーなものは食べない。但し、長身で均整の取れた体躯に見合った量は食べる。遺伝子管理局長が若い者達の前で空腹で倒れたりしてはみっともない。とは言うものの、レインの目から見てもハイネの皿の上は普段に比べると寂しかった。

 やはり局長が元気がないと言う噂は本当だ・・・。

 普段からぼーっとしている様に見える局長だが、食事中は真剣な表情で食べ物を見つめる。しかしその夜は、少しぼーっとして肉料理を少し突いて手を止めてしまった。
 レインは思わず声をかけた。

「ご気分でもお悪いのですか?」

 ハイネが目が覚めた様にハッと視線を上げた。

「否、ちょっと気持ちを余所へ飛ばしていた。気遣ってくれて有難う。」

 考え事をしていたのか、とレインは少しだけホッとした。本当に気分が悪いのであれば、彼の責任で医療区に連絡しなければと思ったからだ。
 レインは局長と2人切りで食事をする機会を今迄持った記憶がなかった。彼は大概遺伝子管理局の仲間か部屋兄弟と一緒に食堂にいたし、1人の時はファンクラブに取り囲まれていた。一方ハイネは単独でいる事が多いし、誰かと一緒の時は殆どがケンウッド長官やヤマザキ医療区長と言った最高幹部クラスの執政官を相手にしていた。滅多にない機会なのだから、何か有意義な会話をしたかったが、仕事から離れるとハイネは急にスイッチが切れたみたいに大人しくなり、弱々しく見えた。一体何がこの人を悩ませているのだろう。
 するとハイネの方から質問してきた。

「セイヤーズの手がかりはまだ見つからないか?」

 レインは不意打ちを食らってドキリとした。彼の最愛の人、ダリル・セイヤーズ・ドーマーが脱走して16年になった。殆どの人が彼はもう亡くなってしまったと思っている。セイヤーズは目立つ男だった。容姿が美しかった事もあるが、物凄く能天気で騒ぎを起こすのが得意だったのだ。それが全く情報がないので、死んでしまったか、この大陸から出て行ったか、どちらかだろうと思われていた。
 レインはどちらも信じなかった。ダリルは俺のそばに隠れている。頭が良いから隠れるのが上手いだけだ。彼はそう信じていた。

「今調査を始めた地方は今迄捜索の空白地帯でした。俺はそこに彼がいると思います。」

 彼がそう言うと、頼もしい事に局長が頷いてくれたのだった。


 

2018年6月21日木曜日

待機者 3 - 7

 レインは局長と一緒に本部を出た。局長執務室を先に出たのは彼だったが、エレベーターを待っていると局長が追いついて来た。秘書を先に帰したので局長自ら施錠して来た。

「食事の後は寝るだけか?」
「少し運動をしようかなと思っています。明日は朝から動きたくなくなるでしょうから。」

 すると抗原注射接種も効力切れの気怠さも経験がない局長が肩をすくめた。

「それだけは経験したいと思った事がないな。」

 レインは思わず笑ってしまった。

 この人も若い頃はきっと外に出てみたかった筈だ。100年近く我慢して・・・いや、殆どのドーマーは外に出ずに一生を終える。だからこの人も我慢出来たんだな・・・。

 エレベーターを降りて受付で終業確認をすると外に出た。
出たところで、あろうことか2人のコロニー人女性と出会した。出資者様だ。レインの勘では、彼女達はハイネを待ち構えていたのだ。
案の定、彼女達は2人のドーマーを見て顔をほころばせた。

「ローガン・ハイネ局長とチーフ・レインですね?」

 局長とレインは、女性嫌いではない。愛想よく「こんばんは」と挨拶した。女性達は満面の笑みで彼等に近づいて来た。紫に染めた髪の女が名刺を出した。くれるのかと思ったら、サインをせがまれた。ペンを持っていないので断ろうとしたら、緑の髪の女が貸してくれた。どちらも派手な色に髪を染めているが、年を食っていると思えた。富豪だから美容にはお金を注ぎ込んでいる筈だ。実際はかなりの年寄りなのだろう、とレインは思った。ハイネも97歳だが進化型1級遺伝子待機型と言う物を母親から遺伝しているので若々しく見える。しかし、目の前でサインをせがむ2人の女性は普通の人だ。化粧を取ればレインの祖母ぐらいの年齢だろう。

「私達は芸能人ではありませんので・・・」

とハイネが断りを入れようとした。女性達が媚びるような目で彼を見つめた。

「お願い・・・」

 レインは名刺とペンを持たされたまま、戸惑った。書いてしまうと局長が気まずい思いをするのではないか、と心配したのだ。すると、局長が女性の押しに負けたふりをした。

「わかりました、遠くからお越しいただいた大事なお客様です。私達のサイン程度でご満足いただけるのでしたら・・・」

 目配せされて、レインはスラスラと名前を書いた。そのカードを女性に返すと、緑の髪の女性からも名刺を渡された。紫の婦人はハイネに名刺を渡している。名前を書きながらハイネが彼女達にお願いをした。

「このことは貴女のご自宅にお帰りになる迄内緒にして下さい。このドーム内で披露されると後で収拾がつかなくなりますから。」
「勿論ですわ。」
「お宝ですもの、紛失すると大変です。」

 名刺を大事そうにバッグにしまった彼女達は次の要求をして来た。

「この後はお時間あります?」
「よろしければ、私達のお部屋でお話しません?」

 レインが考える暇もなく、ハイネが素早く答えた。

「お誘い頂くのは光栄の至りですが、私は今日の昼迄入院していました。体調が万全ではありませんし、まだ仕事が残っています。チーフ・レインも少し前に外から戻ったばかりで、これから食事を兼ねて任務終了報告を聞く予定になっています。彼も疲れていますから、早めに解放してやりたいと思います。どうか今回はご勘弁下さい。」

 局長はこう言うシチュエーションに慣れているのだ。
 出資者様は素直にこの返答を理解してくれた。そして素手で握手することですっかり満足してレインと局長を解放してくれたのだった。



2018年6月20日水曜日

待機者 3 - 6

 監視相手に大きな動きがないので、遺伝子管理局は一旦中西部支局から引き上げた。設備はそのままで、衛星データ監視は本部で行う。支局は地元の職員を1名指名して、「時々チェック」を命じておいた。3、4日すれば次の当番チームが来るので、職員にしてもそんな重責の役目ではない。
 レインはこれから中西部に行く度に衛星データ分析官を同伴することを考え、内心うんざりした。彼自身が提案したので、今更局長に人員の返品を言い出せない。キエフは来米して2年たった。英語はもうスラスラ話せるし、生活習慣も身についたのに、仲間と仲良くすることが難しい。

 ひょっとして、シベリア分室はドーマー交換を利用して厄介払いをしたのではないか?

 ドーマー交換で厄介払いをするのは止めようと、ずっと以前に局長会議で決まった筈だ。しかし罰則がある訳でなく、厄介払いの基準もない。キエフがシベリアでどんな人間関係を築いていたのかもわからない。
 レインは疲れていたので、それ以上問題児のことを考えるのを止めた。
 ドーム空港に到着して、搭乗ブリッジにシャトルが横付けされていることに気が付いた。視察団はユカタン半島へお出かけではなかったのか? ちょっと嫌な予感がした。
 消毒ゲートに入ると、係官のドーマーに尋ねた。

「宇宙からの視察団は出かけなかったのか?」
「いいえ、日帰りで今さっき帰って来られたんですよ。」
「日帰り?」

 レインはびっくりした。日帰り出来ない距離ではないが、ジャングルの中の遺跡を見る時間は殆どないのではないか? 遺跡へはバスでなければ行けない筈だ。近くに空港がないのだから。

「宿泊じゃなかったのか?」
「そのつもりだったようですが、暴風雨が近づいて来たとかで、急遽予定変更で戻って来られたんです。こちらは大迷惑ですよ。厨房班も慌てているでしょうね。」
「向こうのホテルもがっかりだな。」
「あっちはキャンセル料が入るでしょ。」

 レインは部下達を振り返った。

「聞いての通りだ、宇宙からのお客様が予定変更してドームにいらっしゃる。みんな、失礼の無いように出来るだけ遠ざかっているんだぞ。」

 消毒が終わって新しい衣服を身につけ、持ち物を返却してもらった。端末にメッセージが入っていたので見ると、局長第1秘書のネピア・ドーマーからだった。帰投報告は本部へ来て行うように、とあった。
 視察団が中米へ出かけたので、もう安心だと思った医療区が局長を解放してしまったのだ。まさかお客様達が暴風雨に恐れをなして戻って来るとは思わなかったに違いない。
 レインは薬品臭い入院病棟に行かずに済むのでホッとした。それに寝巻き姿の局長と対面するのも好きではない。ローガン・ハイネ・ドーマーはスーツ姿でパリッとした方がよく様になっている。
 本部の玄関を通った時は既にドームの外は真っ暗になっていた。殆どの職員が業務を終えて帰宅していたが、局長は執務室でまだ仕事をしていた。病棟からの引っ越しで時間を食ったのだ。秘書達はもう帰ってしまった後だったので、レインは気が楽だった。ドアチャイムを鳴らすと、局長自らドアを開けてくれた。と言っても、机の上のボタンを押しただけだが。
 報告書は航空機の中で書いて送信してあったので、仕事の話は繰り返したくなかった。レインは一言、帰りました、と言った。局長はコンピュータ画面を見ながら頷いた。報告書に目を通している最中だ。ホテルの宿泊者名簿の件もあっさり読み流した。全員の報告書を素早く読んでから、やっとレインの顔を見た。

