2018年6月7日木曜日

待機者 1 - 7

 ポール・レイン・ドーマーが後ろを振り返ると、ヤマザキ・ケンタロウ医療区長が腕組みして立っていた。医者は不機嫌な顔でリングを見ていた。レインが理由を尋ねようとした時だった。周囲が「ああっ!」と悲鳴の様な声を上げた。レインは素速く顔を前に向けた。
 ゴメス少佐がハイネ局長を押し倒したところだった。ハイネは背中から緩衝材の床に落ちた。だが次の瞬間、少佐の体が空中に飛んだ。少佐は空中で体勢を整えようとしたが時間がなかった。受け身を取るのが精一杯で、彼もまた派手な音を立てて背中から床に落ちた。
 誰もが何が起きたのかわからなかった。レインは辛うじて目の前の出来事を診た。局長は倒された時に、相手の勢いをそのまま利用して少佐を投げ飛ばしたのだ。投げられた者が下手な落ち方をしていたら大怪我を負ったかも知れない。
 局長は床の上で体を反転させ、両手を床に突いて体を起こそうとした。その姿勢で咳き込み始めた。

「いかん・・・」

 ヤマザキが呟いてパチンと指を鳴らした。後ろからギャラリーを掻き分けてやって来た看護師のドーマーが、リングへ急ぎ足で出て行った。彼は手にしていた携帯酸素ボンベの吸い口をハイネの口に当てた。
 ヤマザキ自身もリングに降りた。ゴメス少佐が腰に手を当てて唸っていた。

「大丈夫かね?」

 医師は少佐に声をかけてからギャラリーに呼びかけた。

「今夜はこれで終わりだ。さぁ、君達もそろそろ寝なさいよ。」

 ざわざわと話し声が起こり、レインは周囲の人々が散って行くのを横目で眺めた。ファンクラブが彼が来るのを待っていたが、彼は動かなかった。キャリーがヤマザキに近づき、手を貸すことはないかと尋ねた。ヤマザキはにっこり笑って、手は足りていると答えた。

「君は夫君やポール兄を寝かしつけてくれないか。」

 そしてゴメス少佐に言った。

「貴方は鍛えているし、打撲の処置を知っていると思うが、念の為に診させてくれないか? 医者の目の前で腰を打ったのに僕が何もしなかったと周囲が言うかも知れないのでね。」

 ゴメス少佐は腰に手を当てたまま立ち上がった。どこも骨折はしていない様だが、ヤマザキは一応端末で走査診断を行った。やはりただの打撲傷だった。ヤマザキが湿布薬の処方箋を作成して薬剤管理室に送信した。

「係の者がアパートに膏薬を届けてくれるから、それを用いて湿布しなさい。」
「有難う。とんだ醜態をお見せして申し訳ない。」
「醜態だなんて誰も思っていないよ。ハイネと互角に闘えるなんて、凄いじゃないか。」

 讃えられて少佐はちょっぴり気が楽になった様な表情になった。そしてまだ咳き込んでいるハイネを見た。

「彼が一瞬力を抜いたと見えたので、そこを攻めたのだが、俺を動かす為のフェイクだったのかな?」
「否、ハイネはあの時、咳の発作に襲われたんだよ。」

 ヤマザキは局長自身にも言い聞かせる目的で言った。

「彼は20年ほど前に大病をして、肺が弱くなっているんだ。激しい運動は避けろと言ってあるのだがね、なかなか言うことを聞かない爺さんで困る。」