2017年7月6日木曜日

侵略者 5 - 7

 ハイネが背後に廻していた右手を手前に出して来た。体を支えるために後ろにやっていたのかと思っていたら、そうではなかった。右手に端末を握っていた。
 リン長官は悟った。ハイネがベッドから降りたのは隠れた訳ではなかったのだ。彼は棚の上に置いていた端末を取ろうとして落としたので、拾うために自身の体をベッドから落としたのだ。
 ハイネが囁く様に言った。

「お帰りを」

 彼はリンに端末を見せた。

「なかったことにします。」

 素直に引き揚げれば、侵入を黙っていてやる、と言うのだ。情けを掛ける気なのか?

  ドーマーごときが、飼い主に情けを掛けるだと?

 リンはハイネの寝間着の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。ハイネがスッと体を下に沈めた。見下ろすと、彼は目を閉じていた。眠ってしまった・・・
 部屋の照明がいきなり点滅し始めた。リン長官はハッとして立ち上がった。遠くで非常ベルが鳴りだした。リンはもう1度ハイネを見下ろした。ハイネの指が端末の緊急通信ボタンを押していた。眠りに陥る瞬間に押したのだ。
 端末の緊急通信ボタンは、押すと最寄りの施設の受信機にエマージェンシーコールを発信する。ドームの外の世界では警察か救急になるし、ドーム内では保安課か医療区のナースステーションになる。
 すぐに看護師が駆けつけるだろう。リンは素早く考えを巡らし、出口の消毒室に入った。シュッと風が吹き付け、ドアが開くと通路に走り出た。そして再び入り口に向かった。彼が入室用消毒室に入って直ぐに看護師が駆けつけた。彼は消毒室に長官が居るのを見て、びっくりした。リンがでっち上げの説明をした。

「この部屋の照明が点滅していたので、様子を見ようと思ってね・・・確か、ここはハイネ局長の部屋ではなかったかな?」

 2人は扉が開くと病室に入った。リンは看護師が防護服と手袋を着用しているがマスクは装着していないことに気が付いた。飛沫感染の恐れがない、つまり、ハイネのγカディナ黴は死滅したのだ。看護師がベッドの向こう側で倒れている患者を発見した。名前を呼びながら近づき、端末を出して全身を素早く走査した。
 リンが彼の背後で眺めていると、遅れてヤマザキ医師が入って来た。彼が「どうした?」と尋ね、看護師が目視検査結果を報告した。

「血圧、脈拍共に正常です。打撲、捻挫などの外傷もありません。ベッドから降りている間に睡魔に襲われた様です。」
「それで、弾みで緊急通信を押したんだな。」

 ヤマザキは自身の手でもう1度患者の身体をチェックした。そばに長官がいることなど、完全に無視だ。だがリンは腹が立たなかった。疚しいことをした後は、無関心でいてもらった方が助かる。
 ヤマザキがハイネの上体を抱きかかえた。看護師が指示なしで動き、患者の脚を持って、2人掛かりでハイネをベッドの上に横たえた。

「骨と皮だけのくせして、重い爺さんだ。」

とヤマザキが文句を言った。看護師が苦笑した。

「老人の骨じゃないですね。」
「うん、80を過ぎたとは、とても信じられない。何から何まで全部40歳程度だ。」

 2人は口をつぐんだ。ハイネが目を開いたからだ。突発性睡眠は何時襲ってくるかわからないが、何時解けるのかもわからない。
 リンは緊張した。ハイネが何を言うのか、聞いておかなければ、今夜は眠れない。
 ヤマザキ医師が陽気に「こんばんは、局長」と声を掛けた。ハイネが目を動かして彼を見つけた。

「何か?」

と彼が尋ねた。声は殆ど出なかったのだが、リンには充分聞こえた。ヤマザキが微笑んで説明した。

「貴方は床の上で寝ていたんですよ。覚えていませんか?」

 ハイネは顔をしかめた。そして数十秒後に「いいえ」と答えた。

「ベッドから降りたことは覚えていますか?」
「何時?」

 話が少し咬み合っていない。ヤマザキが優しく会話を終わらせた。

「思い出せないのなら、それでかまわないですよ。でも、これは覚えておいて・・・朝食は7時半です。遅れないように。」