「どちらを先に片付けるつもりだ、レイン? ベーリングか、謎のメーカーか?」
「希望は同時に両者を・・・」

 レインの遠慮ない言葉に、局長が微かに笑った。彼がレインにかけた言葉は、

「ゆっくり休みなさい、勝負はこれからだ。」

だった。

2018年6月18日月曜日

待機者 3 - 5

 レインが支局の局員待機室に戻ると室内が険悪な雰囲気に満たされていた。元凶はわかっていた。しかし1人だけドームに帰らせる訳にも行かないし、衛星データ分析官は必要だ。レインは最初にキエフの机に行き、彼の準備が整ったことを確認した。次に他の部下達の机を順番に見て、彼等が本部から受信した衛星データを解析して気になる部分をキエフに詳細に分析してもらう手順を見た。キエフも仕事に関しては好き嫌いを言わない。どんなに虫が好かない相手でも、仕事を回してくれば素直に受け取って分析し、結果を報告する。専門分野に限れば、信頼出来る仲間なのだ。
 ここで「仲良くしろ」と言うのも可笑しいので、レインは黙って成り行きを見ることにした。キエフだってもっとアメリカに慣れてくればみんなと打ち解けるだろうと楽観することにしたのだった。
 最後に副官のクラウス・フォン・ワグナー・ドーマーの席に行き、ボーデンホテルの支配人にもらった外国人の宿泊者記録を見せた。ワグナーはリストを見て、思ったままを述べた。

「中近東の客が多いですね。天然資源を開発するには、ここは2世紀前に掘り尽くされていると思いますが・・・」
「目当ては天然資源じゃないだろう。」

 ワグナーがリストから目を上げてレインを見た。

「メーカーの客ですね?」
「うん。それもテメェんとこのメーカーでは満足出来ない金持ち連中だ、きっと。」
「しかし、金持ちなら妻帯許可が出るでしょう?」
「妻が産む子供が必ずしも後継者にふさわしい器量を持っているとは限らん。」
「しかし・・・」
「昔の彼等の先祖は裕福なほど妻を多く持てたんだ。妻が多ければ優秀な息子も多かった。しかし、今の中近東は西ユーラシア・ドームの管轄だろう? 」
「南アジア・ドームじゃなかったですか? そこのところは僕も不確かですが・・・」
「どちらにしろ、遺伝子管理局は男1人に妻1人しか認めない筈だ。どんなに金を積まれても、貴重な女性を1人の男に独占させることは許可出来ない。だから、金持ちは息子を多く持ちたければ養子かクローンの息子を作るしか方法がない。」
「自身の血を分けた子供、と希望すればクローンですね。」
「それも普通の子供と同じ健康で長生き出来るクローンだ。」
「例の・・・完璧なクローンを作る謎のメーカーの客のリストですね、これは!」
「連中は当然1回きりと言うことはない。初めての滞在が各自一週間から10日、それから10ヶ月後に再訪だ。子供を受け取って支払いをするか・・・いや、きっと半額は前払いだろうな。」

 ワグナーがペン先を舐めた。

「どうやって繋ぎを付けるのでしょうね?」
「俺もそれを知りたい。」



2018年6月17日日曜日

待機者 3 - 4

 ポール・レイン・ドーマーが支局に顔を出した時、ハリス支局長はそろそろ店仕舞いして帰宅する準備をしていた。職員達も業務の締めの最中で、秘書のナタリー・リーランドは食器洗浄機にその日最後に使用した食器を入れて電源を入れたところだった。彼女はキッチンに顔を出したレインに微笑みかけた。

「レモンジュースとオレンジジュースが冷えていますけど?」
「オレンジをお願いします。」

 愛想が悪くて悪名高いレインだが、実は女性には真逆の反応を見せる。彼は女性に親切で優しいのだ。リーランドを相手に数分ばかり世間話をした。彼女が退職予定を告げると悲しげな表情を見せた。

「ここへ来る一番の楽しみは、貴女とのお喋りだったのですがね。」

 それはお世辞でなく、彼の本心だった。こんな何もない田舎で唯一の楽しみが、小母さんとの心和む会話だった。外の女性には女性執政官にはない安らぎを感じた。執政官達は数年で宇宙に去ってしまうし、ドーマーを研究対象として見る。実際その為に育てられているのだからドーマーも気にしないが、どこか見下されている感が拭えない。年配の執政官からは完全に子供扱いされているし・・・。
 外の地球人にとって遺伝子管理局は畏怖の存在であり、尊敬されるし、また頼もしく感じてもらえる。一人前の人間として見てくれるのだ。
 リーランドが笑った。

「次の人もお喋りは大好きな筈ですよ。」
「そうですか?」
「女性はお喋りでストレスを発散させるのが好きなの。」
「まぁ・・・そうでしょうね・・・」

 女性執政官達もお喋りが好きだ。部屋妹のキャリーなどは食事中ずっと喋り続ける。

「ブリトニー・ピアーズって言う子なの。」

とリーランドが言った。

「私なんかよりずっと若いから、男の人ばかりの職場でちょっと不安だと思うのよ。だから守ってあげてね。」
「ええ、わかってます。仕事仲間は大切ですからね。部下にも手を出すなと言っておきますよ。」
「でも、恋愛に発展したら応援してあげても良いのよ。」

 リーランドがウィンクした。

「貴方方は一番信頼出来ますもの。」

 ドーム外部の人間との恋愛はご法度なんだよ、とレインは心の中で呟いた。もし許可なんかしたら、仲間が外に出されてしまう。レインは、それは嫌だった。

2018年6月16日土曜日

待機者 3 - 3

 ポール・レイン・ドーマーは仲間を支局に置いて一足先に宿舎として利用しているボーデンホテルに入った。街で一番大きく一番上等のホテルだ。とは言うものの東西の海岸地方にある大都市のホテルとは比べ物にならない鄙びた宿で、建物は古いし働いている人間もロボットも年季が入っている。それでもショッピングモールがあり、レストランも3軒入っている。この地方の住民にとっては高級な社交の場だった。
 遺伝子管理局はこのホテルを長年宿舎として利用している。各部屋に空気清浄機が設置され、エアコンも常に正常に稼働しているし、部屋には蒸留水が置かれている。ドーマーにとって安全な宿泊場所だった。ツインルームを予約した数だけ取れているか、彼は確認するとその一つに入った。室内の安全を確かめる。爆弾や有害なガスが出る装置が仕掛けられていないか、盗聴器が隠されていないか、順番にチェックしていった。部下達が任務に励む間、彼は部下達の安全を確かめたのだ。ボーデンホテルの方も長年のお得意さんの要求は承知している。ゴミやシーツ、浴室の汚れは絶対にあってはならない。遺伝子管理局の人間は極端に潔癖症なのだ、と言う認識が彼等にあった。

 潔癖症なのではなく、ドームが清潔なだけだ。

 レインは外の世界の清潔の基準は甘過ぎると思っている。しかしレイ・ハリスの様に外出時にマスクや手袋をして肌を曝さない様にするところまでは考えなかった。サングラスは目を守るのに必要だし、帽子は彼のスキンヘッドに不可欠だが、それがないと困ると言う程切羽詰まった考えは持っていない。
 彼が予約した部屋全ての確認を終えると、同行した支配人がホッとした表情で、コーヒーでもいかがです? と尋ねた。レインはコーヒーが苦手だったので、お茶を所望した。毎回コーヒーを勧められるので、学習力のない支配人だと内心思ったが、顔に出さずに済んだ。

「ところで、このホテルには外国からの客も泊まることがあるでしょうね?」
「はい、当ホテルはこちらの地方では最高水準のおもてなしを提供させていただいております。外国から旅行に見えられるお客様はほぼ100パーセント、当ホテルにお泊まりでございます。」

 こんなサボテンしか見るものがない地方に、誰が旅行に来るのか。レインは心の中で質問して自答した。

 決まっている、完璧なクローンを作るメーカーに注文がある人間だ。

 レインは重ねて尋ねた。

「海外からの客はきちんとIDを提示するのでしょうね?」
「当然でございます。身分証をお持ちでない方のご利用はご遠慮させていただいております。」
「すると、控えはあるのですね?」

 支配人が用心深く答えた。

「控えてございますが、個人情報の開示は何方にもお断りさせていただいております。」

 レインは美しい顔に笑みを浮かべた。

「遺伝子管理局にも?」

 支配人がドキリとした顔をした。遺伝子管理局の機嫌を損ねると、彼自身も彼の息子も将来困ったことになる。特に息子の結婚を認めてもらえないと孫を持てない。孫どころか養子も取れなくなる。
 支配人は周囲にさっと目を走らせ、レインに体を寄せて小声で尋ねた。

「どの様なお客様の情報がご入用ですか?」


待機者 3 - 2

 作戦本部に改装した局員待機室では、衛星データ分析官アレクサンドル・キエフ・ドーマーが局員パトリック・タン・ドーマーと険悪な状況になっていた。キエフはコンピュータが置かれた机の前に陣取り、早速本部から転送されて来る衛星データの解析に取り組んでいた。街から南へ車で3時間程行った砂漠の中にあるベーリングの研究所の観察だ。画面と睨めっこして研究施設に出入りする車を分析して所有者を割り出す。タンが偶然後ろを通りかかった時、キエフは画面を見たまま言った。

「ハンバーガー買って来て。」

 タンが足を止めた。美しい中国系のドーマーだ。小柄だが格闘技の腕はかなりのもので、レインは彼と頻繁に稽古をする。キエフは日頃からそれが気に入らなかった。彼の命令口調にタンが言った。

「人にものを頼む時は、お願いします、と言うもんだぞ、ロシア人。」

 キエフはロシア人と呼ばれるのが嫌いだった。ドーマー達は互いの出身民族や人種をニックネームの様に使うことがある。決して蔑みやからかいの意味で使っているのではない。しかしキエフは自身がよそのドーム出身であることに少し引け目を感じていた。それも西ユーラシア・ドームではなく、シベリア分室だ。西ユーラシア・ドームでも田舎者扱いされているとわかっていた。アメリカへ来てまで差別されるとは予想外で理不尽だと彼は思った。だから、彼は聞こえよがしに呟いてみた。

