ダリル・セイヤーズ・ドーマーは身の回りの物を詰めた鞄一つで旅立った。ヘンリー・パーシバルと彼が設立したポール・レイン・ドーマーのファンクラブは彼を空港ビルまで出て見送った。セイヤーズは緊張をほぐす為か、明るく笑って、弟分のクラウス・フォン・ワグナー・ドーマーやパーシバルと冗談まで言い合った。そして最後に
「ポールを守ってやって下さい。」
と一言残して機上の人になった。
肝心のポール・レイン・ドーマーは来なかった。彼は遺伝子管理局の仕事でセイヤーズより1時間前にフロリダ方面へ出張したのだ。それが上司の計らいだったのか、リン一派の嫌がらせなのかは不明だった。
ケンウッドは自身の研究に戻り、医療区から距離を置いた。無関心を装うのではなく、患者が心配だが研究も心配だ、と態度に示して、リン長官とシンパの動きを観察した。リン長官はハイネが意識を取り戻したことを知らない様子で、普段通りに振る舞っていた。遺伝子管理局の局長代理ヴァシリー・ノバックはリンの個人秘書なので、地球には居着かず、月の事務所の方に専ら詰めている。リンが築いた医療財団の経営が彼の仕事なのだ。サンテシマ・ルイス・リンの専門は呼吸器系の遺伝病だから、患者は大気構成が地球と異なる惑星の開拓団に多い。地球の大気に合わせて造られたコロニー世界が多い太陽系ではく、辺境にお客さんがいる訳だ。
辺境の客には、進化型遺伝子はある種の特効薬みたいなものだ。
とリンは口癖の様に言っている。客本人の遺伝子を組み換えることは出来ないが、その子供に有効なのだ。
ケンウッドは不安を覚えた。肺の病気を克服出来たハイネの遺伝子は、リンの研究材料になり得る。恐ろしいγカディナ黴に1年4ヶ月も耐え抜いた肺は、リンが覗いて見たいサンプルだろう。
長い一週間が過ぎ、ようやくコートニー医療区長から連絡が入った。
「黴の再発はどこにも見られない。隔離室から患者を出せないが、通路からの面会は出来る。彼に会うかね? まだ彼は声を出せないが・・・」
「ええ、話が無理でも顔を見たいです。」
夕方、仕事を終えて夕食を取ってから、ケンウッドはパーシバルと共に医療区へ出かけた。こそこそする必要はなかったが、リン一派には見られたくないな、と2人共感じた。
コートニーはまだハイネ復活を公表していないのだ。
隔離室は通常、ドーマーの「通過」に使用される部屋だ。ドームは入る際に徹底的に消毒をするので、普通は感染症の病人はいない。γカディナ黴の事故は初めての事例だった。
無菌で育てられるドーマー達は、外に出る時に肺炎菌などに感染しないよう、抗原注射と呼ばれる薬剤の注射を打たれる。薬剤の効力は48時間だ。この注射は若干中毒性があり、回数が増えると麻薬の禁断症状に似た苦しみを人間に与える。だから、外に出る回数の多い仕事をするドーマーはある年齢になると、大体30代半ば辺りだが、自身で薬が不要な普通の地球人の体を創るために、「通過」を行う。麻疹、風邪、ちょっとした腹下し、地球人ならほぼ全員が体験するような細菌を接種して故意に病気になるのだ。そうやって外気に体を慣らす。
ローガン・ハイネ・ドーマーは生まれてから一度もドームの外に出してもらえなかったので、抗原注射も「通過」も無縁だった。その彼が、隔離室で寝ていた。一つ置いた部屋に若いドーマーが居たが、彼は局長が近くに居ることを教えられていない。
ケンウッドとパーシバルはその若者を見舞うふりをした。若者は遺伝子管理局ではなく維持班で、建築班所属だった。ドームの外廻りの整備担当だ。彼は純粋に2人の博士が見舞ってくれたことを喜んだ。ケンウッドも「通過」を受けているドーマーを見るのは初めてだったので、彼にどんな様子か根掘り葉掘り聞いてしまった。軽い病気だし、最新医療の医療区内だから心配は皆無なのだが、気分が悪い状態が続いているのでドーマーは心細くなっていた。執政官が話を聞いてくれるので、幾分気が晴れた様だ。
その部屋を離れると、パーシバルが呆れた様に言った。
「君は本当に地球人が好きなんだなぁ。」
「私は人間が好きなんだよ、ヘンリー。勘違いするな。」
ハイネの部屋はすぐ近くだから、会話が終わるともうガラス窓の前に立っていた。
ローガン・ハイネ・ドーマーは上体側をやや起こした状態のベッドに横たわっていた。前日からやっと水と流動食を少量口から摂れるようになったと言うことで、ベッド脇の棚の上にストロー付きのカップが置かれていた。顔の斜め上に天井から吊したスクリーンがあり、ハイネはそれをぼんやりと半眼で眺めているかの様に見えた。しかしよく見ると、手がベッド上に置かれたリモコンを触っており、画面が切り替わった。
パーシバルがまた呆れた声を出した。
「あいつ、仕事をしているぞ!」
ケンウッドはまさかと思ったが、スクリーンに映っているのは遺伝子管理局の部下達が書いた報告書だった。
「ただ読んでいるだけだがね。」
ヤマザキ医師がいつの間にかそばに来ていた。
「腕を上げる筋力が恢復していないので、署名も出来ない。だが彼は秘書に最近の報告書で難しい案件を選ばせて読んでいる。秘書が素人のノバックに廻さなかった事案だ。」
「良いのか、仕事などさせて・・・」
「彼の頭は正常だよ。この一週間で空白の1年4ヶ月をなんとかクリアしてしまった。」
ケンウッドは人間と言う生物が持つ底力を目の当たりにした思いだった。それとも、今目の前に居るのは進化型1級遺伝子を持つ新種の人類なのだろうか?
