2018年10月7日日曜日

中央研究所  2 1 - 5

 出産管理区と中央研究所の食堂を隔てるガラス壁の向こうにダリル・セイヤーズ・ドーマーが姿を現すと、研究所側でドヨメキが上がった。セイヤーズは疲れている筈だが、機嫌良さそうで、食事のトレイをテーブルに置くとすぐに食べ始めた。隣のテーブルに保安課員が座り、監視しているのも気にしていない。近くのテーブルに居た女性グループが話しかけ、セイヤーズは陽気に相手を始めた。魅力的な笑顔だ、とケンウッドは思った。セイヤーズにはレインにはない人当たりの良さがある。初対面の人間とも直ぐに仲良くなれるのだ。
 セイヤーズの笑顔を見たレインが立ち上がった。ガラス壁の方へ体を向けたので、ケンウッドは拙いと感じた。レインは疲労困憊して平常心を失いかけている。ここで取り乱してみっともない姿を大勢に見られたら、あの誇り高い男は更に泥沼に陥るだろう。
 その時、ゴーンの声が聞こえた。

「レイン・ドーマー、ちょっと来てくれませんか?」

 女性の声はよく聞こえる。レインが振り返り、ゴーンを認めた。彼はファンクラブに何か囁くと、自身のトレイを掴み、さっさとファンクラブから離れて長官達のテーブルにやって来た。ギル達から逃げたかったのだ、とケンウッドは悟った。レインには常にドーマーの仲間かファンでない普通のコロニー人をそばに配してやれば良いのだ。
 レインはゴーンの向かいに座り、ケンウッドとゴーンの両方に朝の挨拶をした。
おはよう、と言ってから、ケンウッドは既に判明していることを尋ねた。

「夕べは寝ていないのだろう、レイン?」
「横にはなりましたよ。」

ギルの部屋でギルのベッドで、ギルにハグされて横になっていた。肌には触らせなかった。疲れている時に他人の感情など感じたくない。ポール・レイン・ドーマーは接触テレパスだ。他人の肌に接すると、相手の感情を感じ取る。元気な時はコントロールが出来るから、何も感じないで済むが、疲弊している時は災難だ。相手の欲望、快不快、喜怒哀楽が怒濤のように彼の中に入ってくる。だから、レインは疲れている時は心理的に安静状態の人間と一緒にいたい。相手の心が彼を安心させてくれるからだ。
 ゴーンがファンクラブの方をチラリと見て、言った。

「執政官の遊び相手をするのは、貴方の仕事ではありませんよ。」

 レインは赤面した。上司たちは全てお見通しだ。長官と副長官は、昨夜遅く迄ダリル・セイヤーズ・ドーマーの体を調べたはずだ。汚染された外気が肉体に及ぼした被害や細菌や放射線から受けたダメージなどを、頭のてっぺんから爪先迄、髪の毛1本も見逃さずに検査しただろう。当然、レインがダリルに暴行して負わせた傷も見たはずだ。
 しかし、上司たちはそれには触れなかった。ケンウッドが昨夜のセイヤーズとの話し合いを聞かせた。セイヤーズの生殖細胞が持つ特殊性を人類復活に活用する計画を立てること、彼がそれを承知する条件として、息子には手出ししないでくれと要求したこと。幹部会が彼の要求を呑んだこと。

「だから、セイヤーズはもう逃げ出したりしないと約束してくれたのよ。」

 ケンウッドもゴーンもレインが喜ぶものと思っていた。ところが、レインは元気のない表情で、そうですか、と言っただけだった。
 ケンウッドとゴーンは互いの顔を見やった。ケンウッドは、昨日帰投した遺伝子管理局北米南部班第1チームが局長に提出した報告書にまだ目を通していないことに気が付いた。彼はふと嫌な予感がして、レインに尋ねた。

「レイン、セイヤーズの子供はどうした? ベーリングの娘もまだ保護していないのだな?」

 痛いところを突かれて、レインは返事を躊躇した。 目を泳がせた彼を眺め、ゴーンは、これはただ逃げられただけじゃないわね、と思った。
 レインが小さな声で答えた。

「見失いました。川で・・・」