「黄色いチビが何か言ったか?」

 室内が静まり返った。タンが平静を装って聞き返した。

「今何て?」

 キエフはさらに何か言って彼を怒らせようと思ったが、室内の静寂に気が付いた。他の局員達が皆こちらを見ている。全員タンと同じアメリカ・ドームで生まれ育った男達だ。そして彼が唯一味方だと信じているチーフ・レインはいなかった。雑用で外に出かけていた。キエフは馬鹿ではない。彼は不利な状況だと即座に判断した。

「何も言ってない。」

と彼は言った。

「君に言ったんじゃない。独り言だ。」

 そこへ、支局長秘書のナタリー・リーランドがお茶の用意を整えてワゴンに載せて室内に入って来た。キエフがいきなり立ち上がった。

「おい、局員以外の人間はこの部屋に立ち入り禁止だ!」

 するとタンが言った。

「彼女は良いんだ。ここに長いし、僕等のことをよく知っているし、僕等も彼女をよく知っている。」
「だろうね。」

 キエフは言った。

「彼女の遺伝子も管理しているし・・・」

 タンの表情が硬化した。

「それ以上余計なことを言うな!」

 キエフはハッとした。遺伝子管理局の人間としての最低限の約束事は世界共通だ。破れば、一生観察棟幽閉だ。しかしボスのお気に入り(とキエフは思い込んでいた)のタンから指摘されたのは癪だった。

「遺伝子管理局なんだから、管理するのは当たり前さ。」

 彼はそう言って、席を立つとトイレに行くふりをして部屋を出て行った。
 ナタリー・リーランドが申し訳なさそうに尋ねた。

「私のせいで彼が腹を立てたのですね?」
「違いますよ。」

と第3チームのリーダーが苦笑しながら説明した。

「あの男はなんでもかんでも気に入らないんです。気にしないで下さい。お茶をご馳走になりますね。」
 
 局員達がワゴンに集まった。コーヒーとお茶、好きな方をそれぞれが手に取った。
リーランドは一度お茶を出した客の好みを覚えているので、残ったのはキエフが取らねばならないお茶だけだった。ジャムが入った小皿が親切にも添えてあった。

「彼にお茶を用意されたのですね?」
「ロシア系と聞きましたので、知り合いのロシア系の人の好みを用意しました。」
「貴女は本当によく気が利く方だ。」
「女性は大概がこうですよ。」

 リーランドは無邪気に尋ねた。

「本部の女性職員もそうでしょ?」
「そうですね。」

 リーダーは微笑んだ。ドーマーは男世界なので女性局員は1人もいないとは言えない。それに総括的にお茶の準備はロボットが行なって、各部屋の秘書が淹れてくれる。
ふとリーランドが何かを思い出した。

「そうそう、私、今年いっぱいで引退することにしました。」
「えっ?!」

 局員達は衝撃を受けた。リーランドは歳を取っているが、彼等にとって優しいお姉さんだった。今この室内にいる殆どの局員が初めて外勤務に就いた時に彼女は既にここで働いていた。彼女がいない中西部支局なんて!
 リーランドが優しい笑みを浮かべた。

「後任はもう決まっていますのよ。まだ学校に行っているので、彼女が卒業するのを待っているのです。落第しないで卒業して欲しいわ。」
「成績が良くないのですか?」
「いいえ、優秀です。ちょっとおっちょこちょいな子なの。彼女の代になったら、優しくしてあげてね。」



 

 

待機者 3 - 1

 その街は、タンブルウィードと言う立派な名前があるのだが、ドームでは単に「中西部支局がある街」としか呼ばれなかった。そしてその地方でも、「街」と言えばタンブルウィードを指すので、住民すら自分達が住んでいる場所の名前を滅多に呼ばなかった。
つまり、南北アメリカ大陸遺伝子管理局中西部支局の正式名称は、タンブルウィード支局なのだ。
 支局長のレイ・ハリスは職員や巡回して来る遺伝子管理局員にタンブルウィード支局と呼ばせようと努力したが虚しく失敗した。もう200年間中西部支局で通っているのだ。今更変えようなんて誰も思わなかった。ハリスが自身の名前をレイモンドからレイに変えたことだけが成功したようだ。人の名前は短い方が覚えやすい・・・。
 遺伝子管理局北米南部班のチーフ、ポール・レイン・ドーマーと第1チームと第3チームがやって来た。住民との面談はクラウス・フォン・ワグナー・ドーマーと先発隊が済ませているので、この団体はメーカー摘発が目的の来訪だ。ハリスはレインが嫌いだ。ぞっとする程の美貌で周囲の注目を一身に集めるが、当人は全く意に介さない。愛想が悪くて、支局長室に挨拶に来ても、「こんにちは、よろしく」とだけ言うとすぐ退出する。何をやっているのか説明もなく、局員待機室を作戦本部に改造してしまい、コンピュータを設置して局員以外立ち入り禁止にしてしまった。
 先発隊の局員は抗原注射の効力が切れる者だけ先に帰投させ、残りは忙しなく部屋や支局を出入りしている。ワグナーが静音ヘリコプターを飛ばすと聞いて、ハリスは燃料代の支払いをどこへ提出すれば良いかと尋ねた。ワグナーはレインより親切だったので、本部への手続きの手順を教えてくれた。

「支局との窓口は局長第2秘書のキンスキー・ドーマーですから、間違えないで下さいね。第1秘書宛にすると、ネピア・ドーマーに後回しにされちゃいます。あの人、細かいことに煩いんですよ。」

 支局の必要経費請求はハリスの秘書のナタリー・リーランドと言う年配の女性が行なっていた。彼女に任せておけば質問する必要などなかったのだが、ハリスは少しでもドームとの繋がりを持ちたくて質問したのだ。ワグナーもその辺の彼の心境は理解していた。妻のキャリーは精神科のお医者さんだ。彼も複雑な立場にいるハリスに注意を払っていた。
飲酒と賭博の借金で左遷されたコロニー人の元科学者だ。職員にそっと彼の日頃の生活を尋ねてもいた。
 ハリスは基本的に自宅として購入した古い一軒家と職場を行き来するだけの生活だ。たまに街中に買い物に出るが遊びに出かけることはない。彼は地球の大気が怖いのだ。宇宙にない細菌やウィルスとかの微生物も、燦燦と降り注ぐ太陽の光も、危険値の低い放射線も、土埃も、レイ・ハリスにとって脅威に思えるのだ。風が吹くと転がってくるタンブルウィードなど言語道断だ。だから、ハリスは外出しても寄り道をしない。大好きな酒場にも立ち寄らない。カウボーイなんか不潔の塊だ、と思っている。西部劇に登場するカウボーイなど大昔に絶滅しているのだが・・・。
 レイ・ハリスが真面目に暮らして真面目に働いているので、レインは彼を無視していた。少しでも不審な動きをすれば監視対象にしただろうが、コロニー人は「良い子」にしていたので、彼は安心してしまった。

2018年6月13日水曜日

待機者 2 - 6

 誰からも愛され、それを素直に受け入れるハイネ局長に、アレクサンドル・キエフ・ドーマーの捻じ曲がった偏愛主義など理解出来ないだろう、とポール・レイン・ドーマーは思った。レインも人気者だが、彼は自身の人気と局長の人気の違いを十分に理解していた。ハイネ局長は生まれ持った風貌の美しさで人々の関心を集め、彼と接した人々は彼の性格の良さに惹かれ、彼を愛す。レインは局長も人間らしく心の奥底にドロドロした物を溜めて苦悩することもあると理解していたが、それを決して外部に出さない局長の精神力の強さに尊敬を覚えている。そしてレイン自身は、彼の類稀なる美貌に惹かれて集まってくる人々の欲望の強さにウンザリしながら、それを上手く捌けないでいる。出来る限り冷たく振舞って彼等を追い払いたいのだが、生来の優しさがつい出てしまい、その僅かな心の隙を目敏く見つけたキエフやギルの様な偏執的なファンが彼につきまとうのだ。彼の愛情が己だけに向けられていると大きな勘違いをして・・・。
 局長に、キエフも同道させます、と言ってレインは病室を退出した。ロビーまで出てくると、午後の業務に一区切りつけたケンウッド長官が入って来るのに出会った。長官は元気そうなので、診察を受けに来たのではなく、強制入院中のハイネ局長に面会に来たのだとレインは察しがついた。すれ違う時に軽く会釈して、彼は医療区を出た。
 ケンウッド長官は受付を通さずに自動ゲイトにIDを翳して病棟に入った。執政官は事前登録なしでも面会者として通ることが出来る。遺伝子管理局長の部屋は知っている。前回も同じ部屋だった。ハイネはあまり部屋を変わることを好まない。それは養育棟を卒業した時に充てがわれたアパートの最上階のスイートルームに80年住み続けていることからもわかる。若いドーマー達の様に頻繁に部屋を変えたり内装をリフォームすることもない。だから、ケンウッドは迷うことなくハイネの部屋に到着した。
 ネピア・ドーマーが通路に自身のコンピュータを置いて仕事をしていた。ハイネが部屋に入るように言ったのだが、ネピアは部屋が広くないので通路で十分です、と言って聞かなかった。本音は部屋を出入りする度に消毒されるのが面倒臭いのだ。
 ケンウッドは彼に「ヤァ!」と声をかけてから、消毒スペースに入り、薬剤ミストを浴びて室内に入った。ハイネは午後の日課を終えて、リハビリコーナーへ出かけるには少し早いので、2度目の昼寝をするつもりでベッドに座った所だった。そこへ話し相手が現れたので、彼は微笑んだ。

