2018年6月5日火曜日

待機者 1 - 5

 リング周辺から拍手が聞こえて来た。ハイネの演武が終了したのだ。レインは見ておけば良かったと少々後悔した。良い手本はちゃんと見るべし、と養育棟での授業で教えられたし、局長の演武は滅多に見られるものではない。早朝か深夜でなければ彼はやらないのだから。

 そう言えば、何故今日に限ってこんな人が多い時間帯に局長がここにいるのだろう?

 考えても埒が明かないことなので、レインはグラスをカウンターに返すとロッカールームへ行こうと体を出口の方へ向けた。その時、リングのそばにいた執政官のアナトリー・ギルが彼の動きに気づいて駆け寄って来た。ファンクラブで幹部面をしている若い学者だ。レインを自分の恋人の様に扱うので、他の会員が疎ましく思っている。しかし当人は平気だった。ドーマーは執政官に逆らわないと言うルールを都合良く解釈してレインを独占しようとする。
 レインもギルの動きを察すると歩調を速めようとした。ギルが彼に追いついて、運動着の上からレインの腕を掴んだ。

「待てよ、ポール。面白いものが始まるぞ。」
「なんだよ?」

 レインはファンクラブに対して敬語を使わないことにしている。普通執政官には、例え相手が年下でも「親」として敬い、丁寧な言葉遣いをするように躾けられているのだが、ファンクラブはドーマー達のご機嫌取りだ。だからドーマー達は自身のファンクラブに対して横柄に振る舞う傾向にあった。
 ギルはレインの顔を見て、ニヤリと笑った。

「保安課長と遺伝子管理局長がこれから試合をする。」
「なにっ!」

 レインはギルの手を振り払い、リング際へ駆け寄った。リングと言ってもボクシングやプロレスのリングではない。ロープはなく、むしろ古代の闘技場みたいな円形でギャラリーは選手を見下ろす形になるのだ。
 レインは緩やかなスロープを駆け下りた。先ほど演武を終えたばかりのハイネがリング際で水分補給していた。対面に胴着に着替えたロアルド・ゴメス少佐が立って準備運動をしていた。ゴメス少佐は、前任者アーノルド・ベックマンの後任で一年前に着任したばかりだ。元宇宙連邦軍特殊部隊の指揮官だったが、事故に遭遇して負傷し、現場での戦闘は無理と言う医師の診断によって退役した。しかし彼は医師の診断がなくても軍を辞めるつもりになっていた。入院中に見た地球の映画に感動し、地球と言う惑星に魅せられてしまったのだ。ベックマンが引退を決意して後任を公募した時に名乗りを上げ、ベックマンと意気投合した。辺境の傭兵上がりだったベックマンと特殊部隊の精鋭だったゴメスは前歴の立場が違うが、どちらも命懸けで大勢の人々を守って来たし、部下を指揮する地位にいたのだ。
 ゴメスはドームの保安課においてドーマーの保安課員達を鍛える毎日で、時々一般の運動施設に来て、若いドーマー達に武術を教授することもあった。特殊部隊は耐重力訓練も受けているので、ゴメスも運動施設で体を動かすことはなんでもなかった。それに負傷した脚のリハビリにもなった。しかし、ある種の物足りなさを感じていた。保安課員は別にして、一般のドーマー達は健康維持が目的で格闘技を習う。ゴメスと対等に戦えるレベルではなかった。遺伝子管理局のドーマー達は十分な能力がありそうだったが、コロニー人との対戦には応じなかった。コロニー人は対戦相手のドーマーが確定しなければ闘技場の使用を許可されない。せいぜいがギャラリー止まりだ。
 ローガン・ハイネ遺伝子管理局長が演武をしているのを見たのは偶然だ。局長とは仕事で何度も顔を合わせているが、運動施設で彼を見たのは初めてだった。舞を舞うかのごとき優美な動きを見ているうちに、体の奥から疼くような感覚があった。

 この男と闘って見たい!

だから、演武を終えたハイネに彼はさりげない風を装って声をかけた。

「1本お手合わせ願いたい。」