2020年7月18日土曜日

蛇行する川 2   −4

 森の小径は踏み固められたダートで両脇に背の低い草花や低木が生えている。ケンウッド博士は植物を見るために身をかがめた場所以外はゆっくり歩くだけで無視した。本当に探し物をしている様子だ。立ち止まった記憶がある場所は徹底的に捜索するのだから。
 シマロンは昨日の博士の服装を思い出してみた。普通の市民と同じボタンダウンのコットンシャツとジーンズだったと思う。

「指輪は胸ポケットに入れていたのですか?」
「うん。きっと下を向いた時に転がり落ちたのだと思う。」
「いつもそこに?」
「ドームで働いている時はアパートの小物入れに保管しているのだよ。宇宙に行く時にだけ持ち出すのだが・・・」

 博士は「宇宙に帰る」とは言わずに「宇宙に行く」と言った。すっかり地球に住み着いてしまった口ぶりだ。
 コロニー人で地球に住み着く人のほとんどは貿易や研究などのビジネスに携わっている。博士もその1人だろう。そして彼等には常に「重力障害」と言う病気の危険性がつきまとう。宇宙空間で暮らす人間はそれぞれの生活環境で人工的に創り出される重力の下で生まれ育つ。人間が生きるために必要な重力だ。しかし母星である地球の重力は人工的重力より強いらしい。コロニー人は地球上で激しい運動を長時間続けられない。筋力はあっても持久力はあっても、地球の大地が引っ張る力にいつか負けてしまう。静かに暮らしていてもその影響が出るので、地球在住のコロニー人達は「重力休暇」と言う習慣を守っている。定期的に月や火星などの近いコロニーに移動して数日間体を休ませるのだ。コロニー人にとってそれは「帰る」のであって普通は「行く」とは言わない。彼等は長くてもせいぜい数年で地球を去るからだ。
 しかしケンウッド博士は地球のことをあまり熟知している様に見えないにも関わらず、地球にすっかり馴染んでいたし、長年住んでいる匂いを漂わせていた。

 きっとドームに篭りっきりの人なのだ。ドームでは毎日赤ん坊が生まれる。この人はそれを管理しているんだ。今回の様に遊びに出かけるなんて経験はない筈だ。

 シマロンは、だからこの人は子供の様に無邪気に自然を楽しんでいるのだな、と理解した。

「宇宙に行く時だけ持ち出す特別な理由でもあるのですか?」

 ははは、とケンウッド博士は小さく笑った。

「笑わないでくれるかな?」
「笑いませんよ。まだ何も聞いていませんから。」

 そうだね、と応じて、ケンウッド博士は立ち止まった。ちょうど少し開けた場所で木製のベンチが設置されていた。ヴァンスが几帳面に管理しているのか、それともボランティアが丁寧に巡回して掃除しているのか、ベンチは綺麗だった。シマロンは休憩しましょうと博士をベンチに座らせ、菓子パンの朝食を取らせた。お腹が落ち着くと、博士は先刻まで額に刻んでいた浅い皺を消した。

「いい歳をした小父さんが玩具の指輪ごときで朝っぱらから大騒ぎするのが、不思議だろうね。私も考えたら可笑しいと思うよ。」

 博士はコーヒーを一口飲んで続けた。

「私の友人夫妻には三つ子がいてね、そのうちの1人がシュリー・セッパーだ。本名はもっと長いのだが、本人が仕事で便利だからと縮めて使っている。
 私は子供達が生まれる前から夫妻の家に出入りして、生まれてからも重力休暇の時は必ず立ち寄った。だから子供達にとって私ともう1人いる友人は親も同然の存在なのだ。いくらでも甘えられる優しい小父さんで友達だね。
 三つ子が5歳の誕生日を迎えた時に、私は彼等にプレゼントを贈った。何を贈ったのか、実のところ覚えていないのだが、子供は記憶している。半年経ってまた出会った時に、シュリーがお返しだと言って、玩具の指輪をくれたんだ。結婚指輪よ、おじちゃま、ってね。」

 シマロンは「へぇ」と言うしかなかった。ケンウッド博士は続けた。

「私は有難うと受け取って、すぐに忘れてしまったのだが、次に会った時に彼女が私の指に指輪がないと言って怒ったのだ。実のところ、子供の玩具だから私の指にはサイズが合わないし、現物は地球に置いてきたので、謝るしかなかった。それ以来、私が友人の家を訪問する度にシュリーの指輪チェックが始まったのだ。」
「持っていないと怒るんですね?」
「うん。彼女は三つ子の中で一番気が強い子で、リーダー格なのだよ。機嫌を損ねると3人で報復される。」

 シマロンは思わず笑ってしまった。ドームの最高責任者が小さな女の子のご機嫌取りに玩具の指輪を後生大事に持ち歩いているのだ。

「今回の旅行にもその指輪を持って来られたのですね?」
「うん。いつチェックが入るかわからんからね。昨夜寝支度をしていて、失くしたことに気が付いて顔面蒼白になった。」
「シュリーには告げていない?」
「言える訳がないだろう!」
「サンダーハウスの中にはなかったのですね?」
「通った場所は全部チェックしたが見つからなかった。私は客人だから、行動範囲は広くない。あそこは普通の集落に見えて実際は実験場だから、無闇に出歩けないのだ。それに私は電磁波の研究者ではないし、大気汚染の研究もしていない。ただの遺伝子学者だ。宿舎と見学者が立ち入りを許される施設しか入れない。昨日はこの町から戻って宿舎から出なかったから、見学施設に落とした筈はないんだ。」
「昨日の朝、散歩に出る前は指輪はポケットにあったのですね?」
「うん。自分で入れたから覚えている。」

 ケンウッド博士にとって指輪を守るのは若い友人との約束を守る意味があるのだろう。指輪を贈ったシュリー・セッパーの方はどんな意味を込めているのだろう。
 パンを食べ終えたケンウッド博士は包み紙を丁寧に畳み、空になったコーヒーの容器の中に入れた。そしてそれを片手に持ったまま再び指輪捜索を開始した。