2021年3月23日火曜日

星空の下で     17

 「あるものの存在証明は簡単だが、ないものの不在証明は難しいものだ。発生していない犯罪が発生していないことを証明するのは難儀だぞ。誰もが納得しないとスッキリしないからな。」

とヤマザキ・ケンタロウが言った。ハイネがそれに応えた。

「発生していない証明をするのではありません。発生しているかも知れないと思わせる事例がないか、調査するだけです。」

 ヤマザキのアパートで、ケンウッドとハイネはウィスキーのグラスを片手にソファに並んで座っていた。向かい合う一人用の安楽椅子2つには、ヤマザキとエイブラハム・ワッツが陣取っている。グレゴリー・ペルラが旅立ってから、酒盛りのメンバーにワッツが加わった。下戸の彼はずっと酒盛りに参加することを断り続けていたのだが、ペルラが遺言で「局長を頼む」と彼に残していたので、ハイネのお守りのつもりで来ているのだ。それに酒盛りの場所がハイネの部屋からヤマザキの部屋に移ったことも影響した。ハイネの部屋にはお酒しかなかったが、ヤマザキは色々なソフトドリンクを常備している。彼の部屋は医療区のスタッフの会合にも使われるので、ヤマザキはアルコール類が苦手な客の為に様々な物を用意しているのだ。

「怪しい事例があるとわかって、初めて捜査にかかる訳だな?」
「そうです。ですから、現在はネピアが過去の報告書の洗い直しをしています。見落としがなかったか、読み直しているのです。」
「ネピアに限ってそんなことはないだろうが・・・」

 ワッツはピスタチオの殻の山をテーブルの上に築きながら呟いた。

「もしあいつの秘書の・・・なんて言ったけな、ハイネ、あの坊やは?」
「ライリー・コードウェル。」
「そうそう・・・コードウェルがネピアの見落としを発見したら、あいつは夜も眠れないほど悔やむだろうな。」

 ワッツは愉快そうに笑った。彼はたまに無遠慮に局長執務室を訪問するのだが、ネピアが秘書をしていた頃はあからさまに嫌な顔をされて嫌味を言われたりしたのだ。元維持班総代だったワッツに敬意を払った若い職員が、彼をフリーパスで遺伝子管理局本部に出入りするのを黙認することが、お堅いネピアには我慢出来なかったのだ。それにハイネと親友ぶりを遠慮なく発揮するワッツに嫉妬もしていたに違いない。しかしワッツにすれば、ネピアは規則を盾に煩く小言を言う「若造」なのだ。ネピアとハイネを張り合うつもりなど毛頭ない。

「ネピアとコードウェルの苦労が無駄に終わることを祈るよ。」

とケンウッドがウィスキーを一口飲んで呟いた。元ドーマーがお金欲しさに同胞の遺伝子情報を売るなど、想像したくもなかった。

「中央アジア・ドームは、そのことをまだ公表していないんだな?」

 ヤマザキが問うた。ケンウッドは首を振った。

「まだ何も言わない。レインも噂ですからと言うに留めている。接触テレパシーで噂はないだろうがね。」
「先方が事実を公にするまで秘密を明かさない、彼の礼儀を守っているんだな。」

 ポール・レイン・ドーマーは肌を直接触れて相手の思考を読む能力を持っている。これは進化型ではなく、地球人が昔から持っていた正に希少な遺伝子型能力だ。レインは誕生してから養育係にこの能力を自己満足に使用してはならないとみっちり仕込まれて、仕事にしか使わない。彼自身、テレパシー読み取り能力を使用すると消耗するので、使いたくないのだ。
それに現在は声を出せない妻JJとのコミュニケーション専門に使っている。

「中央アジアの長官をつついてみてはいかがです?」

 ワッツがケンウッドをそそのかそうとした。ケンウッドが苦笑して首を振った。

「あちらの長官とは親しくないんだ。」
「それじゃ、ハイネの方は? 遺伝子管理局長同士、横の繋がりで世間話でもしてみては?」
「その世間話のきっかけは何だ、エイブ? いきなり情報漏洩がありますか? なんて聞けないぞ。」

