2018年4月1日日曜日

泥酔者 5 - 1

 夜空は澄み渡っている。風が少しひやりとして心地よい。ケンウッドは端末を出して大気中の放射線量を測定した。人体に影響はない。気温も適温、湿度も少し乾いているが乾燥しているとは言い難い。大気中のバクテリアも標準だ。ただし、ドームの中の空気に比べると「汚い」。
 足音が近づいて来た。

「お待たせしました。」

 彼は振り返った。アイダ・サヤカ博士が立っていた。私服で、小さなバッグだけ持っている。重力休暇を取るには軽装過ぎる。彼女はケンウッドと共に直ぐに帰ってくるつもりなのだ。子供達と会わないのか、とケンウッドは彼女の決意の固さの度合いに内心溜め息をついた。子供と会ってしまうと決心が揺らぐのか?
 2人はシャトルに乗り込んだ。夜中の出発は、ドーマー達に知られたくないからだ。月の地球人類復活委員会本部で、彼女は委員会に彼女の身に起きたことをこれから報告する。執行部が喜ぶとは思えない。最悪の場合、彼女はこれきり地球に戻って来られない可能性もあるのだ。
 座席に落ち着くと、2人は他の乗客が乗り込むのを10数分待った。アイダがバッグから紙製のクロスワードパズルを出して来た。地球ではどこでも販売しているクイズ専門の雑誌だ。ドームの住人達は端末でネットゲームをするが、時々昔からの遊びもする。電波が届かない場所でも遊べるし、安価で、時にはインテリアにもなる。
 シャトルが出発した。この夜は月が地球のこちら側にいるので所要時間は3時間だ。月から来る場合だと2時間で済む。
 ケンウッドは黙っているのが辛くなったので、そっと彼女に囁いた。

「彼には何も言わずに?」
「ええ・・・」

 アイダはパズルから目を離さなかった。

「もう休んでいる時間でしょう?  今日は朝食の時に彼と会ったきりです。」
「正直なところ、私は驚いています。彼は今迄何も態度に出さなかったので。」
「私も・・・」

 彼女は雑誌を閉じた。しかしケンウッドの方は見なかった。

「ずっと私の一方通行だと思っておりました。だから・・・もう十分だと思ったのです。自分の気持ちを誤魔化してずっと彼の側で働くのはもう無理だと・・・。」
「つまり、貴女は彼から逃げる為に辞表を提出したのですか?」
「・・・お恥ずかしい限りですが、その通りです。孫は言い訳に過ぎません。」
「法律が貴方方の邪魔をしている。それはわかります。しかし、ご自分の心に嘘をついてはいけません。これからずっと後悔されるところでしたよ。」

 ケンウッドは隣の女性をそっと窺い見た。彼女は目を閉じていた。口元に小さな微笑を浮かべていたので、きっと今朝求愛された時の様子を思い出しているのだろう。
 アイダ・サヤカはマーサ・セドウィックとは全く違ったタイプの女性だ。小柄でぽっちゃり系で、子供の様にはしゃいだり、賑やかに仲間とふざけたりする。ドーマー達にとって優しく頼もしいお袋さんのイメージだ。ヤマザキがかつて「キーラ・セドウィックは女帝だが、アイダ・サヤカは観音菩薩だ」とからかったことがあった。

 ハイネも彼女の母性に惹かれているのだろう・・・

 実際にドームに来た時に彼女は既に母親だったのだから。
 彼女が地球永住権を取って子供に会えなくなるのは避けたい。それに永住権を取れたとして、ドームに残れると限らないのだ。
 彼女が外に出てしまえば、ハイネに二度と会えなくなる。それでは宇宙に帰ることと変わらない。