「わざわざお見舞いですか?」
「花がないが、勘弁してくれ。」

 ドーマーには花を他人に贈る習慣がない。ハイネは気にしなかった。自身が先刻迄座っていた机の椅子を手で示して長官に勧めた。 ケンウッドは椅子に腰を下ろすと、局長を眺めた。

「気分はどうだね? 闘技場で保安課長相手に大暴れしたそうじゃないか。」
「大暴れしたつもりはありませんが、保安課長はコロニー人にしてはかなり手強いです、手こずりました。」
「特殊部隊の精鋭だった男だからね。」
「ベックマンとどちらが強いでしょうか?」

 と尋ねてから、ハイネは何かを思い出して悔しそうな顔をした。

「ベックマンとも組み合ってみるべきでしたな。」
「おいおい、保安課長に片っ端から挑戦するつもりになったのか?」
「そんなことはしません。しかし、ベックマンとゴメスは仲が良いのですから、互いに試合をしたことがあるかも知れませんな。」
 
 ゴメス少佐と対戦して自信がついたのか、ハイネは自分の力を試してみたいのかも知れない。しかしヤマザキが聞いたら絶対に「駄目だ!」と言うに決まっている。ケンウッドは笑って聞き流すしかなかった。
 それから大事な要件を思い出した。これは笑えない話だ。

「ハイネ、実は半時間前にアイダ博士から通信が入った。」

 ハイネの顔から笑みが消えた。ちょっと緊張した様だ。ケンウッドは続けた。

「とうとう御母堂が旅立たれたそうだ。今日の打ち合わせ会の直前にゴーン副長官と話た時は、彼女は後10時間保たないかも知れないと言っていたそうだが、結局はそれより短かった。」

 ハイネは寝巻きの着崩れを整え、きちんと座り直して長官に言った。

「アイダ・サヤカ博士に、御母堂様の逝去に対しお悔やみ申し上げます、とお伝え下さい。但し、これは非公式な挨拶です。」

 ケンウッドは頷いた。地球圏外で起きた事柄に関し、ドーマーはドームの外の地球人と同じ量の情報しか受け取ってはならないと地球人類復活委員会の会則は定めている。だからドーマーは宇宙に帰ってしまった執政官や他のコロニー人達と個人的な連絡を取ることすら許可されない。ケンウッドが告げたアイダ・サヤカの母親の逝去の知らせも、本当はハイネが知ってはいけない事案なのだ。だから、アイダが地球に戻ってきても彼女は夫にコロニーで起きたことを告げられないし、ハイネも妻がどんな悲しい思いをしてきたか悟っていても言葉にして励ますことが出来ない。それ故に、ハイネは長官を通して弔辞を述べた。

「彼女が葬儀の後の予定を連絡してきたら伝えておく。」

 ハイネは黙って頭を下げた。
 

2018年6月12日火曜日

待機者 2 - 5

 午後も早い時刻に内勤の業務を片付けたポール・レイン・ドーマーは医療区に出かけた。抗原注射の予約がちゃんと通っているか確認して、薬剤摂取の間隔を開けろと言った看護師を睨みつけ、入院病棟の局長に面会した。外へ出る予定の報告だ。
 ハイネ局長は身につけている物がスーツではなく寝巻きだと言う以外は平素と変わらず、病室に設置されたコンピュータで日課業務に励んでいた。病人ではないので血色は良いし、指の動きも速い。昨日何人生まれて何人亡くなったのかレインは知らなかったが、局長が忙しいと言うことは、南北大陸アメリカの住人がかなり入れ替わったと言う事実に他ならない。
 いつものことなので、レインは執務机の前に立って、行き先と同行チーム、目的等を報告した。局長は手を休めなかったが、しっかり聞いている。レインが口を閉じると、画面に目を向けたまま尋ねた。

「例の完璧なクローンを造るメーカーと接触出来る確率はどのくらいだ?」
「親玉と出会える確率はかなり低いですが、手下には80パーセントの確率で接触出来ます。今回は連中にベーリングの住所を教えてやります。」

 中西部の砂漠地帯に小さな街がある。遺伝子管理局中西部支局が置かれている地方都市で、あの界隈では「大都市」の範疇に入る。中西部のメーカー達はその街へ買い物に出てくる。レインはそこで中小のメーカーの研究施設を次々と摘発した。彼等の悪評を噂で流し、噂の出所を別のメーカーであるように仕込み、喧嘩させる手段を用いた。製造するクローンにクレームが付けば、メーカーは忽ち客を減らしてしまう。悪口を言われたと思い込んだメーカーは、仕組まれた罠とも知らず、噂を流したと言われるライバル研究所を襲撃する。襲われた方は当然反撃する。レインのチームはそうやって自らの手を汚さずにメーカー達を倒してきた。情け容赦ないそのやり口に、メーカー達はレインを「氷の刃」と呼んだ。
 倒したメーカーから同業者の研究施設の場所を聞き出し、またそこを襲う計画を立てる。レインはこの一年その手法を用いることに夢中になっていた。逮捕したメーカーに、金髪のドーマーの行方を訊く。脱走した能天気な恋人ダリル・セイヤーズの情報を少しでも得ようとしているのだった。しかし手がかりは少なかった。世の中には金髪の男など掃いて捨てるほどいたから。
 ハイネ局長は数ページの書類を手早く片付け、ファイルを閉じた。初めてレインの顔に目を向けた。

「君が使っている衛星データ分析官だが・・・」
「はい?」
「あの男も連れて行ってやれ。」
「外で分析は出来ませんよ。」
「衛星画像は見られるだろう。彼もプロなら、モバイルで分析する能力はある筈だ。」
「そうですが・・・」

 レインは気が重くなった。衛星データ分析官アレクサンドル・キエフ・ドーマーは仲間と喧嘩になることが多い。あまり他人の意見に耳を貸さない人間だった。ドームの中でも鬱陶しいのに、航空機の中やホテルで口論して欲しくなかった。

「外に出れば、彼も気が晴れて、余計な騒動を起こさないのではないか?」

 局長はキエフがドームに閉じこもって仕事をしているのでイライラが溜まっていると考えているらしい。レインは心の中で溜め息をついた。
 接触テレパスの彼は、既にキエフの心を読んでいた。





2018年6月11日月曜日

待機者 2 - 4

 業務打ち合わせが全て終了した。昼の休憩時間に20分も食い込んでしまったが、幹部は自分たちで時間調整出来るので誰も気にしない。ケンウッドは普段局長を誘う調子でキンスキー・ドーマーに昼食を一緒にどうだねと声をかけた。キンスキーはちょっと考えた。

「私は早食いで、長官に不愉快な思いをさせるかも知れません。」
「どうして私が不愉快になるんだ? 試してしまわないとわからんだろう?」

 そしてゴーン副長官にも声を掛けた。彼女とは普段一緒に食事することはないのだが、キンスキーを誘ったので、「ついで」だった。おや? と言う表情をして副長官は誘いを承諾した。
 食堂は遺伝子管理局に近い一般食堂にした。ゴーンもそちらの方が好みなのだ。銘々好きな料理を取って一つのテーブルに着いたが、キンスキー・ドーマーは予告通り早食いで執政官2人がまだ半分も食べないうちに完食してしまった。そして、お先に失礼します、と挨拶すると、さっさと食堂を出て行ってしまった。
 ケンウッドはぽかんとしてその後ろ姿を見送った。あんなに飲む様に食べたら胃に悪いだろうに、と心配してしまった。ふと副長官の存在を思い出し、振り返ると、彼女がクスクス笑って見ていた。

「すごい食べっぷりでしたね。」
「胃に悪いんじゃないかと心配してしまいました。」
「彼はいつもあんな風なのだそうですよ。クロエルがそう言っていました。」
「クロエルは幹部連中の食事会に参加するのですね?」
「ええ・・・あの子は局長を父親の様に慕っていますから、幹部になって近くで仕事が出来ると喜んでいました。」
「しかし、幹部は多忙でしょう。」
「それでも、局長執務室で直接報告出来るのが、あの子の喜びなのです。」

 平の局員は報告書を提出するだけで、局長から直接問い合わせが来ることは滅多にない。局員が局長執務室に連絡を入れる場合、相手をするのは2人の秘書だった。それ故に幹部に昇進したことは、クロエル・ドーマーに取っては至福の喜びだった。

「分室からの転入生の僕ちゃんが、チーフになれるなんて、何かの冗談かと思いましたよ。」

 彼はハイネ局長本人に直接そう告げて、ネピア・ドーマーに睨まれたのだ。
 その話をゴーンから聞かされて、ケンウッドはもう少しで声を出して笑いそうになった。まるでラップみたいな軽快なリズムで喋るクロエル・ドーマーは、チーフ会議でも同じ口調で発表するので、ネピアがいつも不機嫌になるのだと言う。
 ネピア・ドーマーには、クロエルの心理など理解できていないのだろう。母親に産まれることを拒まれた子供が、分室で子犬か猫みたいにペット扱いされた少年が、チーフになって堂々と仲間を統率出来ることが、どんなに嬉しかったか。

「ところで・・・」

 ラナ・ゴーンはさらりと言った。

「アイダ・サヤカが打ち合わせ会の直前に通信を寄越して来ました。」

 ケンウッドはハッとして彼女を見た。

「なんて言って来た?」
「これから10時間が限度だろうと・・・全て終わったら遺産相続の問題があるので、もう少しだけ帰還を待ってほしい、と・・・」
「相続問題の話し合いの前に、葬儀があるだろう。」

 ケンウッドはアイダ・サヤカの頭の中は天国に召されようとしている母親でなく、地球のことしかないのだ、と気が付いた。母親は病気のせいもあるが、老齢で自然にこの世を去ろうとしている。だからアイダはもう母親が旅立った後のことしか考えられないのだ。
 ケンウッドは親が亡くなった時の彼自身の心境も同じだった、とぼんやり思った。