 ハイネはワッツの空になったグラスに苺ソーダ水を入れた。実はちょっぴりブランデーを落としてあるのだが、ワッツは気づかずに飲んだ。

「確かに、貴方がいきなり情報漏洩なんて言い出したら、レインが告げ口したとバレるだろうしな。」
 
 ワッツの言葉にヤマザキが可笑しそうに笑った。

「バレて慌てたら、情報漏洩の事実があったってことだ。あるいは疑いがあって調査中ってことだろう。」
「ケンタロウ先生、もしかすると支局ではなく外勤務の局員が情報を流しているかも知れませんぞ。」

 ワッツが一同をギョッとさせるような意見を言った。確かにチーム・リーダー以上の地位にいる遺伝子管理局職員は詳細な遺伝子情報を覗く権限を与えられている。ケンウッドは「ドーマーは天使ではない」と言う自分自身の言葉を思い出した。中央アジア・ドーム遺伝子管理局の本部職員が情報を民間企業に売り渡しているかも知れぬと言う懸念を述べたのは、彼自身だ。

「エイブ、ドーマーもやはり金が沢山あれば良いと考えるのだろうか?」

 その時、ヤマザキはハイネがブランデー入りの苺ソーダ水を再びワッツのグラスに注ぎ足すのを目撃した。メッと睨み付けると、ハイネは悪びれもせず、ソーダ水を自身の酒に加えてソーダ割りのウィスキーを作った。苺味のウィスキーだって? ヤマザキは老ドーマーの舌の感覚を疑った。
 ワッツは気がつかずにグラスを手に取り、ケンウッドの質問に答えた。

「金で好きな物を沢山買えると学んでしまいましたからね、しかも外の世界にはドームの中にない物がいっぱいある。テレビや映画で見て知っていても、実際に手に取って体験するのとは違います。金で実物を手に入れられると知れば、やはり物欲が生じます。物を買うには金が必要だし、沢山あれば沢山買える。我々も所詮は普通の人間ですよ。」

 コツコツと物を作り続けることだけが生き甲斐の様な「親方」エイブラハム・ワッツにそう言われると、ケンウッドは寂しく感じた。ドーマー達だけは外の世界の汚れた慣習に染まって欲しくなかった。だが、彼等は普通の人間なのだ。
 物欲から遠い世界で生きている神様の様な容姿のローガン・ハイネが、苺ソーダ水をヤマザキのグラスに入れようとして断られた。

「苺ソーダ水はそのまま飲んだ方が美味しいんだよ、ハイネ。」
「このウィスキーに合わせればもっと行けますよ。」
「そうは思わないね。」

 ケンウッドは向かいのワッツの微妙な変化に気が付いた。

「エイブ、顔が赤いが、大丈夫かい?」

 ヤマザキがワッツを見た。ハイネも見た。ワッツは大丈夫ですと答えた。

「ちょっと体が熱くなってきましたが・・・」
「熱でもあるのか?」

 声をかけたハイネに、ヤマザキが白々しいと言った。

「君が仕掛けたんだろ、ハイネ。」
「何をです?」
「エイブに酒を飲ませた。」
「ええ?!」

 ワッツが自分のグラスを見た。ケンウッドがハイネの前に置かれていた苺ソーダ水の容器を手にとって、中の液体の香りを嗅いだ。苺の甘い香りの中に、別の甘い香りが微かに混ざって匂った。

「ハイネ、悪戯するんじゃない!」
「悪戯ではありません。」

 ハイネが憮然として言い訳した。

「エイブに酒を教えようと思っただけです。」
「そんな気遣いは無用です。」

 ワッツはヤマザキとケンウッドに向かって言った。

「これだから、この人から目を離せないんですよ。」

 ケンウッドとヤマザキは笑い出した。2人とも、若々しいハイネと風格ある仙人の様なワッツが可愛らしくて仕方がなかった。笑いが収まる頃に、ヤマザキがワッツに言った。

「今夜は泊まっていけよ、エイブ。君が自分の枕でなけりゃ眠れないと言うのは知っている。だけど、さっきハイネが君に飲ませた酒はかなり強いんだ。『黄昏の家』にたどり着く迄に君が通路で寝込んでしまったら、僕等はドーマーに酒を与えた規則違反者として内務捜査班に摘発されてしまう。」

 ワッツはもう一度自身のグラスを手に取り、残っていた液体を口に流し込んだ。

「わかりました、ヤマザキ先生。今夜はお世話になります。」