2017年6月16日金曜日

侵略者 1 - 1

 ニコラス・ケンウッドは旅装を解き、ビジネススーツに着替えた。少し時代がかって見えるが、地球では最先端のファッションで、彼は体にぴったりと貼り付く航宙用スーツよりずっと好ましく感じていた。
 執政官仲間には、どうせ直ぐに白衣に着替えるのだから、と私服のままで中央研究所に行く者もいるが、彼は職場は神聖だと思っていたので、必ずスーツで出かけた。
 彼のアパートは質素だ。ただ寝るだけの場所だから、キッチンは必要ないと彼は思っているが、それでも水や軽食のストックはある。寛ぐための狭いリビング、独り用なのに何故か2部屋ある寝室、1室は彼が研究用に持ち帰った資料で埋まっていた、書斎と言う名の狭いコンピュータ作業用空間、バスルーム、クローゼット。彼にとって家はドーム全体だ。リビングは図書館のロビー、キッチンは2箇所ある食堂、書斎は広い図書館、バスルームだって、運動施設に行けばサウナやジャグジーがある。彼にとって本当に必要なのはベッドだけだ。
 部屋を出ると通路に掃除ロボットがいた。ドームのあらゆる場所に進入してゴミを集めたり、掃いたり、拭いたりしてくれる。だから、執政官達はいつも清潔な部屋で仕事が出来るのだが、これらの家事ロボットは本来ドーマー達の労働負担を軽減するためのものだ。
 ドーマーは優秀な遺伝子をストックする為に母親の胎内にいる時期に選ばれて、誕生と同時に母親から引き離され、ドーム内で育てられた研究用の地球人のことだ。彼等のほぼ99パーセントは男性で、母親の手元にはドームで製造された女性のクローンの赤ん坊が残される。母親は自分が産んだ子は娘だと信じて家族の下へ帰っていく。ドームで育てられるドーマー達は、研究用の検体を提供しながら、ドームの運営のために労働をして暮らしている。勿論、給料は与えられるのだが、彼等はドームの外の世界を知らないので、まずお金はドーム内で飲食することと、ささやかな私物を購入することにしか使われない。
娯楽も少ないので、ドーマー達は働くことが普通に暮らすことであり、本当によく働く。だからコロニー人達は、自分達が育てた可愛い地球人に重い負担を与えぬよう、ドームの外ではお目にかかれないロボットに家事をさせていた。

 ようするに、ドーマーを奴隷やペット扱いしていないぞ、と言うプレゼンだな。

 ケンウッドは家事ロボットを見るといつも訳もなく蹴飛ばしたくなるのだ。しかし、彼も家事をロボットにしてもらう身なので、そんな暴挙に出る理由はなかった。
 エレベーターで地上に降り、アパートの建物から外に出た途端、危うく右から走ってきた1人の少年とぶつかりそうになった。彼は咄嗟に身を退け、少年も彼と反対方向へ避けた。

「ごめんなさい、ケンウッド先生!」

 遺伝子管理局訓練所の青い繋ぎの制服を着用した若者だった。

「怪我はないですか?」

 ケンウッドはこの少年を知っていた。彼の「皮膚組織と大気汚染」と言う授業に出ていた子だ。

「何をそんなに急いでいるのだね、セイヤーズ?」

 少し赤みがかった淡い色の金髪の少年が頬を紅潮させた。

「オブライアンが初めてお菓子を作ったと聞いたので、試食に行くところなんです。」
「オブライアン?」

 ケンウッドのクラスにはいなかったはずだ。セイヤーズと呼ばれた少年もそれに気が付いた。

「私と同じ『トニー小父さんの部屋』の子で、1つ下なんです。料理好きで厨房班に配属される夢が叶って、今日やっと1人で菓子を焼かせてもらえるって、今朝言ってました。」
「そうか・・・一人前になる第1歩だな。」

 ケンウッドは時計をチラリと見た。15時少し前だ。お茶の時間だが、遺伝子管理局を始めとする多くの事務系の職に就いているドーマー達が、仕事を一区切りつかせて運動に出る時刻でもあった。運動は健康維持に必要不可欠だ。ドーマーにとって健康維持も仕事のうちなのだから。もっとも、この時間は自由時間でもある。運動しても良いし、図書館で勉強しても良いし、残業しても良いのだ。
 セイヤーズはお茶をしたいらしい。ところで、相棒は?

「レインは行かないのかね?」

 レインはセイヤーズと同じ部屋出身だ。「部屋」と言うのは、幼いドーマー達を数人の集団に分けて養育する係の担当グループのことで、コロニー人の養育リーダーを中心に3人から5人の年配のドーマー達が子供達を育てる。「部屋」に所属する子供達は朝から晩まで常に一緒で兄弟同然だ。この「部屋」を彼等は成長して15歳になると卒業する。子供達は養育棟を出て、ドームの大人社会に加わるのだ。そして一番年下の子供が卒業すると、「部屋」は解散する。一つの「部屋」の子供の年齢差は1年から5年、人数は10名前後だ。セイヤーズは弟分が初めて焼く菓子を食べてやりたいのだ。
 セイヤーズの相棒と呼ばれるレインは、「トニー小父さんの部屋」では最年長の少年だ。と言っても、セイヤーズより1日早く生まれただけだが。この2人は赤ん坊の頃から仲良しで、いつも一緒にいた。容姿も性格も全く異なるのだが、馬が合うのだろう。2人と同年齢で同じ訓練所に進学した同じ部屋のニュカネンが可哀想に思えるほどだ。

「レインは先に行っちゃいました。私が教室の片付けに熱中している間に・・・」

 セイヤーズらしい言い訳だ。ケンウッドはクスッと笑った。セイヤーズは何かに気を取られると納得出来るまで没頭する癖がある。逆にレインは体裁さえ整えられればそれで終わりだ。ついでに甘い物が大好きな少年だった。

「そうか、それは足止めして悪かった。さぁ行きなさい。後でオブライアンが何を焼いたのか、教えておくれよ。」
「はい、では失礼します!」

 セイヤーズは人なつっこい笑みを浮かべて、彼に手を振ると駆けて行った。その楽しそうな後ろ姿を見て、ケンウッドは思った。あの少年達は本来なら地球の広い大地を自由に駆け回っていたはずなのに、と。