2017年9月16日土曜日

後継者 4 - 7

 同じ時刻、遺伝子管理局長ローガン・ハイネ・ドーマーは医療区の水泳プールに居た。ドームの中は通年気温が一定に保たれているので、水泳も年間通して出来るのだが、夏の終わりになると差し込む日差しの角度が低くなり、ちょっと泳ぐには涼しい気分にさせる。しかしハイネは夜に泳ぐので全く気にしなかった。彼が利用するリハビリ用プールは出産管理区の隣にあり、実は出産管理区に収容されている女性達のプールと植え込みで隔てられているだけだ。ちゃんと監視員が居て、ドーム住人の男達が女性の聖域に侵入しないよう見張っている。ハイネが医療区のプールを使うのには理由があった。一般の運動施設のプールを使うと若いドーマー達が彼に遠慮してしまうのだ。何故特別扱いされるのかハイネには理解出来ないが、水から揚がると大抵プールサイドに見物人が居て彼の泳ぎを眺めている。他の運動施設でも同様なので、彼は同胞が利用しない遅い時刻に運動する習慣が身についていた。
 ハイネが平泳ぎで3往復して水から揚がると、何故か見物人が1人いて、彼と目を合わせてにんまり笑った。

「こんばんは、局長。いつ拝見しても綺麗なフォームですね。」
「こんばんは、クロエル・ドーマー。君がここに居ると言うことは、面会日だったのか?」

 異色の経歴を持つドーマー、クロエルには「養母」が居る。彼が幼少時、南米の分室でペット扱いされていた時に、視察に訪れて地球人類復活委員会に通報した女性だ。彼女はその後、クロエルの余りの愛らしさに心を奪われ、養子に欲しいと申請を出した。しかし地球人保護法に阻まれ、法的な手続きは不可能だとわかった。諦めきれない彼女は、クロエルが北米にあるドームに引き取られてからも年に何回か訪問して「母と子」の時間を持った。あまりの熱心さに委員会も折れて、非公式ながら養子を認めたのだ。
 他のドーマー達には母親の存在を意識しない教育を施しているドームとしては、開けっぴろげに母性を公開して欲しくなかったので、クロエルと養母は出産管理区と医療区の境目の医療区側で面会することが多かった。
 クロエルはハイネの質問に目尻をトロンと下げて頷いた。

「はい、おっかさんとさっき迄一緒にご飯食べてました。」

 母親を知らないハイネには、女性執政官と食事する程度の認識しかなかった。つまり、デートだ。

「おっかさんはまだ優しいか?」
「ええ、僕ちゃんにいつもメロメロですよ。今日は新しい時計をくれたんです。ダイバーズウォッチって、水陸両用です。」
「宇宙製だろう? 水中でも使えるものをわざわざ宇宙で作るのか?」
「宇宙にだって水はあるでしょ?」

 クロエルは自慢げに腕時計を見せた。多分、宇宙空間活動用機密服を着用しても使用出来るのだろう、とハイネは思った。

「おっかさんはもうゲストハウスへ入ったのか?」
「いえ、彼女はいつも泊まらずにシャトルの最終便で月へ帰っちゃいます。あっちに娘さんがいるので。もうお孫さんも出来るそうですが。」

 我が子がいても養子が欲しい。女性とは不可思議だな、とハイネは思った。男は自身の遺伝子を受け継ぐ子供しか必要ないと思うのだが、それは生物としての雌雄の違いなのだろうか。だが、それなら取り替え子の男の赤ん坊達を養子に迎えてくれる大勢の独身男性達は、母性の欠片を持っているのだろうか。
 ちょっと物思いに沈みかけたハイネに、クロエルが陽気に声を掛けた。

「局長、僕ちゃんと一泳ぎ、競争してみませんか?」

 ハイネは若者を見た。服の上からでもクロエルの逞しい筋肉が見て取れた。水泳よりは格闘技に向いている体型に思えたが、彼は頷いて挑戦を受けた。視野の片隅に、出産管理区側の植え込みの向こうからこちらを見ているキーラ・セドウィック博士の姿を捉えたからだ。彼女が何者であれ、女に「いいところ」を見せたいのは男の常だった。
 クロエルはプールサイドの更衣室で素早く着替えて出て来た。
 プールサイドに並んで立ち、号令をクロエルに任せて、2人の男は水中に跳び込んだ。
クロールで50メートルを10往復すると、ハイネは息苦しさを感じた。クロエルの体が少し前を行くのが水中でも見えたので、負けじと頑張ったが、無理な様だ。彼は素直にギブアップしてプールサイドに手を掛けた。誰かが彼の手を掴み、引き揚げた。
 自身でも情けないほど咳き込んでしまい、よく知った声が彼を叱った。

「君の肺は弱っていると言っただろ、局長。若い者の挑戦をお気軽に受けるんじゃない!」

 ヤマザキ医師がぶつくさ言いながら彼の背中をさすった。クロエル・ドーマーが水から揚がってくる気配がした。

「大丈夫すか、局長?」
「大丈夫だが、気分は最低だろうね。」

とヤマザキ。ちょっと笑っていた。

「君の勝ちだ。」

とハイネは咳が収まったので、なんとか口が利けた。

「泳ぐのも速かった。」
「だけど、局長がベストの体調だったら、僕ちゃんはまだかなわないすよ。」

このガキ、一人前にフォローしやがる、とハイネは心の中で呟いた。 クロエルはヤマザキ医師と近くに立っていた保安課員に言った。

「局長は速かったす! 僕ちゃん必至で水の中で逃げたんすよ。僕ちゃんはいつも全力出しているのに、局長は絶対に許してくんないす。」
「クロエル・ドーマー・・・」

と保安課員が口を開いた。

「君は局長に勝ったのに不満なのか?」
「だって、彼は万全の体調じゃないのに僕ちゃんは追い込まれたんす。悔しいっす。」

 ハイネは呆れてものが言えなかった。こいつ、素直に己の勝ちを認めないのか?
ヤマザキが医者らしく若者に言って聞かせた。

「君がどう思うと、ハイネはこれが限界だ。それがわかっているから、彼は途中で棄権したんだよ。君を勝たせるために止めたんじゃない。」
「こいつは年寄りを虐めたいんですよ。」

とハイネが冗談を言った。彼は視野の隅からキーラ・セドウィックが消えているのを確認した。

「いつも全力でかかってくるから、私まで調子に乗ってしまう。」
「調子に乗る前に戦線離脱しろよ、さもないと本当に死ぬぞ。」

 ハイネが横目でヤマザキを見た。

「貴方がここに来たのは、密告があったからでしょう?」
「密告?」
「プールで爺が若造と無謀な競争をしていると・・・」

 プッとヤマザキが吹き出した。

「キーラは君を心配しただけだよ。」
「・・・やはり・・・」
「彼女も医者の端くれだ。君の肺がハードな運動に適していないことを知っているのさ。」

 彼はクロエル・ドーマーとハイネに着替えて夜食に行かないかと声をかけた。2人のドーマーがそろって頷いたので彼は念のために尋ねた。

「まさか、2人共空腹のまま泳いだんじゃないだろうね?」
「僕ちゃんは食べました。」
「私はまだ何も・・・」

 医者の目が光った。

「ハイネ! 完全な空腹時の水泳は御法度だ!」