2018年6月10日日曜日

待機者 2 - 3

 昼前の定例打ち合わせ会は、ラナ・ゴーン副長官と遺伝子管理局長第2秘書アルジャーノン・キンスキー・ドーマーが出席した。第1秘書のネピア・ドーマーは局長の予定より早い「入院」のお陰で局本部内と医療区を行ったり来たりで忙しい。
 ゴーンは視察団のおもてなしに頭を悩ませていた。前回、前の副長官ガブリエル・ブラコフがアンデス地方の旅行を企画して大成功を収めたので、今回の客人達も期待が大きい。ユカタン半島の遺跡がたくさん要求に挙げられているが、彼等に許される時間は多くても36時間だ。そこから移動時間を引くと、滞在期間はもっと短くなる。どこに案内してどれを切り捨てるか、彼女は悩んでいた。
 彼女と局員の個人的関係を知ってるケンウッドとキンスキーは、養子のクロエル・ドーマーに相談すれば良いのにと思ったが、言葉に出さなかった。

「チチェン・イッツァとグランセノーテ、そしてムヘレス島のホテルで1泊・・・」

 ゴーンは地球人の人気スポットを選んだ。あまり冒険はしたくない様で、安全対策が取れている観光地だ。

「あまり贅沢にならない様に・・・」

とケンウッドが忠告した。

「研究費が余っていると出資者様達に誤解されると、寄付金が減るからね。」
「承知しています、長官。」

 ゴーンが苦笑した。

「私が思い浮かぶのはこの程度なのです。遺伝子管理局の中米班はもっと素敵な場所を知っている筈ですね。でも出資者達も地球に関する知識では私と変わらないのですよ。マニアックな場所は公的な旅行では期待しないで頂きたいですわ。」
「成る程、開き直られたのですな?」

とキンスキーが面白そうに呟いた。

「前回の視察団は、マニアックにウユニ塩湖を初めから指定して来ました。ブラコフ前副長官がかなり珍しい場所の企画を立てたので、今回の人々はそれなら自分達も、と付け焼き刃で勉強して遺跡を並べ立てただけだと、私は思いますよ。」
「すると、無理してアクセスが困難な場所に行く必要はないと?」

 ケンウッドが尋ねると、キンスキーは首を振った。

「ジャングルがどんな場所か知らない人々の要求です。恐らくアマゾンとナイルの違いも分からない人達だと思います。ゴーン副長官は、貴女が行きたいと思われる場所を選ばれれば良いのです。」

 ゴーンが微笑んだ。

「キンスキー・ドーマー、貴方にキスしてもよろしいかしら?」



2018年6月9日土曜日

待機者 2 - 2

 ケンウッドは長官執務室に出勤した。秘書のチャーリー・チャンが数分早く来ており、業務開始の準備をしていた。ジャクリーン・スメアはいくつかの研究フロアを回って報告書を回収して来るので、まだ現れない。コンピュータで報告書を見られるのだが、サンプルなどの現物は人間が回収する。ロボットが助手として従っているが、受け取りに署名するのはスメアだ。
 今朝は研究費の増額要求が3件も来ていた。ケンウッドに取って一番頭の痛くなる事案だ。部下の執政官達が思う存分研究に没頭出来るようお金の問題を解決してやりたいが、地球人類復活委員会は結果が出せない研究に出費を増やすのを喜ばない。これは当然のことだから反論出来ない。
 遺伝子管理局からは、アメリカ政府から提供される人工衛星のデータの使用料の請求書が回されて来ている。これはデータを使用している北米南部班チーフ、ポール・レイン・ドーマーがハイネ局長を説得して認めさせた金額で、今度はハイネ局長がケンウッド長官に認めさせる為に回して来た物だ。ドームはアメリカ政府にお金を支払わねばならない。値切るのは、無理だ。レインがアメリカ政府と話を着けてしまっているのだから。外の交渉役は大統領ではなく、宇宙開発局の人間だ。行政のトップが口出しする次元の金額ではないので、ケンウッドも口出し出来ない。高額ではないが、それでも結構いい値段だ。

「これで衛星データ分析官が結果を出せなければ、外に出さずに内勤専門にしてやるからな。」

とケンウッドは思わず独り言を呟いてしまった。衛星データ分析官はシベリアから来たロシア訛りで喋る髭の濃い若者なのだが、ケンウッドは何故かしら彼に不安を感じていた。まるで何かに吸い付くような眼差しで他人を見つめる。他人に対する好き嫌いがはっきりしている様子で、直属の上司のレインにはべったりだが、他のリーダーや局員には時々ぶつかって口論になっている。レインも少し持て余している様に思えた。
 ただ、この衛星データ分析官は局長や局長秘書と言った年齢がずっと上の上司達は苦手な様で、彼等と同席する時は小さくなって無口だった。

 もしかすると、ハイネやネピアはあのシベリア生まれの若者の本性を知らないのかも知れない。

 もっとも長官の口からわざわざ教える様な問題を起こした訳でもないので、ケンウッドはアレクサンドル・キエフ・ドーマーと言う若者のことはすぐに頭から消し去った。
 そして仕方なしに、遺伝子管理局の請求書に署名をして既決箱に入れた。そして再び研究室から提出された請求書の検討に戻った。

待機者 2 - 1

 翌朝、ケンウッド長官は朝食の席で同席したヤマザキ医療区長から遺伝子管理局長を捕獲したと報告を受けた。視察団が地球に来る迄まだ4日あるのに早いのではないか、とケンウッドが感想を述べると、ヤマザキは済まし顔で言った。

「良いんだよ、爺さん最近落ち込んでいたから、環境を変えてやったのさ。昨夜ゴメス保安課長と格闘技の試合をやったんだが、もう暴れ放題だった。それで咳止めの薬を処方すると言って医療区に誘い込んだ。」
「彼が薬もらいにのこのこやって来たのかい? 信じられないなぁ・・・」
「向こうも僕の企みなどお見通しだったと思うけれどね。実を言うと、試合前に彼は1時間程1人で演武をしていたそうだ。運動していた看護師が知らせてくれたので、肺が弱い彼の為に酸素ボンベを用意させた。案の定、試合中に咳の発作に襲われたので、割り込ませてもらったんだ。」
「まさか、そのボンベに睡眠導入剤など混ぜていなかったろうね?」
「そんなことはしない。若い連中の前でぶっ倒れでもして見ろ、爺さん死ぬまで僕を恨むぜ。」

 ケンウッドは声を立てずに笑った。ハイネは人前で執政官に叱られることを気にしないのに、自身が弱いところを見せられるのは嫌うのだ。

「それで、今朝は機嫌良くしているのかな?」
「スタッフからの定時報告では、いつもの時間に起床してリハビリセンターでトレーニングしているらしいよ。運動は欠かせないからね。」
「体力的に異常なしか。」
「うん、心配ない。後は視察団を上手くやり過ごして、サヤカが帰って来るのを待つだけだ。」

 視察団は毎回面子が変わるので、おもてなしが悩みの種だ。担当の副長官ラナ・ゴーン博士は昨日から旅行ガイドを睨みっぱなしだった。彼女にとって初めての経験だ。執行部役員だった時代は地球各地のドームを訪問していたが、遊んでいた訳でないので、観光地の選択となると外で働くドーマー達の助けを借りねばならない。彼女は養子のクロエル・ドーマーの力を借りずにやってのけようと思っているのだが、今回の富豪集団はユカタン半島の遺跡巡りを希望していた。正にクロエルのホームグラウンドだ。中米班チーフを無視出来ないから、結局のところゴーン博士はクロエル・ドーマーに相談することになるだろう。

「いっそのこと、視察団の旅行にクロエルも同行させたらどうだろう?」

とヤマザキが大胆な案を出した。

「観光地でクロエルのお嫁さんを探すのさ。」
「そんな余裕があるかな?」

 クロエル・ドーマーは父親サイドの遺伝子履歴が不明の子供なので、ドームでは彼と娶せる女性の条件を限定している。出来るだけ母親の家系に近い血筋の女性を探しているのだ。しかし、条件に合う年頃の女性はまだ見つかっていない。

「そもそも純血種を残すと言う考え方は間違っているだろう? 人間が宇宙に進出して300年近く経つ時代に、地上の少数民族を残す意味があるかい? 文化だって言語だって大異変で殆どの部族が消滅して継承されていない。クロエルだって母親の部族の言語を話せないのに、どうして彼の子供に文化継承の役目を背負い込ませるんだ?」
「私を責めないでくれ、ケン。上からのお達しなんだ、それだけだよ。」
「きっと謎の言語を解明させて、インカの秘宝を手に入れようと言う魂胆なんだな。」

