部屋の中は少し涼しかった。寝間着だけの患者には寒いのではないかとケンウッドは少し心配になったが、ヤマザキ医師は何も言わなかったし、ベッドの上のハイネも寒がっている様子はなかった。もっとも彼の胸から下は薄い上掛けで覆われていたが。
ベッドの足側の壁のドアから中に入ると、ハイネは直ぐに気が付いた。瞼は半眼のままなのに、その奥にある瞳が動いたのをケンウッドは見た。ヤマザキ医師が患者に対する時に使う優しい声音で話しかけた。
「ハイネ局長、お客さんですよ。」
瞼がゆっくりと持ち上がり、青みがかった灰色の瞳が見えた。気のせいか表情が和らいで見えた、と思ったら、横でパーシバルが勝手に通訳した。
「彼は今、『やあ、久し振り』と言ったぞ。」
ヤマザキが彼を振り返って笑った。ケンウッドはパーシバルの通訳を信じた訳ではないが、彼もそう感じたので、声を掛けた。
「久し振りだね、局長。」
彼はベッドに近づこうとして、ふと足を止めた。ヤマザキを振り返って尋ねた。
「そばに近づいても良いのかな? いや、黴はもう心配していない。私達が彼に害になるものを移すといけないと思って・・・」
「気になるのなら、手袋とマスクをすれば良いじゃないか。」
と言いながら、パーシバルが遠慮なくベッドに近づいて、ハイネの手を素手で取った。
「君がこちら側に戻って来てくれて嬉しいよ。僕の方があのベータ星人と長く一緒にいたのに、すぐに恢復したので、なんだか申し訳なくてね。」
正直なところ、彼が素手でハイネを触ったので、ケンウッドはぎくりとしたのだ。ヤマザキもちょっと驚いていた。医療区の人間は原則患者に触れる時は手袋着用が義務なので、彼も診察時以外は素手にはならない。今まで彼等は一度も素手でハイネに触れたことがない。触れる必要はなかったし、ドーマーの方からコロニー人に接触してくることもなかったからだ。それに、ドーム内では、ハイネ局長は絶対にコロニー人に体を触れさせないと言う定評があった。なにしろ、唯一人の「お勤め」のないドーマーだったから。
ケンウッドもヤマザキもハイネが怒るのではと危惧した訳だ。
しかし、ハイネは特に顔色を変えるでもなく、表情を硬化させるでもなく、パーシバルに手を握らせていた。パーシバルは仲間のコロニー人達の危惧も解さず、ハイネの手を軽く揺すり、「早く良くなれよ」と言ってから、ようやく離れた。
ハイネの目がこちらを向いたので、ケンウッドは意を決して自分も彼の手を取った。
「君があの時、『来るな』と怒鳴ってくれなかったら、私も感染していたかも知れない。我々コロニー人が恐ろしい宇宙黴で地球を汚染してしまったのは事実だ。そして君がその拡散を防いだ。直ちにフロア封鎖命令を出してくれただろ? あの場合、咄嗟に病原菌侵入を疑う人間なんて、普通はいないだろう。君の素早い判断で地球は救われたんだ。私は人類代表じゃないが、君に心から感謝している。」
ハイネの手が弱々しくだが握り返してきたので、ケンウッドは驚いた。相手の顔を見ると、ハイネは顔の筋肉を動かして唇を動かそうとしていた。何か言いたいのだ。ケンウッドが顔を近づけると、不意にその動きが止まった。ハイネの手から力が抜け、彼の全身がだらりと脱力して目を閉じてしまった。
ケンウッドは仰天した。
「ハイネ! どうした? しっかりしろ!」
パーシバルも飛びついた。
「どうしたんだ?」
「わからない。」
ところが、2人の後ろでヤマザキ医師がクスクス笑っていた。
「説明するのを忘れていたなぁ。」
ケンウッドはハイネの肩に手を掛けたまま振り返った。
