2019年4月4日木曜日

誘拐 2 2 - 8

 入院した遺伝子管理局員の見舞いをしても良いかとケンウッドが尋ねようとした時、食堂の入り口にハイネ局長が現れた。目敏く見つけたヤマザキが手を挙げて合図したので、ハイネは、そのつもりはなかったのかも知れないが、ケンウッドとヤマザキのテーブルにやって来た。ドーマーは執政官に逆らわないのだ。
 トレイをテーブルに置いて着席したハイネに、ヤマザキが言った。

「患者の見舞いに来たのはネピアだったな。」
「私が動くと、騒ぐ方がいらっしゃいますので。」

 ハイネが皮肉を言う時は機嫌が悪い時だ。ケンウッドは溜め息をついた。

「君は目立つからね。髪の毛が黒か茶色なら、お忍びも出来るだろうけど。」

 ヤマザキがケンウッドの下手な冗談を笑ってくれた。そしてハイネに言った。

「患者は神経質になっているので、暫く面会謝絶にする。精神的に落ち着くのを待つだけだから、身体的には危険はないと安心してくれ。面会は長官も駄目だぞ。」
「えっ! 私も駄目なのか?」

 ケンウッドは少々がっかりした。死にそうな程恐怖体験をした若いドーマーを励ましてやりたかったのに。ハイネは黙って首を振っただけだった。
 パトリック・タンの身体的な傷の状態は既にヤマザキから所見が届いていたので、ハイネもケンウッドもそれを読んでいた。タンは殴られ、随所に内出血が見られたが骨折はなかった。一晩暖房のない部屋で半裸のまま放置されていたので体が冷え切っていた。救出されてセント・アイブスの出張所からヘリコプターで運ばれる間、彼はリュック・ニュカネンが気を利かせて全身を包んでくれたヒートテックの毛布で命を繋いだのだ。
 だがタンを苦しめたのは身体的苦痛ではなく、精神的な傷だった。彼を誘拐した人物は彼を強姦した。欲望を満たす目的もあったが、拷問も兼ねていた。タンはマザーコンピュータのアクセスコードを尋問されたのだ。しかし、平の遺伝子管理局員であるタンはアクセスコードを知らなかった。どんな酷い目に合わされても、彼はコードを言えなかったし、また知っていたとしても言うつもりはなかった。言ってしまえば殺されると思ったのだ。彼は耐え抜き、心身の苦痛に耐えきれずに気絶した。そして目が覚めた時は静音ヘリで運ばれる最中だった。彼は混乱し、同僚のケリーさえ識別出来ずに錯乱して麻酔を打たれた。次に目覚めた時はドームの医療区の病室だった。処置を施されている途中で、彼は再び錯乱に陥りかけて軽い鎮静剤を打たれた。ようやく落ち着きを取り戻した彼は、ヤマザキに敵から受けた仕打ちを語ったのだ。

「今パットに必要なのは、ひたすら眠ることだ。体の疲労を取る。それから心の治療だ。彼の身に起きたことは、出来るだけ情報拡散を抑えて欲しい。彼は敵に捕まったことを己のミスとして悔やんでいるから。」

 ハイネが低い声でヤマザキに言った。

「タンの現場復帰の時期は、貴方に任せます、ドクター。彼自身が仕事に戻れると判断したら、本部に来させて下さい。彼にどんな仕事をさせるか、それは直属の上司であるレインに任せます。」
「うん、それが良いと僕も思う。今まで通りに扱ってやる方が彼は気が楽だろう。」

 2人の会話を聞いて、ケンウッドはパトリック・タンは長官の見舞いを必要としていないだろうと考え直した。ハイネ局長が見舞わないのに長官が見舞えば、タンは気が重いだけだ。
 それより、今は別の人間の心の傷を何とかしなければ。
 ケンウッドは局長に向き直った。

「ハイネ、君の隠し事を叱ったことを私は後悔していない。だが、君が昨日から部下達を心配して落ち着かなかったことに気が付かなかったのは、私の落ち度だ。君が部下を見舞って大騒ぎする筈の私が、肝心の君が元気がないのに気にしなかった。申し訳ない。」

 ケンウッドの謝罪に、ハイネはこう応えた。

「ただ待つ為だけの遺伝子なんか糞食らえですよ。 はしたない言葉を使って申し訳ありません。」

 ヤマザキが笑い、ケンウッドは腕を伸ばしてハイネの手を軽く叩いて「お仕置き」をした。