 意味不明の冗談を言って、ヤマザキはこの件を終わらせた。

2018年6月7日木曜日

待機者 1 - 8

 ハイネが酸素ボンベを下げて、2人のコロニー人を見た。咳が収まって普通に話が出来る状態に戻っていた。

「さっきは油断して唾液が喉に詰まっただけですよ、ドクター。」
「誤魔化すな、格闘技はジョギングとは違うんだよ。」

 ハイネはそれ以上医者と話たくないのか、ゴメス少佐を相手にして声を掛けた。

「楽しかったです。貴方の膝が万全だったら私は5分と保たなかったでしょう。」
「ご謙遜を・・・」

 ゴメス少佐は苦笑した。

「貴方も俺の膝を狙わずに攻撃する余裕があったじゃないですか。手加減されてるとわかっていました。」
「そんな失礼なことはしません。」

 ハイネが立ち上がった。まだ少し息が荒い。ヤマザキが彼に言った。

「着替えて医療区に来なさい。呼吸が楽になる飲み薬を処方しよう。」

 ハイネは頷いただけで、ゴメスに一礼して闘技場から出て行った。その後を看護師が酸素ボンベを持ったまま追いかけて行った。
 ギャラリーは既にいなくなっており、レインのファンクラブだけが出口で屯していたが、ハイネが通り過ぎる時にジロリと睨んだので、急いで外へ出て行った。
 ヤマザキと少佐が世間話を始めたので、レインも闘技場を後にしてロッカールームへ急いだ。ギャラリーになっていた人々がヤマザキの言葉に従って素直に寝に帰るのであれば、ロッカールームは混雑していた筈だ。しかしまだ10時にもなっていなかったので、殆どは通路で立ち話をしたり、トレーニングの続きをしていた。
 ロッカールームは空いていた。レインはアパートに帰ってシャワーを浴びようと思ったので、着替えだけした。汗が染み込んだ運動着はランドリーシュートに投げ込んだ。衣類には全て所有者のタグが付いているので、翌日には洗濯されて部屋に届けられる。
 ラフな私服ではなく、スーツの上着なしの状態でロッカーから出ようとしたところへ、シャワーを終えた局長が現れた。男世界なので、腰にタオルを巻いただけの姿だ。胸の古い傷跡が色白の肌に更に白く目立っていた。生まれてから一度もドームの外に出たことがない男だが、案外スリリングな人生を送っているじゃないか、とレインは思った。
 彼は局長に先刻の試合を見ましたと声を掛けた。ハイネはちょっと照れ笑いをした。

「日頃の私からは、らしくない 闘い方だったろう?」
「かなり戦闘的でしたね。」
「自分でもあんなにストレスが溜まっていたのかと驚いたさ。」

 彼は腕を曲げ伸ばしした。

「明日は筋肉痛かも知れない。」
「でも、局長が優勢でした。」
「そうでもない。保安課長のパンチをかなり食らった。」
「殆ど躱されたと思いましたが?」
「そう見えただけだ。彼の動きは速かったからな。打たれたと思ったら、もう手を引っ込めていた。」
「しかし・・・最後の決め技は凄かったです。」
「あれは・・・」

 ハイネがちょっと遠くを見る目付きをした。

「我が師であったランディ・マーカス局長の得意技だった。生前の彼に一度も勝てなかったよ。」

 レインには15代目局長マーカスの記憶は朧げなものでしかなかった。時々養育棟に参観に来ていた姿を遠くからチラリと見ただけだ。子供のドーマーにとって、遺伝子管理局長は正に雲の上の人だったのだから。養育棟を卒業する頃には、既にハイネ局長の時代になっていた。

「あの・・・さっきの技を教えて頂けませんか?」

 するとハイネが彼を振り返ってニヤリとした。

「君はしっかり見ていたじゃないか。実際にやって見て体で覚えなさい。君ならわざわざ私が教えなくても体得出来る。そして君なりの型を作れば良い。まぁ、練習台になってやっても良いがね。」



待機者 1 - 7

 ポール・レイン・ドーマーが後ろを振り返ると、ヤマザキ・ケンタロウ医療区長が腕組みして立っていた。医者は不機嫌な顔でリングを見ていた。レインが理由を尋ねようとした時だった。周囲が「ああっ!」と悲鳴の様な声を上げた。レインは素速く顔を前に向けた。
 ゴメス少佐がハイネ局長を押し倒したところだった。ハイネは背中から緩衝材の床に落ちた。だが次の瞬間、少佐の体が空中に飛んだ。少佐は空中で体勢を整えようとしたが時間がなかった。受け身を取るのが精一杯で、彼もまた派手な音を立てて背中から床に落ちた。
 誰もが何が起きたのかわからなかった。レインは辛うじて目の前の出来事を診た。局長は倒された時に、相手の勢いをそのまま利用して少佐を投げ飛ばしたのだ。投げられた者が下手な落ち方をしていたら大怪我を負ったかも知れない。
 局長は床の上で体を反転させ、両手を床に突いて体を起こそうとした。その姿勢で咳き込み始めた。

「いかん・・・」

 ヤマザキが呟いてパチンと指を鳴らした。後ろからギャラリーを掻き分けてやって来た看護師のドーマーが、リングへ急ぎ足で出て行った。彼は手にしていた携帯酸素ボンベの吸い口をハイネの口に当てた。
 ヤマザキ自身もリングに降りた。ゴメス少佐が腰に手を当てて唸っていた。

「大丈夫かね?」

 医師は少佐に声をかけてからギャラリーに呼びかけた。

「今夜はこれで終わりだ。さぁ、君達もそろそろ寝なさいよ。」

 ざわざわと話し声が起こり、レインは周囲の人々が散って行くのを横目で眺めた。ファンクラブが彼が来るのを待っていたが、彼は動かなかった。キャリーがヤマザキに近づき、手を貸すことはないかと尋ねた。ヤマザキはにっこり笑って、手は足りていると答えた。

「君は夫君やポール兄を寝かしつけてくれないか。」

 そしてゴメス少佐に言った。

「貴方は鍛えているし、打撲の処置を知っていると思うが、念の為に診させてくれないか? 医者の目の前で腰を打ったのに僕が何もしなかったと周囲が言うかも知れないのでね。」

 ゴメス少佐は腰に手を当てたまま立ち上がった。どこも骨折はしていない様だが、ヤマザキは一応端末で走査診断を行った。やはりただの打撲傷だった。ヤマザキが湿布薬の処方箋を作成して薬剤管理室に送信した。

「係の者がアパートに膏薬を届けてくれるから、それを用いて湿布しなさい。」
「有難う。とんだ醜態をお見せして申し訳ない。」
「醜態だなんて誰も思っていないよ。ハイネと互角に闘えるなんて、凄いじゃないか。」

 讃えられて少佐はちょっぴり気が楽になった様な表情になった。そしてまだ咳き込んでいるハイネを見た。

「彼が一瞬力を抜いたと見えたので、そこを攻めたのだが、俺を動かす為のフェイクだったのかな?」
「否、ハイネはあの時、咳の発作に襲われたんだよ。」

 ヤマザキは局長自身にも言い聞かせる目的で言った。

「彼は20年ほど前に大病をして、肺が弱くなっているんだ。激しい運動は避けろと言ってあるのだがね、なかなか言うことを聞かない爺さんで困る。」





2018年6月6日水曜日

待機者 1 - 6

 ハイネ局長は普通試合を申し込まれても受けない。他の部署と試合を行わないのは遺伝子管理局の慣例で、規則ではない。それに彼はずっと1人で練習して来たので、衆人環視の中で行うのは、実は慣れていなかった。さらに彼にもドーマーのリーダーと言うプライドがある。コロニー人に万が一にも負ける事態になれば面子が立たない。
 だが、その日のハイネは、確かに「おかしかった」。大勢が利用する時間帯に運動に来て、ギャラリーが集まるのも気にせずに演武を行った。そしてゴメス少佐のお誘いに、即答で「いいですよ」と言ったのだ。
 ギャラリーが増えた。ジムからプールから球技場から、ドーマーもコロニー人も彼等2人の試合を見ようと集まって来たのだ。
 ポール・レイン・ドーマーはワグナー夫妻とリング際に座る場所を確保して、その時を待った。
 レフリーを引き受けた闘技場の職員が声を掛けると、選手両者はリングの中央で向き合った。ギャラリーが応援の声を掛ける間も無く、彼等はいきなりぶつかり合い、組み合った。どちらが先かわからない。柔道なのか空手なのかレスリングなのかわからない。全くのフリーで2人の男は闘いを始めた。子供の喧嘩の様にも見えて、しかし狙ってはいけない箇所はちゃんと外している。頭部は打たない、股間も狙わない。どちらもプロテクターを着けていないので、危険なことはしない。ちゃんと計算して攻撃を繰り返しているのだ。

「互角ですね!」

 ワグナーが感心して呟いた。どうかな、とレインも呟き返した。

「局長は小一時間演武した直後だぞ。」
「無理なさらなければ良いけど・・・」

とキャリーは医師らしく心配した。ゴメス少佐は片膝が悪いと言ってもまだ若い。それに実戦経験に長けている。方やハイネ局長は若く見えても97歳、それも限りなく98歳に近い時期だ。そして彼には実戦経験がない。シミュレーション装置で戦闘訓練を受けただけだ。格闘技に関して言えば、最後に試合をしたのは数十年前だ。
 ゴメス少佐が試合を申し込んだのは、ハイネが若く余裕がありそうに見えたからだ。実際の年齢を知ってはいるが、実のところ少佐は待機型の遺伝子保有者やメトセラ型改良遺伝子保有者に出会ったことがなかったので、ハイネの若さが信じられないでいた。本当は執政官達が言うほど歳を取っていないのではないか、と彼は思ったのだ。
 7分が経過した。素速く激しい動きを繰り返していたので、両者は汗をかき始めていた。無駄な動きはしていないのだが、互いに有効な攻撃を仕掛けては躱されたり、反撃されて勝負がつかない。
 
「局長って、あんなに積極的に攻撃する人だったんですね!」

 ワグナーが再び感想を呟いた時、レインの真後ろで声がした。

「いいや、彼は今欲求不満が溜まって解消させようと躍起になっているんだ。正常じゃない。」




2018年6月5日火曜日

待機者 1 - 5

 リング周辺から拍手が聞こえて来た。ハイネの演武が終了したのだ。レインは見ておけば良かったと少々後悔した。良い手本はちゃんと見るべし、と養育棟での授業で教えられたし、局長の演武は滅多に見られるものではない。早朝か深夜でなければ彼はやらないのだから。

 そう言えば、何故今日に限ってこんな人が多い時間帯に局長がここにいるのだろう?