ヤマザキが尋ねた。
「中に入って彼と話してみるかい?」
「ポールを守ってやって下さい。」
と一言残して機上の人になった。
肝心のポール・レイン・ドーマーは来なかった。彼は遺伝子管理局の仕事でセイヤーズより1時間前にフロリダ方面へ出張したのだ。それが上司の計らいだったのか、リン一派の嫌がらせなのかは不明だった。
ケンウッドは自身の研究に戻り、医療区から距離を置いた。無関心を装うのではなく、患者が心配だが研究も心配だ、と態度に示して、リン長官とシンパの動きを観察した。リン長官はハイネが意識を取り戻したことを知らない様子で、普段通りに振る舞っていた。遺伝子管理局の局長代理ヴァシリー・ノバックはリンの個人秘書なので、地球には居着かず、月の事務所の方に専ら詰めている。リンが築いた医療財団の経営が彼の仕事なのだ。サンテシマ・ルイス・リンの専門は呼吸器系の遺伝病だから、患者は大気構成が地球と異なる惑星の開拓団に多い。地球の大気に合わせて造られたコロニー世界が多い太陽系ではく、辺境にお客さんがいる訳だ。
辺境の客には、進化型遺伝子はある種の特効薬みたいなものだ。
とリンは口癖の様に言っている。客本人の遺伝子を組み換えることは出来ないが、その子供に有効なのだ。
ケンウッドは不安を覚えた。肺の病気を克服出来たハイネの遺伝子は、リンの研究材料になり得る。恐ろしいγカディナ黴に1年4ヶ月も耐え抜いた肺は、リンが覗いて見たいサンプルだろう。
長い一週間が過ぎ、ようやくコートニー医療区長から連絡が入った。
「黴の再発はどこにも見られない。隔離室から患者を出せないが、通路からの面会は出来る。彼に会うかね? まだ彼は声を出せないが・・・」
「ええ、話が無理でも顔を見たいです。」
夕方、仕事を終えて夕食を取ってから、ケンウッドはパーシバルと共に医療区へ出かけた。こそこそする必要はなかったが、リン一派には見られたくないな、と2人共感じた。
コートニーはまだハイネ復活を公表していないのだ。
隔離室は通常、ドーマーの「通過」に使用される部屋だ。ドームは入る際に徹底的に消毒をするので、普通は感染症の病人はいない。γカディナ黴の事故は初めての事例だった。
無菌で育てられるドーマー達は、外に出る時に肺炎菌などに感染しないよう、抗原注射と呼ばれる薬剤の注射を打たれる。薬剤の効力は48時間だ。この注射は若干中毒性があり、回数が増えると麻薬の禁断症状に似た苦しみを人間に与える。だから、外に出る回数の多い仕事をするドーマーはある年齢になると、大体30代半ば辺りだが、自身で薬が不要な普通の地球人の体を創るために、「通過」を行う。麻疹、風邪、ちょっとした腹下し、地球人ならほぼ全員が体験するような細菌を接種して故意に病気になるのだ。そうやって外気に体を慣らす。
ローガン・ハイネ・ドーマーは生まれてから一度もドームの外に出してもらえなかったので、抗原注射も「通過」も無縁だった。その彼が、隔離室で寝ていた。一つ置いた部屋に若いドーマーが居たが、彼は局長が近くに居ることを教えられていない。
ケンウッドとパーシバルはその若者を見舞うふりをした。若者は遺伝子管理局ではなく維持班で、建築班所属だった。ドームの外廻りの整備担当だ。彼は純粋に2人の博士が見舞ってくれたことを喜んだ。ケンウッドも「通過」を受けているドーマーを見るのは初めてだったので、彼にどんな様子か根掘り葉掘り聞いてしまった。軽い病気だし、最新医療の医療区内だから心配は皆無なのだが、気分が悪い状態が続いているのでドーマーは心細くなっていた。執政官が話を聞いてくれるので、幾分気が晴れた様だ。
その部屋を離れると、パーシバルが呆れた様に言った。
「君は本当に地球人が好きなんだなぁ。」
「私は人間が好きなんだよ、ヘンリー。勘違いするな。」
ハイネの部屋はすぐ近くだから、会話が終わるともうガラス窓の前に立っていた。
ローガン・ハイネ・ドーマーは上体側をやや起こした状態のベッドに横たわっていた。前日からやっと水と流動食を少量口から摂れるようになったと言うことで、ベッド脇の棚の上にストロー付きのカップが置かれていた。顔の斜め上に天井から吊したスクリーンがあり、ハイネはそれをぼんやりと半眼で眺めているかの様に見えた。しかしよく見ると、手がベッド上に置かれたリモコンを触っており、画面が切り替わった。
パーシバルがまた呆れた声を出した。
「あいつ、仕事をしているぞ!」
ケンウッドはまさかと思ったが、スクリーンに映っているのは遺伝子管理局の部下達が書いた報告書だった。
「ただ読んでいるだけだがね。」
ヤマザキ医師がいつの間にかそばに来ていた。
「腕を上げる筋力が恢復していないので、署名も出来ない。だが彼は秘書に最近の報告書で難しい案件を選ばせて読んでいる。秘書が素人のノバックに廻さなかった事案だ。」
「良いのか、仕事などさせて・・・」
「彼の頭は正常だよ。この一週間で空白の1年4ヶ月をなんとかクリアしてしまった。」
ケンウッドは人間と言う生物が持つ底力を目の当たりにした思いだった。それとも、今目の前に居るのは進化型1級遺伝子を持つ新種の人類なのだろうか?
ヤマザキが尋ねた。
「中に入って彼と話してみるかい?」