2017年5月23日火曜日

家路 4

 ライサンダー・セイヤーズは仕事を終え、図書館で勉強する為にバスに乗った。夜勤明けなので疲れていたが、眠る前にもうひとふんばりしたかったのだ。彼の記憶力は抜群に優秀なので、暗記物の科目は楽勝だ。それに見つけたばかりのアパートは、子供がいる家庭が数軒入居しており、昼間は結構賑やかで眠るには図書館の方が良いと彼は思っていた。子供達の多くは養子で、親は男性カップルと言う家庭が大半だ。ライサンダーはなんとなく住民達に親しみを覚えていたが、静けさとなると話は違う。幼い子供の甲高い声は勉強にも睡眠にもふさわしくなかった。
 目的地のバス停でバスを降りて図書館の入り口に向かって歩きだした時だった。

「セイヤーズさん?」

 女性の声で呼びかけられた。女性の知人と言えば職場に数名いるが、彼女達は夕方迄オフィスで働くエリートで、昼間街中を出歩くことは滅多にない。
 ライサンダーは立ち止まって声がした方を振り返った。中年の女性が立っていた。上品な薄いベージュ色のスーツを着ており、髪の毛は栗色だ。薄い水色の目で彼を見つめる眼差しは優しかった。彼女はライサンダーが振り向いたので、微笑んだ。

「やはり貴方、ライサンダー・セイヤーズなのね?」
「どちら様?」

 ライサンダーは少し警戒した。初対面の女性だが、誰かによく似ている。すごく彼に親しい人なのに、思い出せないのは、彼の知古の人が男性で、目の前の人が女性だからだろう。
 彼女は静かに彼に歩み寄り、周囲に声を聞かれない様気を配って名乗った。

「私、フランシス・フラネリーです。」
「あっ!」

 ライサンダーは一瞬うろたえた。Y染色体の父ポール・レイン・ドーマーの取り替え子、世間ではポールの双子の妹とされているフランシス、大統領ハロルド・フラネリーの妹だ。
 フランシスが彼に手を差し出した。

「初めまして、貴方の叔母です。」

 原則的に取り替え子は母親のオリジナルであるコロニー人と血縁関係がある女性のクローンだ。だから遺伝子的に、フランシスはポールの肉親であり、つまりライサンダーの叔母にもなるのだ。
 ライサンダーはそっと握手に応じた。そして素早く周囲に目を配った。大統領の妹だから、当然シークレットサービスの護衛が付いている。果たして、少し距離を置いて数人のダークスーツの男性達がさりげない風を装いながらこちらを伺っていた。
 こんにちは、と言ってから、ライサンダーは素直に疑問をぶつけた。

「何のご用でしょうか?」

 フランシスが次の角に駐車しているバンを指した。

「立ち話もなんですから、あちらへ行きましょう。時間はありますよね?」

 ないとは言えないので、ライサンダーは彼女に導かれるままバンに乗り込んだ。
中は広くて、快適そうだ。
 フランシスは彼に車を動かすか、このままそこに留まって話すかと問うたので、ライサンダーはこのままでと答えた。長話はしたくなかった。だから飲み物も断った。

「警戒しているの?」
「いいえ・・・勉強する時間が惜しいだけです。」
「ああ・・・ごめんなさい。」

 フランシスは彼が抱えている書類鞄に目をやった。

「アメリアから聞いています。法律の勉強を始めたのですよね。」
「はい。」
「資格を取っても独立するまで大変ですよ。その間、独りで子育てなさるの?」

 ライサンダーはハッとした。フランシスが現れた理由がその言葉で察せられたからだ。

「父のダリルは独りで俺を育ててくれました。俺には父が2人もいます。」
「でも、彼等は仕事があるわ。貴方も勉強と仕事があるでしょう?」

 ライサンダーが何か言う前に、彼女は提案した。

「私と一緒に暮らしませんか、ライサンダー?」

 予想外の提案だった。彼はてっきり彼女が赤ん坊だけを託せと言うのかと思ったのだ。

「あ・・・貴女と?」
「貴方と赤ちゃんと私の3人で。」
「でも・・・」

 ライサンダーは、ダリルとポールが教えてくれたフランシス・フラネリーの身辺情報を記憶の中で探った。フランシスは現在独身でパリに住んでいたのではなかったか?
 彼の心中を見透かしたかの様に、フランシスが説明した。

「欧州の家はこの秋で引き揚げる予定です。仕事が順調に進んでおり、私が直接指揮を執る必要がなくなりましたから。それで、私は従妹のアメリア・ドッティが購入したモントレーの家をこれからの住居と活動拠点にするつもりです。
 家は決して広くありませんが、普通の家族が住むには充分のスペースがあります。私は貴方と赤ちゃんの生活に干渉するつもりはありませんが、貴方が忙しい時は私が子守をすることが出来ます。」

 ライサンダーがまだ返事を出来ないでいると、彼女は優しく微笑んだ。

「急なお話でごめんなさいね。今ここで答えを出せとは言いません。赤ちゃんが無事に生まれる迄に、どうするか、考えておいて下さい。」

 彼女は彼の手を両手で握った。

「ポールもダリルも好きな時に来てもらって良いのですよ。ゴダート家のご両親も歓迎します。
 勿論、貴方が断ると言うのなら、無理強いはしません。でも、考えておいて下さい。」

 彼女は強い意志の光を放つ目で彼を見つめた。

「女の子には母親も必要ですよ。」