 考えても埒が明かないことなので、レインはグラスをカウンターに返すとロッカールームへ行こうと体を出口の方へ向けた。その時、リングのそばにいた執政官のアナトリー・ギルが彼の動きに気づいて駆け寄って来た。ファンクラブで幹部面をしている若い学者だ。レインを自分の恋人の様に扱うので、他の会員が疎ましく思っている。しかし当人は平気だった。ドーマーは執政官に逆らわないと言うルールを都合良く解釈してレインを独占しようとする。
 レインもギルの動きを察すると歩調を速めようとした。ギルが彼に追いついて、運動着の上からレインの腕を掴んだ。

「待てよ、ポール。面白いものが始まるぞ。」
「なんだよ?」

 レインはファンクラブに対して敬語を使わないことにしている。普通執政官には、例え相手が年下でも「親」として敬い、丁寧な言葉遣いをするように躾けられているのだが、ファンクラブはドーマー達のご機嫌取りだ。だからドーマー達は自身のファンクラブに対して横柄に振る舞う傾向にあった。
 ギルはレインの顔を見て、ニヤリと笑った。

「保安課長と遺伝子管理局長がこれから試合をする。」
「なにっ!」

 レインはギルの手を振り払い、リング際へ駆け寄った。リングと言ってもボクシングやプロレスのリングではない。ロープはなく、むしろ古代の闘技場みたいな円形でギャラリーは選手を見下ろす形になるのだ。
 レインは緩やかなスロープを駆け下りた。先ほど演武を終えたばかりのハイネがリング際で水分補給していた。対面に胴着に着替えたロアルド・ゴメス少佐が立って準備運動をしていた。ゴメス少佐は、前任者アーノルド・ベックマンの後任で一年前に着任したばかりだ。元宇宙連邦軍特殊部隊の指揮官だったが、事故に遭遇して負傷し、現場での戦闘は無理と言う医師の診断によって退役した。しかし彼は医師の診断がなくても軍を辞めるつもりになっていた。入院中に見た地球の映画に感動し、地球と言う惑星に魅せられてしまったのだ。ベックマンが引退を決意して後任を公募した時に名乗りを上げ、ベックマンと意気投合した。辺境の傭兵上がりだったベックマンと特殊部隊の精鋭だったゴメスは前歴の立場が違うが、どちらも命懸けで大勢の人々を守って来たし、部下を指揮する地位にいたのだ。
 ゴメスはドームの保安課においてドーマーの保安課員達を鍛える毎日で、時々一般の運動施設に来て、若いドーマー達に武術を教授することもあった。特殊部隊は耐重力訓練も受けているので、ゴメスも運動施設で体を動かすことはなんでもなかった。それに負傷した脚のリハビリにもなった。しかし、ある種の物足りなさを感じていた。保安課員は別にして、一般のドーマー達は健康維持が目的で格闘技を習う。ゴメスと対等に戦えるレベルではなかった。遺伝子管理局のドーマー達は十分な能力がありそうだったが、コロニー人との対戦には応じなかった。コロニー人は対戦相手のドーマーが確定しなければ闘技場の使用を許可されない。せいぜいがギャラリー止まりだ。
 ローガン・ハイネ遺伝子管理局長が演武をしているのを見たのは偶然だ。局長とは仕事で何度も顔を合わせているが、運動施設で彼を見たのは初めてだった。舞を舞うかのごとき優美な動きを見ているうちに、体の奥から疼くような感覚があった。

 この男と闘って見たい!

だから、演武を終えたハイネに彼はさりげない風を装って声をかけた。

「1本お手合わせ願いたい。」

2018年6月4日月曜日

待機者 1 - 4

 ポール・レイン・ドーマーは2時間ばかりトレーニングマシンで筋力を鍛えた後、半時間休憩してから夕食を摂った。1人ではなかった。心は1人だったのだが、彼の周囲には常に取り巻きがいた。執政官のファンクラブと彼に憧れている若いドーマー達だ。レインをみつけたければ人だかりを探せ、と言われる程彼には人が集まった。類稀なる美貌と、冷たく愛想のない性格が男達には人気がある。冷たくても彼は親切な面もあり、彼等はちゃんとそれを知っていた。
 レイン自身は彼等を無視していた。彼が友達だと思っているのは遺伝子管理局の仲間で、それも同年代の局員だけだった。彼が心から愛する、そして行方不明のダリル・セイヤーズ・ドーマーを知る者だけが、彼の友人だった。何故なら、彼等は皆ダリルが生きていると信じていたからだ。そしていつかは戻って来ると確信していたからだ。
 いつもと同じ、賑やかだが楽しくない夕食を終えると、レインは再び運動施設に行った。今度は胴着に着替えて闘技場に入った。局員や内勤の遺伝子管理局職員達と格闘技の模擬試合を行った。闘技場では彼は維持班のドーマーと組み合わないことにしている。維持班の連中は、健康維持の為に格闘技を練習する。半分は趣味だ。遺伝子管理局の人間の様に外で命懸けの闘いを体験する訳ではないからだ。保安課は維持班だが、こちらは例外だ。戦闘が仕事みたいな部署だから、格闘技もレベルが違う。レインは彼等と組み合うのが楽しみなのだが、保安課は彼等独自の訓練施設を持っているので、滅多に一般の運動施設に現れない。
 レインは格闘技では上位にランク付けされている。お姫様とあだ名される美しい顔に似合わず鋼の様な筋肉を持ち、体得した技も多い。遺伝子管理局ではクロエル・ドーマーに次いで強いと言われている。クロエルは体躯も見事で大きいので、力が強い上に技も多く持っている。少年時代、訓練所でハイネ局長に稽古を付けてもらった折に、技を磨けとアドバイスされて実践したのだ。レインは内心ちょっと羨ましかった。クロエルの様に素直に上司に甘えることが出来ない。局長に面と向かい合うと、緊張する。恐らく相手の心が読めないからだ。ローガン・ハイネはぼーっとしている様に見えて、考えていることを掴めない人だった。それは接触テレパスで相手の心を読んで行動する癖がついているレインには、苦手な相手と言うことに他ならない。上司の体に触れるのは至難の技だから。
 小一時間練習して休憩スペースに行くと、弟分のクラウス・フォン・ワグナー・ドーマーが妻のキャリーと一緒にいてレモン・ジュースを飲んでいた。レインに気が付いたキャリーがジュースをサーバーからグラスに注いで、渡してくれた。
 レインはジュースで喉を潤してから、ギャラリーが少ないことに気が付いた。執政官のファンクラブがいない。見ると、コロニー人達は本戦用のリングの前に集まっていた。

「何かあるのか?」

とレインは部屋兄弟に尋ねた。ワグナーが苦笑しながら答えた。

「局長が演武をなさっているんです。」
「局長が?」

 レインは思わず壁の時計を見た。電光掲示板の時計はまだ8時台だった。ハイネが運動施設に来るには早い時刻だ。普通はこの時間帯に食事を摂るのだが。

「滅多に見られないローガン・ハイネの演武をコロニー人達が喜んで見物しているのです。」
「お気の毒だわ。」

とキャリーが呟いた。

「局長は他人に見せる為に運動なさっているのではないのに。」
「でも素晴らしい演武を見て学ぶことは多い。若い連中には良いお手本だ。」
「コロニー人供が局長の動きから学ぶとは思えないな。」

 レインは皮肉を込めて言った。

「重力が邪魔だろうし、局長の域に達するには100年かかるさ。」

 彼は体力的にはコロニー人は地球人に劣ると信じていた。

2018年6月3日日曜日

待機者 1 - 3

 ポール・レイン・ドーマーが遺伝子管理局本部のロビー迄降りた時、ローガン・ハイネ局長が玄関から入ってきた。昼寝をして幾分気分が良くなったので普段通りの午後の業務の為に出て来たのだ。レインは「お先に上がります」と挨拶してすれ違おうとした。すると局長に呼び止められた。

「チーフ・レイン、次の出動は明日だったか?」

 レインは足を止めて局長を振り返った。

「その筈でしたが、医療区の嫌がらせで、明々後日になりました。」

 局長も彼を振り返った。

「嫌がらせ?」
「俺の年齢では抗原注射の間隔を10日に1回にしろと言われました。」

 誰の目から見ても40代そこそこに見える97歳の局長が、レインの全身を下から上迄ジロリと眺めた。

「幾つになった、レイン?」
「まだ38歳です。」

 味方してくれるかと思いきや、局長は素っ気なく言った。

「飽和する恐れがある。医療区に従いなさい。」

 チェッと内心舌打ちしながらレインは「はい」と答えた。そして呼び止められた理由はそれだけだろうかと疑う間も無く、局長は言った。

「5日後に視察団が来る。君達が帰投する日の翌々日だ。接触しないよう気をつけなさい。また例の軍の広報の男が参加するそうだ。」
「例の?」

 レインは前回3年前の視察団がドームに来た時、接触を避けた。軍の広報の男の悪い評判は聞いていたが、顔を見ていない。見たいと思わない。

「わかりました。気をつけます。」

 局長は頷くと、受付の職員にも顔を向けた。君も聞いたな? と無言の問いかけをしたのだ。受付の職員も「気をつけます」と答えた。局長は頷き、エレベーターに向かった。
 レインは本部から外に出た。ジムに向かって歩きながら思った。医療区は局長の捕獲を企んでいる筈だ。今回はどこで捕まえるのだろう?
 ドーマー達は局長の入院はドームが視察団の物好きから彼を守る為だと信じている。しかしレインは接触テレパスと言う能力を母親から遺伝で受け継いでいる。だから局長入院の本当の理由を古参の執政官から情報を得て知っていた。

 ローガン・ハイネと言う人は一体いくつ武勇伝を持っているのだ?



