2021年4月22日木曜日

狂おしき一日 La Folle journée 11

  南北アメリカ大陸ドーム遺伝子管理局長ローガン・ハイネは朝の書類仕事を大車輪で片付けた。以前行っていた「日課」は既に部下達が分業で行うようになって久しい。しかしその代わりに増えた仕事もある。ドーマーの社会復帰に伴う予算や法律に関する書類の確認、作成だ。外の行政組織に提出する書類には期限というものがあって、ドームの人間だからと言ってそれが免除される訳ではない。期日までに提出しなければならない書類のなんと多いことか。それらを秘書に任せることも出来ない。書類が求めているのは組織の長、遺伝子管理局長の署名だからだ。秘書のキンスキーもセイヤーズもボスの筆跡を真似るのは上手い。しかし、嘘は良くない。万が一不祥事が起きた場合の責任の所在があやふやになってしまう。
 最後の書類を閉じたハイネは立ち上がった。キンスキーは明日の局長不在に備えて自身のスケジュール調整を最終確認していた。副局長と打ち合わせは終えているが、内務捜査班とはまだだ。エストラーベン内務捜査班チーフが昨日から捉まらない。ドームから出ている訳ではないから、どこかにいる筈なのだが。セイヤーズは普段通り細々とした雑事務に追われていた。仕事が早い男だが、今日はポール・レインから電話がかかってきて業務が中断したり、ゴーン副長官からも何かメッセが送られてきて、それがセイヤーズの予想外だったらしく、ちょっと精神的に落ち着かないらしい。ハイネは彼等に「送迎フロアに行ってくる」と声をかけた。2人の秘書が了承のサインを体の動きで示した。
 遺伝子管理局本部を出たハイネは足早に歩き、珍しく中央研究所の前を通り過ぎ、クローン観察棟の前も過ぎて医療区に入った。受付を無視して出産管理区の入り口に向かったので、彼を見かけた医療従事者達は遺伝子管理局長が取り替え子の新生児の様子でも見に行くのだろうと思った。
 しかしハイネは出産管理区の中を通る通路を足早に歩いただけで、中には入らなかった。出会う人々と挨拶を交わしたが、無駄話はしないでまっすぐ送迎フロアに向かった。送迎フロアは2箇所あり、一般の地球人用のゲイトと繋がっている大きなフロアではなく、ドーム関係者が使用する小さいフロアの方へ彼は出て行った。小さいと言っても200人は余裕で入れる広さだ。そこにいたゲイトの係官が遺伝子管理局長に気がついて挨拶した。

「こんにちは、局長、お客様は2番の面会フロアでお待ちですよ。」
「もう着いていたか。有難う。」

 ハイネはドーム関係者でない人々がドーム関係者と面会する時に使用される部屋へ入った。ここは5つの部屋があり、リラックスして談話できるサロンのような3部屋と、業務の話をする為の会議室のような2部屋がある。ハイネの客はサロン風の部屋で座っていた。手前の小さなテーブルの上に紙の楽譜を広げてペンで書き込みを入れる作業をしていたが、ハイネが入室すると顔を上げた。彼女の顔がパッと輝き、椅子から立ち上がると彼に飛びついて行った。

「会って下さって有難う、局長!」

 そして彼女は彼の耳元で小声で囁いた。

「会いたかったわ、お祖父ちゃま!」

 ハイネは壊れ物を扱うように優しく孫娘を抱き締めた。

「立派になったな、シャナ。それに以前にも増して美しくなった。」

 ハイネを知る人が見たら誰でも驚く程、彼はとろける様な表情で孫に微笑みかけた。
 ショシャナ・パーシバルは今太陽系連邦でも話題の新進ピアニストだ。昨年のコンテストで優勝してから各コロニーで演奏して廻っている。どこに行っても引っ張りだこの人気者だった。彼女の名声は地球にも届いており、彼女はドーム空港で素顔を隠して歩いたが、ドームのゲイトでは消毒の為に全てを曝さなければならず、係のドーマー達に正体がバレてしまった。彼女が来ていることをドーム内に広めないと言う条件で彼女はサインに応じてやったのだ。
 仕事で使い易いし、ファンにも覚えてもらい易いと言う理由で、彼女は父の姓を選択した。彼女が音楽の道に進むことを渋っていた母キーラはそれも不服だったようだが、彼女がコンテストで優勝するとこだわりを捨ててくれた。
 テーブルを挟んで対面に座ったショシャナは、ハイネに楽譜を見せた。

「明日、演奏する曲目なの。パーティー用にちょっとアレンジしてみるつもり。いかがかしら?」

 若かりし頃、ドームのロックバンドでリードギターを弾いていたハイネは、楽譜をじっくりと眺めた。それは古い曲だった。宇宙でもこの曲が演奏されてるのかとハイネは心の中で感激した。ロックバンドでは演奏しないが、ハイネはクラシックギターも習ったことがある。この作曲家は好きだった。

「フェルディナンド・カルッリだね?」

 ショシャナが嬉しそうに頷いた。そして何かを期待する様な目で祖父を見た。ハイネは苦笑した。

「初見で弾けるとは思うが、上手く君と合わせられるかな。」
「お祖父ちゃまなら大丈夫よ!」

Duo Op. 37 in D Major for guitar and piano

 ハイネは端末で何かを確認して、ショシャナに言った。

「では、これから図書館の音楽室へ行こう。ぶっつけリハだ。」