2021年4月29日木曜日

狂おしき一日 La Folle journée 20

  その日の夕方、ドームの2箇所ある食堂と出産管理区の食堂に美しいピアノの調べが流れた。図書館の音楽室で演奏された曲が放送で流されたのだ。

「ショシャナ・パーシバルの演奏だ。」

とヤマザキ・ケンタロウがチキンの香草焼きを一口大に切り分けながら言った。ケンウッドは耳を澄ませてみたが、演奏者の判別までは出来なかったので、尋ねた。

「音源を知っているのかね?」
「知っているとは?」
「ラベルを見たとか?」
「まさか。」

 ショシャナ・パーシバルの後援会会長でもあるヤマザキがニヤリと笑った。

「あの子の演奏だけは聞き分け出来るんだ。オモチャのピアノを弾き始めた頃から、彼女の演奏を聞いてきたんだからね。」
「ファンの鑑だな。」

 そこへダリル・セイヤーズが息子ライサンダーと孫のルシア・ポーレット、そして恋人ポール・レインの取り替え子の妹フランシス・フラネリーを連れて現れた。ケンウッドとヤマザキは立ち上がって女性達を迎えた。

「お招き、有り難うございます。クララ・ボーマンに代わってお礼申し上げます。」

 フランシスがケンウッドに挨拶した。ケンウッドも来てくれた礼を述べた。ヤマザキも挨拶してから、無遠慮に言った。

「貴女がこちらの一般食堂に来られるとは予想しませんでしたよ。」

 フランシスがニッコリした。

「あちらの食堂の壁の仕組みを教えられたので、見られる側として考えたら愉快ではないと思いました。それでこちらに来ました。ダリルもこちらの方が面白いと言うので。」
「確かに、こちらは仕事抜きで食事が出来ますからね。」

 ケンウッドは幼いルシア・ポーレットにヤァと声をかけた。ルシアは恥ずかしがって父親の後ろに半分隠れて彼を見た。しかし顔は笑っていた。
 セイヤーズ一家とフランシスが空いているテーブルに向かって歩き去ると、ケンウッドとヤマザキは再び着席した。ヤマザキが好奇心で質問した。

「独身最後の夜はどうするつもりだい?」
「静かに眠るつもりさ。飲み会はなしだ。」
「確かに、今日は君も僕も明日の休みに備えて忙しかったからな。ところで、ハイネはどこに行ったんだ?」
「私にも行き先を教えてくれていないんだ。ドームの外には出ていない。彼は外出時に私の許可を必要とするドーマーグループの一人だからね。」

 そこへ司厨長のピート・オブライアンが通りかかった。彼が食事時の繁忙期に食堂から出かけるのは珍しかったので、ヤマザキが声をかけた。

「ピート、持ち場を離れるなんて珍しいな。どこか体調が悪かったのか?」

 医者らしい質問に、オブライアンが振り返った。

「いいえ、僕は元気ですよ。ちょっとデリバリーで出かけていたんです。」
「デリバリー?」
「ローガン・ハイネに呼ばれたんですよ。夕食2人前を図書館のロビーに届けろとね。あそこは飲食が許可されているから。」

 ケンウッドが不審そうな表情で声をかけた。

「ハイネは何をしているんだ?」
「さぁ・・・」

 オブライアンが首を傾げた。

「だけど、美女と一緒でしたよ。ほら、火星のピアニストの・・・」
「ショシャナ・パーシバルか?」

 ヤマザキがびっくりして尋ねた。

「もしや、あれは本人が弾いていたのか?」

 まだピアノの曲は放送中だった。生演奏ではなく、音楽室で「弾きたて」の曲を時間差をつけて流しているのだ。そのカラクリに気がついたヤマザキは、ハイネの企みを悟った。
オブライアンはちょっとうっとりとした表情でピアノ曲を聞く素ぶりを見せた。

「ドームの中の人々の為に有名ピアニストが演奏してくれているんですよ、ドクター。僕等役得です。ローガン・ハイネも粋な図らいをしてくださったもんだ。」

 オブライアンは厨房へ戻って行った。ケンウッドはヤマザキを見た。

「ドーマー達にピアノを聞かせる為に、ハイネは昼前からショシャナを音楽室に連れ込んだのか?」
「違うだろう。」

 ヤマザキは笑った。

「それだけなら、時間はかけないさ。シャナはこの程度の演奏ならリハなしでも弾ける。練習が必要なのは、ギターリストの方だよ。」