待機者 1 - 2

 ポール・レイン・ドーマー遺伝子管理局北米南部班チーフはイライラした気分で自身のオフィスに居た。彼は秘書を持っていないので執務室を彼1人で使っている。大嫌いな書類仕事をようやく片付け、明日は現場に出かけようと抗原注射の予約を医療区に申し込んだら、「待った」を掛けられた。注射の間隔が短過ぎると言うのが理由だ。週のサイクル通りにしているのだから、短いことはないと抗議すると、彼の年齢では10日サイクルにしなければならないと言われた。

「俺はまだ38歳だが?」
「もう38歳ですね。」

 係のドーマーも譲るつもりがない。局員が体を壊せば彼の責任になる。

「せめて後2日我慢して下さい。チーフなんだから、内勤の仕事はいくらでもあるでしょう?」

 その内勤の仕事が嫌いだから外に出たいのだ。レインはムカッときたが、係を虐めると必ず医療区長に告げ口される。区長のヤマザキ博士は苦手だった。飄々としてつかみどころがない。それに怒らせると「入院が必要」と診断書を長官に提出されてしまう。手続きに関して局長を飛ばしてしまうのも平気な人だ。何しろ局長も時々「捕獲されて」入院させられてしまうのだから。
 レインも捕獲されないよう気をつけなければならない。

「わかった。では、明々後日の朝一番で頼む。一番機に搭乗するから間に合うように手配してくれ。」
「了解。」

 係は横柄に言って電話を切った。レインは溜め息をついて、副官で第1チームのリーダー、クラウス・フォン・ワグナー・ドーマーに電話を掛けた。

「医療区の意地悪で出発が明々後日になった。」
「チームも待機させましょうか?」
「面談の予約は入っているのか?」
「サンフランシスコで2件、ダラスで1件です。どちらも明日の午後の面談です。」
「市民を待たせてはいかん。担当者だけ出発させろ。それなら医療区も文句は言わない筈だ。」
「了解。」
「君も出かけてくれ。少し出張が長くなるが、向こうで落ち合おう。」
「わかりました。」
「キャリーに謝っておいてくれ。」

 キャリー・ジンバリスト・ワグナー・ドーマーはクラウスの奥さんだ。希少な女性ドーマーで精神科のお医者さんだから、彼女も忙しい。出産管理区と医療区を行ったり来たりして働いている。夫との時間が少ないのに、貴重な休みの日を削ってしまうことはレインも申し訳なく感じた。彼女はレインにとっても可愛い部屋姉妹だった。幼い時期は一つの部屋で育ったのだ。
 通話を終えて、レインはまた溜め息をついた。待機は苦手だ。働いている方がずっと気が楽だ。書類仕事も働いているうちに入るのだが、レインの意識では無駄な仕事の範疇に分類されていた。
 時計を見て、運動に出ようと席を発った。

待機者 1 - 1

 大富豪の視察団が5日後に地球へ降りて来ると告げた時、遺伝子管理局長ローガン・ハイネ・ドーマーは一言「そうですか」と言ったきり黙り込んでしまった。視察団が来るとドームは局長を医療区に強制入院させて視察団と接触しないように計らう。局長がまだ少年期の時、視察団との間でトラブルがあり、2度と繰り返さないように、それ以来ずっとその措置を取っている。だからハイネは慣れている筈だ。

 そう言えば、この数日ハイネは大人しい・・・

 南北アメリカ大陸ドーム長官のニコラス・ケンウッドは親友の様子がおかしいことに気が付いていた。局長は日常業務を普通にこなしているが、オフの時間はあまり動かない。食堂でポツンと1人で座っているか、図書館の個別ブースでじっとしているかだ。運動施設に行っても1時間もすれば帰ってしまう。
 昼前の打ち合わせ会の後で長官と局長は一緒に昼食を取ったが、局長はあまり食べず、珍しく残して「お先に失礼します」と言った。ケンウッドは思わず声を掛けた。

「体調が悪いのか?  庭園の昼寝は止めてアパートで横になったらどうだ?」

 いつものハイネだったら鼻で笑い飛ばすのに、その日、彼は

「そうします。」

と呟いて歩き去った。
 ケンウッドは医療区長のヤマザキ・ケンタロウに電話を掛けた。ハイネの様子がおかしいと懸念を伝えると、けしからんことにヤマザキに笑い飛ばされた。

「ハイネは寂しいんだよ。サヤカが重力休暇を取ってもう2週間留守にしているから。」
「2週間だって?」

 ケンウッドは思わず眉を顰めた。執政官は重力休暇を最低年2ヶ月取ることを義務付けられている。しかしアイダ・サヤカ出産管理区長は毎月3日、定期的に取っているだけだ。月へ行って、子供や孫達と会って、また戻って来る。それなのに、今回は違った。
アイダは、年老いた母親が長くないと連絡を受けて看病の為に火星へ帰ったのだ。火星の姉からの連絡では、今日明日にも危ないとのことだったが・・・。

「しぶとい年寄りで、持ち直しました。ですが、いつ容体が急変するとも限りません。そばについてやって欲しいと病院に言われまして・・・」

 最後の連絡で、アイダはケンウッドにそう告げた。彼女は地球勤務が長い。ずっと母親から離れて暮らしてきた。最後の数日だけでもそばに居てやりたいと思ったのだ。医師から長く持って4、5日と言われたのに、まだ戻って来ないところを考えると、母親はかなり強い心臓を持っていると思える。
 宇宙からドーマーに直接連絡を取ることは許可されていない。それにハイネとアイダが夫婦であることはケンウッドとヤマザキしか知らない秘密なのだ。だから、アイダは母親の容態を夫に教えることが出来ない。まだ帰れないと謝ることも出来ないし、ハイネが妻を励ますことも出来ない。
 ドーマーだって人間だ。肉親を知らず、肉親を失う悲しみに無縁だと考えられているが、それは間違いだ。彼等は部屋兄弟を肉親以上に愛しているし、友人や部屋兄弟を失う悲しみも辛さも知っている。ハイネは妻の帰りが遅いことが不安で辛いのだ。彼女がきっと死に行く母親の元で辛い悲しい思いをしているのだろうと想像して、彼も悲しいのだ。

 彼女が戻って来る迄、こっちは黙って彼を見守るしかないのか・・・

 ケンウッドは溜め息をついた。アイダに早く帰れと言うことは、母親が早く永眠してくれと言うことになってしまう。だからハイネは一言もそれに触れないのだ。

「ハイネに元気がないのなら・・・」

とヤマザキが提案した。

「今夜にでも彼を捕獲してしまおう。視察団が来る迄まだ5日あるが、今夜緊急入院してそのまま、と言う方が視察団にも説得力があるだろう?」

 ケンウッドはその必要はないのに、思わず食堂内を見回して誰かに聞かれていないか確認してしまった。

「もしもし、ケンさん?」
「ああ・・・聞こえてる。うん、その案で良い。私からネピア・ドーマーに連絡して病室業務の準備をさせておくよ。」

2018年6月2日土曜日

Break 22

 地球にいる女性は全てクローンである。彼女達のオリジナルは宇宙に住んでいるコロニー人だ。「大異変」の後、地球上では女性が誕生しなくなった。クローンの女性達が産む子供は全て男の子で、彼等の精子のX染色体はどう言う訳かクローン女性の卵子に受精することが出来ない。クローン女性の卵子が拒むのだ。地球人の精子だけではない。コロニー人の男性から提供された精子も地球のクローン女性の卵子との間では男の子しか作れない。
 クローン女性のオリジナルは、地球人類復活委員会によって宇宙連邦の各コロニーから集められる。宇宙連邦時代に入ってから、多くの女性が妊娠期間の長さを好まなくなった。彼女達は受精卵を「卵子銀行」に預ける。そこで受精卵は妊娠初期の難しい期間を保育設備装置の中で育ち、安定すると母親と共に入院施設に移される。母親は胎児を見ながら母性を育てて行くのだ。クローンはこの保育設備装置に入っている受精卵から作られる。両親から承諾を得るのは当然だが、この時、クローン製造承諾書に署名すると保育設備装置使用料が無料になると言う特典が与えられるのだ。だから、ボランティアと言う名で受精卵のクローンを承諾する親は少なくない。彼等は地球で地球人として生きる娘のクローンに関して全ての肉親としての権利を放棄する承諾もする。
 実を言うと、極稀ではあるが、地球人の女性の中には、クローンでない女性もいる。コロニー人の中には、自分の卵子を売却する人もいるのだ。地球人類復活委員会はその卵子にドーマーの精子を受精させ、純粋な女性を作る。ドーマーは研究用に育てられている地球人のことで、ドームと呼ばれる地球人の出産施設の中で一生を送る人間だ。彼等の99パーセントは男性で、胎児の段階で選別される。健康で頭脳も身体も優秀な親の子供が選ばれるのだ。

 地球人類復活委員会の収入の大半を占める大企業からの寄付金は宇宙連邦政府の年間予算に匹敵する。そこまでお金を掛けるのは、地球の資源が魅力的だからだ。石油や石炭と言った化石燃料の時代がとっくの昔に終わっていたが、地球にはまだ多種にわたる資源が眠っている。それに食糧生産量はコロニーよりも遥かに多い。しかも、美味しい。
 だから、大企業はお金を掛けて地球を貿易可能な星に戻そうとしているのだ。

2018年6月1日金曜日

Break 21

登場人物紹介

シンディ・ランバート

出産管理区副区長。
産科の医学博士。
優秀だが区長の重責は荷が重すぎるとしてアイダ・サヤカの辞任を阻止してくれとヤマザキに泣きついた。


ジェフリー・B・B・ダルフーム

執政官。遺伝子学者。
ドームでの勤務歴はケンウッドより長い。
地球人の男性側のX染色体がクローン女性の染色体を拒むことを発見した。
仕事のペースを乱されるのが嫌いで、他の執政官の素行の悪さを上司に告発するのが好き。


アルジャーノン・キンスキー・ドーマー

遺伝子管理局長付き第2秘書。
元局員。 ネピア・ドーマーの下で働いている。
あまり目立たないので、本編では全く登場しなかった。