「説明?」
「うん、それはカディナ病の後遺症で、『突発性睡眠症候群』だよ。」
「なに?」
とパーシバル。彼は蒼白になっていたが、ヤマザキが笑っているので、徐々に赤くなってきた。
「笑えることなのか?」
「笑えることじゃないが、心配することでもない。」
ヤマザキはハイネの手元からリモコンを取り上げて棚に置いた。
「カディナ病の罹患者は、黴と全身で闘うんだ。だから治っても暫く疲労が残っている。
覚醒している時は普通の生活が出来るが、突然スイッチが切れて眠ってしまうんだ。歩いている時でも、食事中でも、会話の途中でも、いきなり眠りに陥ってしまうんだ。」
「それじゃ・・・」
ケンウッドとパーシバルはベッド上のドーマーを見下ろした。
「彼は、ただ眠っているのか?」
「うん。ぐっすり、爆睡中だ。」
「何時目覚める?」
「わからない。だが、この睡眠は2時間程度しか持続しない。また目覚め、活動して、眠って、目覚めて、を一日に何回も繰り返すんだ。体調が戻って行くに従って、睡眠に陥る迄の間隔は長くなるがね。 今のハイネは1日のうち20時間眠っている。」
「1年4ヶ月も眠っていたのに、まだ寝足りないのか。」
とケンウッドは思わず愚痴ってしまった。
「まあ、そう言いなさんな。目覚める度に彼は恢復しているんだから。さっき、君は見ただろ? ハイネが唇を動かして喋ろうとしていた。」
「ああ・・・」
「昨日は食事の時に看護師が口を開けてやらないと食べられなかったんだ。水を飲み込むのはその前日に出来るようになった。」
うーーん、とパーシバルが唸った。
「元通りになる迄、どの位時間がかかるんだ?」
「それは個人の体力に拠る。彼は固形物の食事が出来るようになれば、めきめき良くなるはずだ。ドーマーはみな丈夫だからね。」
だが、ハイネはもう80歳を越えた。「待機型」の進化型1級遺伝子はどの程度彼を助けてくれるのだろう。
ベッドの足側の壁のドアから中に入ると、ハイネは直ぐに気が付いた。瞼は半眼のままなのに、その奥にある瞳が動いたのをケンウッドは見た。ヤマザキ医師が患者に対する時に使う優しい声音で話しかけた。
「ハイネ局長、お客さんですよ。」
瞼がゆっくりと持ち上がり、青みがかった灰色の瞳が見えた。気のせいか表情が和らいで見えた、と思ったら、横でパーシバルが勝手に通訳した。
「彼は今、『やあ、久し振り』と言ったぞ。」
ヤマザキが彼を振り返って笑った。ケンウッドはパーシバルの通訳を信じた訳ではないが、彼もそう感じたので、声を掛けた。
「久し振りだね、局長。」
彼はベッドに近づこうとして、ふと足を止めた。ヤマザキを振り返って尋ねた。
「そばに近づいても良いのかな? いや、黴はもう心配していない。私達が彼に害になるものを移すといけないと思って・・・」
「気になるのなら、手袋とマスクをすれば良いじゃないか。」
と言いながら、パーシバルが遠慮なくベッドに近づいて、ハイネの手を素手で取った。
「君がこちら側に戻って来てくれて嬉しいよ。僕の方があのベータ星人と長く一緒にいたのに、すぐに恢復したので、なんだか申し訳なくてね。」
正直なところ、彼が素手でハイネを触ったので、ケンウッドはぎくりとしたのだ。ヤマザキもちょっと驚いていた。医療区の人間は原則患者に触れる時は手袋着用が義務なので、彼も診察時以外は素手にはならない。今まで彼等は一度も素手でハイネに触れたことがない。触れる必要はなかったし、ドーマーの方からコロニー人に接触してくることもなかったからだ。それに、ドーム内では、ハイネ局長は絶対にコロニー人に体を触れさせないと言う定評があった。なにしろ、唯一人の「お勤め」のないドーマーだったから。
