2021年3月14日日曜日

星空の下で     5

 「ハイネが脚を折った?!」

 ケンウッド長官は危うく手にしていたペンを落とすところだった。自署が必要な書類の山を片付けている最中に長官室に現れたヤマザキ医療区長が「内密の話がある」と言って秘書達を退がらせた直後だ。

「大した骨折じゃない。」

とヤマザキがのんびりした口調で言った。

「綺麗に折れていたから、固定して大人しくしていれば2、3ヶ月で完治する。幸い開放骨折じゃなかったから、切創もない。本人も折れた瞬間にヤバイと感じて動かずに僕を待っていた。」
「一体どんな状況でそんな怪我をしたのだ? 今日は彼の休日で一日アパートにいると言っていたが・・・」

 遺伝子管理局も週休2日制を採用した。ドームの外の生活に合わせていく為だ。だから幹部達も交代で休日を取る。その日はハイネ局長と第2秘書ダリル・セイヤーズが休みを取っていた。ヤマザキは診察室でハイネから聞き出した事故の経緯を説明した。

「今日はサヤカが仕事で留守だったので、ハイネは自分で夕ご飯を作ろうと思い立ったそうだ。あのナイフも持てなかった爺さんが、愛妻の為に飯の支度をして彼女を喜ばせようと考えたんだよ。」
「健気じゃないか。」
「まぁね・・・それで練習をしようと、昼になってから端末からレシピを引っ張り出して、野菜を刻んで炒めようとした。フライパンに油を入れて熱して、恐らく水滴でも入ったんだろう、油が跳ねたんだ。」
「火傷をしたのか?」

 もうケンウッドは腰を浮かせている。ハイネのことになると他のことが二の次になってしまうのだ、ヤマザキは苦笑した。

「火傷をしたが、それは大したことじゃない。水で冷やせばすぐ治る程度だ。だけど、爺さんは初めての油跳ねに火傷だからな、びっくりしてしまったんだよ。その拍子にフライパンをひっくり返して、床に落っことしてしまった。らしくないことをしてしまったハイネは、さらに彼らしくないことに慌ててしまって、床に溢れた油を拭き取ろうとモップか何かを探そうとして、うっかり油を踏んづけてしまったんだ。」
「滑ったのか・・・」

いつも冷静なハイネが慌てて滑って転んだ様を想像出来ない。ケンウッドは頭を抱えたくなった。ヤマザキが頷いた。

「滑って転倒して、弾みで骨を折った。幸い頭を打たずに済んだけどね。僕は昼飯から戻って午後の診療前に昼寝でもしようかと思っていた所に、彼から救援要請が入って驚いたよ。『ドクター、来てください、脚を折ってしまいました』だからね。」

 ケンウッドは自身が冷や汗をかいていることに気が付いた。ローガン・ハイネは若く見えるが実際は既に108歳だ。生まれてから100歳を超えるまでドームから出たことがなく、執政官の手で大事に育てられた秘蔵っ子のドーマーだ。火傷も怪我も経験したのは80歳を超えてからと言う、箱入り息子なのだ。

「サヤカが勤務明けにこの話を聞いたら、びっくり仰天するだろうな。」
「ハイネは彼女に叱られるかも知れないぞ。慣れない料理なんかに挑戦した結果の怪我だからな。せめて厨房班に簡単な料理を教えてもらってからにすれば良かったんだ。」
「それはハイネには出来ない相談だよ。」

 ケンウッドはやっと笑う余裕が出来た。ローガン・ハイネは厨房班司厨長のピート・オブライアンと毎日喧嘩するのが趣味なのだ。チーズの溶け方が気に入らないとか、野菜の茹で方が悪いとか、彩が良くないとか、大した問題でないことにいちゃもんをつける。オブライアンも無視すれば良いものを真剣になって相手する。しかし、実際は互いに楽しんでいるのだ。

「それで、医療区へはどうやって彼を運んだのだね?」
「運ばなかった。僕は彼の部屋へ行く途中に偶然航空班のヘリコプターパイロット、ピーター・ゴールドスミスと出会ったんだ。彼が世間話のついでに僕にくっついて来て、怪我をしたハイネを見てしまった。ご存知の通り、爺さんは若い連中に自分が弱っている所を見られたくない人だからね、インスタントギプスで脚の骨を固定してから、ゴールドスミスに付き添われて自力歩行で医療区まで行った。ゴールドスミスは局長の手助けが出来ただけで大喜びだったよ。帰りもハイネ一人で歩いて帰った。僕はアパートの入り口まで見送ってから、ここへ来たんだ。」

 やれやれ、とケンウッドは脱力した。近頃のローガン・ハイネは外に出ることを覚えて、少し以前より変わったことをしたがる傾向にある。それはそれで素晴らしいのだが、腕白坊主がそのまま大きくなった様な感じで、時々ケンウッドの意表を突く行動を取るのだ。

「サヤカと同居を始めたからと油断していたな。108歳になっても、男の子は男の子だ。」