2021年4月26日月曜日

狂おしき一日 La Folle journée 17

  薬剤室の室長ショーン・ドブリン・ドーマーは慎重に最後の薬剤を調合機に注入した。ボタンを押すと機械は小さな唸り声の様な音をたて、やがて金色に光る半透明の錠剤をポコポコと吐露口から吐き出した。全部で8個。彼はそれを小さな容器に入れた。
 カウンター越しにそれを眺めていたヤマザキ・ケンタロウがカウンター上のパッド画面に署名を入力した。受け取りのサインだ。

「酸欠の頓服なんて滅多に調合しません。」

とドブリンが言った。そうかい、とヤマザキが気の無い返事をした。

「宇宙じゃ船外活動する作業員やコロニーの壁のメンテ作業員の必需品だよ。」
「そんな仕事はロボットがするでしょう?」
「作業の内容によるさ。人間でなけりゃ難しい時もある。だから業者は必ず酸素補給剤を常備しているんだ。」

 ヤマザキは容器を照明にかざして錠剤を眺めた。

「地球上だって海洋での作業をする人は使うだろう。河川の工事や地下作業員だって事故に備えて携行しているよ。」
「そうなんですか。」

 ドブリンは外に出た経験がない。ローガン・ハイネと同様生まれてからずっとドームの中だけで生きてきた。職業は薬剤師だが、これもハイネ同様遺伝子管理局内務捜査班の隠れ蓑だ。彼は薬剤の受注状況から執政官の契約外研究の有無を監視してきたのだ。女性誕生の鍵が発見され、ドームの研究目標が女性を誕生させることから地球人の寿命を大異変前の年数に戻すことに変更となってからも、内務捜査班は執政官が違法な研究をしないように監視しているのだった。

「酸欠がどんな場所で起きるのか、想像したことがありませんから。」

 ドブリンはまだ保養所へ出かけた経験がない。外気で呼吸した経験がないのだ。彼は抗原注射を打てる年齢を過ぎてしまった。外気に慣れるには「通過」を経験するか、自然に彼の肺が外気に慣れる迄時間をかけて何度も外出を繰り返すしかない。彼は今迄多忙を理由に保養所行きを延ばしてきた。しかし、薬剤室の面々は彼を除いた全員が外の世界を体験し終わった。だから、維持班のターナー総代が彼に「出向指令」を出した時、彼は困ってヤマザキに相談したのだ。ヤマザキ医療区長は、酸素補給剤の処方箋を出してくれた。

「ハイネが初めてマスクを付けて外に出た時に、これを持たせたんだ。結局使わずに済んだけどね。あの爺さん、酸欠になるのが怖くて、散歩を10分で切り上げたんだよ。」

 思い出し笑いをしたヤマザキに、ドブリンは言った。

「その後も局長はこの薬を持って出られたのですか?」
「うん。お守りみたいなもんだな。ポケットに入れておくと安心するらしいよ。君もお守り気分で持って行くと良い。地球人が地球の空気を吸って酸欠になる筈がない。恐ろしいのはインフルエンザなどの病原菌だが、罹患者と接触しなければまず心配ない。君の肺はハイネと違って丈夫だから、心配することはない。」

 ヤマザキにそう言ってもらえると、本当に大丈夫な気になった。ドブリンはヤマザキから容器を返してもらうと、自分のポケットに入れた。

「ところで医療区長は明日のパーティーにお出かけになるのですね?」
「うん。夕方迄には帰るよ。ランチがメインのパーティーだから、酒も飲まないし、二次会もしない。もし、何か急用があれば・・・」
「連絡しません。」

とドブリンは遮った。

「折角のお祝いごとですよ。仕事で呼び出しをかけるなんて野暮なことはしません。局長から叱られます。」

 ヤマザキは苦笑した。彼もハイネもケンウッドも、ドームから呼び出しがあれば直ぐにパーティーを切り上げて帰るつもりでいるのだ。彼等にとってドームが人生の中の最優先事項だった。
 ドブリンが言った。

「薬剤室一同から、ケンウッド長官にご結婚おめでとうございますと伝えて下さい。」