2021年3月14日日曜日

星空の下で     4

  エレベーターを降りると、狭いホールがあって、ヤマザキはまっすぐたった一つのドアの前に立った。チャイムを鳴らすとドアがすぐに開いた。ヤマザキはゴールドスミスに小さく手を振って、中に入れと合図した。ゴールドスミスはアシスタントロボットと共に室内に足を踏み入れた。ちょっと緊張した。今迄この部屋に入った人間は、ケンウッド長官、ヤマザキ医療区長、パーシバル博士、故人となったペルラ・ドーマーだけだ。

 いや、最近アイダ博士がここに引っ越されたんだっけ・・・彼女はどこに?

 室内のインテリアは古いデザインの調度品が綺麗な瓶が並ぶ棚に囲まれていて、彼がテレビで見た昔の映画やドラマの中の風景に似ていた。噂によれば1世紀近くこのままだと言うことだ。レザー張りのソファに可愛い色合いのクッションが並び、動物の縫ぐるみがいくつか座っているが、これはアイダ博士の趣味なのだろう。
 ヤマザキ博士が声を出した。

「ハイネ?」
「ここです。」

 リビングの向こうのカウンターの後ろから声が聞こえた。カウンターの後ろはキッチンだ。全てのドームの居住区は同じ間取りだ。広いか狭いかの違いがあるだけで。
 ヤマザキとゴールドスミスはカウンターの後ろへ回った。床の上にローガン・ハイネ遺伝子管理局長が座り込んでいた。背中をカウンターにもたれ掛け、左脚を手で抑えている。ゴールドスミスは床の上に液体が広がり、強いニンニク臭を嗅ぎ取った。液体は油だ。彼の判断では、オリーブオイルに違いない。さらに床の向こうには平鍋が転がっているのだ。油の広がる形状を見て、彼は思わず呟いた。

「油で足を滑らせたんですか?」

 ヤマザキが彼を振り返った。ちょっと肩をすくめて見せて、ハイネに近づいた。ハイネ局長はドーマー達にとって見慣れない服装をしていた。恐らくヤマザキにとっても同じだろう。

「エプロン姿と言うことは、君は料理をしようとしていたんだな。」

 ハイネは脚を掴んでいない方の手に端末を持っていた。それを使ってヤマザキに救助要請を出したのだ。

「自分で走査して、脚の状態を確認しました。骨が折れています。」

と彼は報告した。ヤマザキは彼の手を脚からどかせて自分の端末で走査した。

「左脛骨を骨折しているな。 料理をしていて、なんで脚を折ったんだ?」

 彼がさらに端末を操作すると、ゴールドスミスの背後でアシスタントロボットが体内から救急キットを出した。ゴールドスミスがそれをヤマザキに手渡すと、ハイネが尋ねた。

「何故君がここにいるのだ、ピーター?」
「偶然だよ。」

 ヤマザキが短く答えて、素早くチューブ状の容器を取り出し、ハイネの脚に服の上から泡状のものを搾り出した。ゴールドスミスはそれが何か知っていた。航空班でも救急キットの使用を訓練するのだ。チューブの中身はインスタントギプスだった。本格的な診療を受けるまでの応急処置だ。
 ゴールドスミスはちょっと感激していた。彼は遺伝子管理局の局員達と一緒に仕事をする機会が多いが、局長や秘書と言った幹部クラスの人間とは接点がない。10年近く前にたまたま現在の局長第2秘書ダリル・セイヤーズを乗せて出かけた先で偽テロリストグループ、実際は子供を攫って人体実験をしていた殺人グループFOKのリーダーを逮捕する大手柄を立てたことがあり、その時に局長から感謝とお褒めの言葉をもらっただけだ。だから局長が彼の顔を見てすぐに彼の名前を思い出してくれたことが嬉しかった。
 そのハイネ局長は骨折から来る苦痛で額に脂汗を浮かべているが、表情や口調はいつもと変わらぬ冷静な「ドーマーの神様」のままだった。
 ヤマザキはさらに走査を行い、ハイネの手に小さい火傷を二つばかり見つけた。それから衣服の汚れから、彼はこの狭いキッチンで起きた事故を推測した。しかしその推理をここで披露することは止めた。若いゴールドスミスの前で誇り高い老ドーマーの失敗を語ってどうする?
 彼はハイネに尋ねた。

「骨を固定した。多分医療区まで自力で歩けるとは思うが、スレーを呼ぼうか?」

 ハイネは戸惑う表情を見せた。スレーを呼べば事故の噂がアッと言うまにドーム内に拡散する。しかし一人で医療区まで歩いて行く自信がなかった。(誰だってそうだが)彼は初めての骨折を経験して、少し弱気になっていた。
 ゴールドスミスは大先輩の躊躇を理解した。彼は寝室のドアを手で指して提案した。

「着替えをして下さい。僕が付き添って歩きます。世間話をしながら散歩するふりをして行きましょう。」