ケンウッドもヤマザキもハイネが怒るのではと危惧した訳だ。
しかし、ハイネは特に顔色を変えるでもなく、表情を硬化させるでもなく、パーシバルに手を握らせていた。パーシバルは仲間のコロニー人達の危惧も解さず、ハイネの手を軽く揺すり、「早く良くなれよ」と言ってから、ようやく離れた。
ハイネの目がこちらを向いたので、ケンウッドは意を決して自分も彼の手を取った。
「君があの時、『来るな』と怒鳴ってくれなかったら、私も感染していたかも知れない。我々コロニー人が恐ろしい宇宙黴で地球を汚染してしまったのは事実だ。そして君がその拡散を防いだ。直ちにフロア封鎖命令を出してくれただろ? あの場合、咄嗟に病原菌侵入を疑う人間なんて、普通はいないだろう。君の素早い判断で地球は救われたんだ。私は人類代表じゃないが、君に心から感謝している。」
ハイネの手が弱々しくだが握り返してきたので、ケンウッドは驚いた。相手の顔を見ると、ハイネは顔の筋肉を動かして唇を動かそうとしていた。何か言いたいのだ。ケンウッドが顔を近づけると、不意にその動きが止まった。ハイネの手から力が抜け、彼の全身がだらりと脱力して目を閉じてしまった。
ケンウッドは仰天した。
「ハイネ! どうした? しっかりしろ!」
パーシバルも飛びついた。
「どうしたんだ?」
「わからない。」
ところが、2人の後ろでヤマザキ医師がクスクス笑っていた。
「説明するのを忘れていたなぁ。」
ケンウッドはハイネの肩に手を掛けたまま振り返った。
「説明?」
「うん、それはカディナ病の後遺症で、『突発性睡眠症候群』だよ。」
「なに?」
とパーシバル。彼は蒼白になっていたが、ヤマザキが笑っているので、徐々に赤くなってきた。
「笑えることなのか?」
「笑えることじゃないが、心配することでもない。」
ヤマザキはハイネの手元からリモコンを取り上げて棚に置いた。
「カディナ病の罹患者は、黴と全身で闘うんだ。だから治っても暫く疲労が残っている。
覚醒している時は普通の生活が出来るが、突然スイッチが切れて眠ってしまうんだ。歩いている時でも、食事中でも、会話の途中でも、いきなり眠りに陥ってしまうんだ。」
「それじゃ・・・」
ケンウッドとパーシバルはベッド上のドーマーを見下ろした。
「彼は、ただ眠っているのか?」
「うん。ぐっすり、爆睡中だ。」
「何時目覚める?」
「わからない。だが、この睡眠は2時間程度しか持続しない。また目覚め、活動して、眠って、目覚めて、を一日に何回も繰り返すんだ。体調が戻って行くに従って、睡眠に陥る迄の間隔は長くなるがね。 今のハイネは1日のうち20時間眠っている。」
「1年4ヶ月も眠っていたのに、まだ寝足りないのか。」
とケンウッドは思わず愚痴ってしまった。
「まあ、そう言いなさんな。目覚める度に彼は恢復しているんだから。さっき、君は見ただろ? ハイネが唇を動かして喋ろうとしていた。」
「ああ・・・」
「昨日は食事の時に看護師が口を開けてやらないと食べられなかったんだ。水を飲み込むのはその前日に出来るようになった。」
うーーん、とパーシバルが唸った。
「元通りになる迄、どの位時間がかかるんだ?」
「それは個人の体力に拠る。彼は固形物の食事が出来るようになれば、めきめき良くなるはずだ。ドーマーはみな丈夫だからね。」
だが、ハイネはもう80歳を越えた。「待機型」の進化型1級遺伝子はどの程度彼を助けてくれるのだろう。