2019年3月31日日曜日

誘拐 2 1 - 5

 ハイネは衛星からパトリック・タン・ドーマーの生体信号を引き出した。ドーマー達の脇の下に埋め込まれた小さな発信機は、人間が生きている間は電波を発し続ける。地球ではそれを感知する技術がないのだが、宇宙では行方不明者捜索用に広く用いられているので、どんな微少な信号でも拾えるのだ。
 局長執務室の中央にある会議用テーブルの上空に白い点が現れ、その周囲に建物の壁が築かれ始めた。2人の秘書がそれを見つめた。
 
「どこかのビルですね。」

と第2秘書のアルジャーノン・キンスキー・ドーマーが呟いた。

「タンはまだ生存しています。敵はどんな意図で彼を拉致したのでしょう。」
「馬鹿者どもの考えなど、理解出来ないさ。」

とネピア・ドーマーが忌々しげに呟き返した。ネピアは南米班で局員として働いていた時代、多くの悲惨な事件現場を見てきた。それらは遺伝子には関係ない、強盗や暴動の現場が大半で、無慈悲に殺害された犠牲者の身元確認に遺伝子管理局が呼ばれたのだ。あの胸の悪くなる光景は、今でもネピア・ドーマーの記憶に刻み込まれて消えてくれない。だからネピアは人間の命を軽々しく奪う輩を心から憎んでいる。暴力は犠牲者にも遺族にも捜査官にも深い傷を残すのだ。
 ハイネは無言のまま、地図を縮小して、タンが誘拐された大学までを表示した。またキンスキーがそれを見て発言した。

「誘拐現場から近いです。」
「市内ですね。」

 ネピアも局長を見て言った。

「敵は大胆なのか、本当にアホなのか、兎に角、タンを遠くに運ぶ時間はなかったようです。」
「或いは、そこが敵の本拠地で見つからないとたかを括っているか、だな。」

 ハイネは端末を見た。まだニュカネンからもレインからも連絡は来ない。
 彼はケンウッドの番号を出し、数秒間躊躇って、それを消した。そしてヤマザキ・ケンタロウの番号にかけた。

「ヤマザキだ。」

と医療区長の呑気な声が応えた。

「どうした、ハイネ、腹でも痛むのか?」
「痛むのは心です。」

とハイネは言った。

「ドクター、救急体制はいつでも用意万端ですよね?」
「なんだ、藪から棒に?」
「24時間以内に患者を届けます。」

 ハイネは冗談を言わない。少なくとも、医者にそんな冗談は言わない。ヤマザキは外勤務のドーマーに何かがあったと察した。

「患者は一人だな?」
「そう願っています。」
「では、少なくとも3人分、用意しておこう。」
「一人に留めます。」

 ヤマザキが優しく言った。

「君達を信じているよ、局長。」